第8話

「にわかには、信じられないけど……子供を信じるのは親の役目みたいなものだし、何より二人共、嘘をついてる目じゃないしねえ」


 腕を組みながら、目を閉じて独り言を呟くように言う里佳に、佳撫は不安そうに服の裾を握る力を強めてきた。


「森羅、だったっけ? その世界のあたしは貴方を生んで死んだのね?」


 目を開けて、佳撫の瞳を真っ直ぐに見据えながら里佳が確認するように尋ねる。


「す、すみま、せん……」


 別世界の、とは言え、母親その人に責められているとでも感じたのだろう。

 佳撫は小さく震えながら、心底申し訳なさそうに深く頭を下げた。


「あ、べ、別に責めている訳じゃないのよ?」


 慌てたように両手を振る里佳に、佳撫がおずおずと顔を上げる。

 その瞳は恐れと疑問で揺れていた。


「むしろ、責められるべきはあたしの方。この世界では貴方を、ちゃんと生んであげることができなかったんだから」


 里佳は佳撫に近づいて今度は自分から抱き締めると、その耳元で、ごめんね、と小さく囁いた。

 そして、佳撫の頭を優しく、正に自分の子供を慈しむように撫でた。


「母、様……」

「こっちの医療では基本的に母体の安全を優先するし、何よりあたしも直前に意識を失ってたからね。……でも、もしもあの時、意識を失わずにいられたら、きっと貴方を生んだはず。その結果として、あたしが死んでしまうとしても、ね」

「そんな――」

「あたしはね。母親ってものはそういうものだと思ってるの。そして親ってものは子供のためなら、命も人生も、自分の全てをかけることができる存在だと思う。きっと、そっちの世界のあたしも同じことを考えてたはずよ」


 それは昔、徹も聞いたことがあった言葉だった。

 それを果たせなかった、という深い悔恨と共に。

 だが、佳撫という存在はその後悔を幾分か和らげてくれるかもしれない。


「だから、そのことで貴方が気にする必要は全くないの。むしろ貴方には胸を張って生きて欲しい。ね? 佳撫」


 いつの間にかぽろぽろと涙を頬に落としながら、はい、と頷く佳撫に、その涙を指で優しく拭って微笑みかける里佳。

 慈愛に満ちた母親の表情になっている彼女の目も僅かに潤んでいる。

 その光景に徹も思わず目頭が熱くなった。

 だが、本当に里佳が命と引き換えに佳撫を生んでいたら、兄妹二人きりで生きなければならなかったのだろうか、と無粋にも分岐の是非を考え、すぐに思い直す。

 その場合は父親が事故に遭うこともなかったかもしれないし、それ以上に兄妹二人きりだったとしてそれで必ず不幸せになると思い込むのは明らかに間違いだ。

 ただ、どちらの場合でも、残された方が後悔と自責の念を背負って生きていくことになるのは確かだろうが。

 そして、このような常識外の状況にでもならない限り、その重荷が僅かばかりでも軽くなることはないに違いない。


「それにしても、四日後の血戦、か。面倒なことを押しつけられたもんね」


 しばらくして佳撫から体を離した里佳は、徹へと視線を向けて強烈な怒りを押し殺したような無理矢理な冷静さと共に言葉をかけてきた。


「佳撫。そっちの世界にはあたしも行けるの?」

「え? あ、はい。母様は森羅では亡くなっていますから、大丈夫だと思います」

「そういう基準だったのか? ……もしかして、だから佳撫はあの時、自分はこの世界では生きることを許されなかった、って言ったのか?」


 徹がそう尋ねると、佳撫は、そうです、と小さく頷いた。


「世界を移動するには、移動先の世界に存在可能性を持ちながら、存在していない必要がありますから。つまり、別世界の自分が死んでいる必要があるんです」

「最初から存在してない、では駄目な訳か」


 森羅の佳撫がこの世界を訪れることができた以上、この世界の佳撫は既に死んでいなければならない。

 その上で生死の分岐が出産時にあるのなら、佳撫を命と引き換えに生んだ里佳は生きている可能性が高くなる。

 世界を繋ぐ以前から、佳撫はそこまで推測していたのだろう。


「まあ、無生物や符号呪法の産物であれば無条件で移動できますけど」

「無生物や、符号呪法の産物……ああ、成程」


 そうでなければレオンはこの世界に来られないし、世界を移動する度に服が消え去っているはずだ。

 生物でなければ細かい検閲はされない、というところか。


「後、世界間の差異もある程度大きい必要があります。世界と世界の過剰な干渉、融合を避けるためにも。兄様はあちらの世界を経験したので、何となく分かると思いますが」


 確かに世界観レベルで根本的な違いがあったし、ところどころ文化的な部分でも異なっていた。

 符合呪法という名の常識外の力はその証だし、佳撫の恰好を見ても一目瞭然だ。

 しかし、やはりここまで世界観が違っていると必然的に一つ疑問が生じる。


「でも、よく考えるとそれっておかしいんじゃない? 世界にそこまで大きな差異があったら、あたし達はそもそも存在してない可能性の方が高いでしょ? 家系図的に全く一緒じゃないと完全な同一人物にはならないんだから」


