第2話

「兄様、兄様!」


 ゆさゆさと体を揺すられる感覚と心配の色が滲む緊迫した佳撫の声に、徹は意識を取り戻した。意識を失う直前にその前兆を感じていたため、自分が気を失っていた事実を微かに自覚しながら。

 日の高さから考えて、そう大した時間気を失っていた訳ではないようだ。

 周囲の確認はまだだが、頬を撫でる風が運ぶ青臭さから自然の中にいることは分かる。が、起きがけの頭ではその意味も異常さも理解できずにいた。


「この程度で意識を失うとは、軟弱だ、なっ!」


 嘲るようなレオンの声。しかし、言葉尻は気合いを込めたように強い。

 侮蔑の色の濃い声に反感を抱くと共にようやく意識が完全に覚醒し、徹は彼の方に睨むような視線を向けた。


「なっ!?」


 瞬間、目に映った光景に思わず息を呑む。

 彼は長刀を巧みに操り、何かを切り刻んでいた。

 模造刀か竹光だと思っていたが、どうやら真剣だったらしい。

 が、問題はそれではない。それはまだ常識の範疇だ。

 徹はレオンが対峙している相手の姿に衝撃を受けていた。

 その余りに異常な存在に。

 それらは、その辺に転がる自然物を無理矢理押し固めて作り出されたような奇怪な人形達だった。

 中には水を、決して固体としての水、氷ではなく、液体としてのそれを集めて形作られながら、人型で安定しているものまで存在している。


 徹は自然的な美を兼ね備えるそれらに、根源的な恐怖、畏れのような感情を我知らず抱いていた。

 それは恐らく、その存在自体の異常さもさることながら、周囲に生い茂る草木や咲き誇る花々との異様なまでの一体感のために、自然全てが襲いかかってくるような錯覚を抱いてしまったためだろう。