 そう。里佳の言う通りなのだ。バタフライ効果という言葉が示すように、僅かな差異ですら時間と共に世界に大きな影響を及ぼすことは想像に容易い。

 そして、実際にその相違のために佳撫と里佳の生死が分岐してしまっているのだ。

 それ以前の段階でも文化や文明の違いによって例えば、両親が出会わず結婚しなかった、という分岐をする可能性だって大いにある。

 むしろ両親が存在していない可能性すらも。


「確かに普通に考えればあり得ないことだとわたしも思います。でも、宇宙には数多の分岐があり、無数の可能性、無限の並行世界があります。たとえ限りなく零に近い確率でも確かにあるんです。そして、あるのなら、わたしの力は自動でその世界を選び取ることができます」


 つまり都合のいい世界ありきの逆算的な力であり、それによって導かれたのが現状という訳か。並行世界が無限に存在するという事実を前提に置いて考えれば、確かにあり得ないことではない。


「それにわたしの力は世界全体ではなく、一部分を繋げるだけですから。わたしを基点にした周囲が条件に当てはまってさえいれば大丈夫なんです」


 最低でも自分に繋がるまでの家系図が一致してさえいればいいようだ。

 優司や姫子というところにまで同一人物がいるのは、その条件の一致率が高い、ということなのだろう。


「成程ね。で、結局のところあたしがそっちの世界に行くのに問題はない訳ね?」

「は、はい。でも、一体何を?」

「勿論、あたしが優司君をぶっ飛ばしてやるのよ。生きるか死ぬかの勝負なんて、ハッキリ言って徹にはまだまだ早いからね。そっちの世界に行けば、あたしも符号呪法とかいうのを使えるようになるんでしょ?」


 一切冗談の色を含まず、さらっと言い放たれた言葉に佳撫共々一瞬理解が遅れ、居間に沈黙が流れる。

 先にその意味を理解したのは佳撫のようで、彼女は驚愕の表情と共に口を開いた。

「む、無茶です! 母様の力は恐らくわたしと似た空間移動ですから、それでは優司さんには勝てません!」

「力の種類が事前に分かるの?」

「ある程度は分かります。研究の結果、遺伝子で大まかな系統が決まると明らかになっていますから。それにあちらの母様はそうだったと聞いています」

「でも――」

「お願いですから、やめて下さい! 勝てるとすれば、兄様しかいないんです! 兄様を戦わせるなんて、酷い話だとわたしも思います。それでも、兄様の方が母様よりも遥かに可能性が高いことだけは確実なんです!」


 涙目になって必死に止める佳撫に、さすがの里佳も困ったように口を噤む。

 徹としても、いくら戦いを回避したいからと言って、さすがに母親を身代わりになどしたくなかった。それでは本末転倒もいいところだ。


「と言うか、母さん、四日後は仕事でしょ?」


 四日後は日曜日だったが、里佳はシフトでは日勤の日だったはずだ。


「う。そ、そう、だった。親の責任もそうだけど、社会の責任もきちっと果たさないといけない、って自分が口酸っぱくして言ってることだもんねえ」

「そうそう。こっちは俺と佳撫で何とかしてみせるから――」


 先程まで打つ手なしだったのに何を言っているのか、と自分でも呆れてしまう。

 それが根拠も何もない言葉だとは理解している。もしかしたら自分は相当に甘っちょろい予測をしているのかもしれないとも思う。


「心配しないで、母さん」


 それでも徹はこの人にこれ以上の重荷を背負わせたくはなかった。

 いつも何をするにも子供自分のために行動していることが痛い程に感じられるから。

 佳撫の肩に手を置いて、その思いを込めるように母親の目を真っ直ぐに見詰めると、彼女は複雑そうに深く溜息をついた。


「妹ができりゃ男は強くなる、のかね」


 それは皮肉っぽく、お前のそれは明らかに虚勢だろう、と見透かしているような言い方だった。それでも、佳撫との出会いで虚勢を張れる程度の強さを得られたのは確かなはずだ。