「何だ、これは……」


 ことの異常さにようやく頭が追いつき、しかし、その意味を理解できず、徹は呆然と呟きながら周囲を見回した。

 つい先程まで帰宅の途にあったはずなのに、毎日歩いているその道にはない自然に溢れた風景が目の前に広がっている。


「それに、あれは――」


 何より、常識外の出来事が目前で展開されていることに動揺は強まるばかりだ。


「あれは、アニマと呼ばれる存在です。人間の想念、怒りや憎悪などの負の感情によって歪められた自然、その化身。正にその発生の原因のために人間を襲います」


 そのアニマ達から徹を守るように傍らに立ち、それらに厳しい視線を向けている佳撫が答える。気丈に振舞ってはいるが、微かに彼女は震えていた。

 そう佳撫が話す間にも、レオンはアニマを次々と一刀の下に切り伏せていた。

 化物然とした存在だったが、それらは切り裂けば倒れ、自然に還っていくようだ。

 しかし、アニマは絶え間なく現れ、状況的には均衡が保たれている。


「さすがにこの数は少々厳しいか。……やはりこの場で行うべきだな」


 忌々しそうに呟きながら、レオンは眼前に迫っていたアニマを斜めに切り上げると同時に、バックステップで徹達のところまで下がってきた。


「意識を取り戻したのなら、使わせて貰うぞ」

「レ、レオン!」

「何のために連れてきたのかを忘れるな、佳撫」


 レオンが佳撫に冷たく言い放つ隙にもアニマは更にその数を増やし、徹達を取り囲みながら、しかし、レオンを警戒するようにじりじりとその包囲を狭めていた。


「お前、何を言って――」


 本能的な身の危険を感じつつ発したその言葉を遮るように、レオンが右腕を乱暴に掴んできた。その痛みに思わず表情が歪む。


「黙っていろ。軟弱者が」


 吐き捨てられたレオンの言葉が耳に届くと同時に、彼に掴まれた右手に何かが侵入してくるような強烈な違和感を抱く。

 それに合わせるようにレオンの姿が少しずつ曖昧になっていき、完全にその場から消え去ってしまった。


「な、何だ。一体、何が」


 そして、意思に反して激しく痙攣し出す右手。

 自分の体ではなくなってしまったかのようなその動きに、目の前の脅威よりも直接的な恐れが湧き上がる。

 アニマ達もそんな徹の異常に何か危険を感じ取ったのか、距離を保って様子を見ているようだった。


「大丈夫。大丈夫です。兄様」


 そう繰り返しながら、佳撫が異様な震えを続ける徹の右手を、その小さな両手で抱き締めるように優しく包み込んでくる。

 ただそれだけで僅かに心が落ち着くが、逆にそのことが徹を戸惑わせもしていた。

 初対面のはずの彼女の温もりに、何故か覚えがあるような気がして。


「き、君は……」


 彼女の柔らかな感触が効いたから、という訳ではないだろうが、やがてその震えは小さくなり始め、代わりに青い不思議な光が放たれ始めた。

 光源としての眩い光とも、単なる照り返しとしての光とも違う、何か概念的とでも言うしかない光が。


「やはり、兄様は兄様でした。けど、これでは……」


 佳撫は悔いるように俯きながら、徹の手から両手を離して一歩下がった。

 やがて青い光は右腕の中に収束するように弱まり、同時に右手に感覚が戻ってくる。何かを掴んでいる覚えのない感触と共に。


「これは――」


 戸惑いつつ視線を下げると、いつの間にか徹の右手は輝く青に染まった西洋的な両刃の片手剣を握り締めていた。


『どうせ、その細い体では運動もろくにしていないのだろうし、剣など扱ったこともないのだろう? 体を使わせて貰うぞ』


 消え去ったはずのレオンの声が右腕から響き、それを合図に今度は右手だけでなく全身が言うことを聞かなくなってしまう。

 体は勝手に剣を下段に構えており、そこからは何者かの明確な意思を感じ取れる。

 レオンの言葉通り、彼に操られているかのようだ。


「レオン、無茶は――」

『この程度で壊れるなら、その程度だ』

「ま、待て。どういう――」


 ことだ、と徹が尋ねる前に体がレオンの意思で動き出し、続く言葉を発することはできなかった。

 そのまま彼に操られた体は徹の意思などお構いなしに、本来の身体能力を遥かに超えた速度でアニマへと駆ける。

 次の瞬間、徹の耳には筋肉が派手に断裂したような嫌な音が届いていた。

 更に空気を切り裂く音をそれに重ねながら、右腕が高速で振るわれる。

 徹には剣が一筋の線となって走ったようにしか見えなかった。


 徹の身体能力では明らかに不可能な挙動。

 当然の帰結として肉体はついていけず、はっきりと損傷した音までもが響いたにもかかわらず、その痛みも何も感じないままに無茶な動作は更に続く。

 切断という機能には必要ない美しさを兼ね備えた両刃の剣が幾重にも直線を空に描き、その度にアニマが千切れ飛んでいく。

 徹如きの目では剣尖を追いかけることなどできる訳もなく、ましてや見切ることなど言わずもがなだった。

 だからか、目の前の出来事から現実味が急激に失われていく。

 加えて、体の支配権を奪われたせいか、眼前で展開される異常事態から現実逃避してしまっているのか、命の危機にある、という意識すらも皆無と言っていい程希薄になっていた。