 そんなものは、百が上限で一が二になった程度の些細なものに違いないが。


「……分かった。二人を信じて任せる。ただし、絶対に死なないこと。約束よ。いい? もし破ったら、あたしも追いかけるからね」

「うっ、も、勿論」


 躊躇いもなく里佳の口から出た脅しを含んだ言葉に軽く畏怖の念を抱きつつ、それでもそれこそ虚勢を張って徹が頷くと、里佳もまた小さく頷き返してくれた。


「じゃあ、この話は終わりにしましょ」


 そして、終了の合図とするように里佳はパンパンと手を叩いた。

 それから、何かを探すように周囲を見回し始め、部屋を一通り見渡した後、彼女は不思議そうに首を傾げた。


「母さん?」

「ところで、食料品、どこやったっけ?」

「……いや、玄関でしょ」


 徹の答えに、ああ、そっか、と玄関に向かう里佳。

 普段彼女はそのような物忘れはしないのだが、余程玄関に女物の靴があったことが衝撃的だったのだろう。

 つまり、それだけ珍しいことだと思われた訳だ。

 それは少々悲しい評価かもしれないが、事実なので仕方がない。これまで何よりも学業を優先させてきたのだから。安定を得るために。


「兄様、どうかしましたか?」

「ああ、いや、何でもないよ」


 どうにもこれまでの自分を振り返って複雑な表情をしていたようで、佳撫に心配そうに見上げられてしまった。

 何にせよ、今考えるべきことはそんなことではない。

 死んでしまえば、それどころではないのだから。


「さて、と。今日の晩御飯は三人分か。買ってきた分と冷蔵庫の中の残りものをフル活用して、今日は豪華に行くとしますか」


 買い物袋をキッチンにある台に置いて、いつになく気合いの入った調子で里佳が晩御飯の準備を始める。


 佳撫がいるから、というのが大きな理由だろうが、それと同じぐらい明日から四日後の血戦まで自分が森羅で過ごさなければならなくなるから、という理由もあるだろう。徹は母親の性格からそう思った。


「じゃあ、二人共、適当に待っててね? あ、徹。いくら可愛いからって、妹に手を出したりしちゃ駄目よ?」


 しかし、そうした真面目な理由を欠片も感じさせない悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、馬鹿なことを言い出す通常運転な母親の姿に、徹は心の中では感謝しつつも深く溜息をついて苦笑した。


「兄様が、わたしに……」


 隣では佳撫が里佳の言葉を真に受けたのか、頬を紅潮させながらぽうっとしていた。そういう反応をされると、妙に意識させられて困る。


「佳撫」

「ひゃ、ひゃい!?」


 が、さすがに裏返った声で返事をする佳撫の様子はおかしくて、徹は思わず吹き出してしまった。

 それで互いに妙な雰囲気からは解放されたが、佳撫は、酷いです、と唇を尖らせていた。


「とにかく、座って待とう。な? 佳撫」


 言いながら佳撫の手を引くとそんな不機嫌そうな表情も長続きせず、彼女は素直についてきてソファーにちょこんと座った。


「母さんに会って、どうだった?」

「えっと、聞いていた通り、でした。思った以上に」

「最初はびっくりしたんじゃないか? いきなりテンションが高くて」

「は、はい。少しは……」


 佳撫は申し訳なさそうに言って、視線で里佳の様子を窺った。


「でも、母様はとても素晴らしい方だと思います。こうして会って話をすることができて、本当に嬉しかったです」

「そっか。なら、よかった」

「はい。……だからこそ、兄様は絶対に生きなければならないんです。どんなことをしてでも。兄様自身のためにも。母様を悲しませないためにも」


 手を取って真っ直ぐに瞳を向けてくる佳撫に頷く。

 あの母親の脅しは冗談では済まない。

 追いかけると言ったからには本当にそうするだろう。

 半ば彼女の命もかかっているようなものなのだ。絶対に死ぬ訳にはいかない。


「一緒に考えましょう、兄様。諦めたりしないで」

「ああ、ありがとな。佳撫」


 そんな佳撫の手を強く握り返すと、彼女は優しく微笑んでくれる。

 そこには恥ずかしさよりも充足感を与えてくれる温もりがあった。

 現実を見れば、里佳が帰ってくる直前と閉塞的な状況は変わっていない。

 しかし、里佳のおかげで家族としての繋がりの強さが増したような気がして、だからこそ、佳撫と一緒に道を探れば何とかなりそうに思える。

 それがたとえ単なる錯覚や愚かな現実逃避に過ぎなかったとしても、今この場では徹の心を落ち着かせてくれていることだけは確かだった。

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