 まるで画面越しにその光景を眺めているような非現実感。痛覚までもが麻痺しているらしいこの状態も、そう勘違いさせる要因かもしれない。


『道は開けた。走れ!』


 右腕から発せられた言葉に我に帰ると、レオンに操られた体は左手で佳撫の肩を抱きながら走り出していた。

 見ると確かに一角が崩れ、道ができている。

 動きは全て支配され、感覚も制限されているようだったが、どうやら触覚は残されているようで、左手には佳撫の女の子らしい柔らかな感触だけがあった。

 視界に映る何もかもに現実味がなく、まるで夢を見ているような不確かな感覚の中、それだけが確かな現実のように感じられて自然とそれに意識が集中する。

 とても温かなその感触が、徹には懐かしかった。

 そうしてアニマの包囲を脱した後、レオンに操られるままに佳撫と並んで駆けていくと、やがて左右を見渡しても果てが知れない壁が眼前に現れた。

 ところどころに城壁のような見張り場が認められる。


『戦闘終了だ。体は返すぞ』


 その前で足を止めたレオンのそっけない言葉を合図に、再び青い輝きが右腕から放たれる。その光の中で、メタルブルーの片手剣は同色の腕輪へと姿を変えて右手首に納まった。

 同時にようやく体の支配権が戻ってくる。


「い……一体、何なんだ!? 訳が分からない!」


 それに合わせて急激に現実味もまた戻ってきて、途端に現状への疑問が徹の思考を埋め尽くした。

 そして、思わず叫ぶように問いを言葉にしながら、手の中の温もりに縋るように佳撫の手を握る力を強めてしまう。


「それに、さっきのだって――」


 アニマという明らかに異常な存在。簡易ながらその説明を受けても、それをそのまま受け入れることなどできる訳がない。

 日常、その常識から余りにもかけ離れている。

 はっきり言って、あり得ない。いや、あり得てはいけない。

 それ以前に、この妹を名乗る少女とその身に起きた現象、彼女が生み出した光の扉、そして、レオンと呼ばれ、現在は腕輪と化している存在もまたそうだ。

 まるで異世界にでも迷い込んでしまったような、とそこまで考えて思考が止まる。


「……異世界? まさか――」


 夢でなく現実にそんなことが自分に起こるとは到底思えない。思えないが、しかし、実際に放課後の帰り道に二人と遭遇している以上夢だと断じることもできない。

 夢でないとすれば、その想像はしっくり来てしまう。

 そんな発想が出たのは、光の扉という形の現象を目の当たりにしたせいか。


「いや、でも、そんなことは……」


 それでもやはり思考の根底に刻まれた常識はそれを否定しようとする。

 だが、経験は更にそれを否定していた。

 ならば、目の前で展開された出来事、周囲の状況をどう説明するのか、と。


「兄様の考えている通りだと思います。ここは兄様の世界に並行して存在している、どこか似た、しかし、確実に別の世界です。その名を森羅と言います」


 真摯な口調と共に、嘘の気配など欠片も感じられない瞳で佳撫に見詰められ、徹は思わず目を逸らした。

 そんな彼女の目こそが何にも勝る決定的な証拠のような気がして。

 しかし、視線を逸らした先、今し方来た、手つかずの自然が多く残る道とそこに影を作る巨大な壁が逃避を許さない。


「……本当、なのか?」


 異世界。佳撫の言葉を丸ごと信じれば、並行世界、森羅。

 徹は佳撫と繋がっていない右手で頭を抱えながら自問した。

 何故、他の誰でもなく自分にそんな非日常が降りかかってくるのか。

 自分は望んでなどいないというのに、と。

 確かに小説や漫画を読んでは、そういう類のものに憧れていたことも昔はあった。

 しかし、今となっては夢やロマンに彩られた道よりも、波風の立たない平凡な人生をこそ徹は望んでいた。

 七年前に父を事故で亡くして以来、母一人子一人で母の苦労の上で生きてきたため、早く安定した生活を得て母を安心させたい気持ちの方が今では強いからだ。


「全て、本当のことです。わたしは兄様に嘘をついたりはしません」


 佳撫は静かにそう言いながら、彼女の右手をきつく握り締めていた徹の左手にもう一方の手を添えて、慈しむように優しくさすってきた。

 先程と同様にそれだけで波立つ心が静まる気がする。

 単に人肌に安心しているという理由だけではないだろう。

 だからこそ、やはりそのことに困惑が強まり、徹は握る力を弱めて佳撫の手を離そうとした。

 彼女が得体の知れない存在のように感じられたから。


「……君は、誰だ?」

「わたしは、兄様の妹です。兄様の世界では、生きることを許されなかった妹です」


 しかし、徹が弱めた分を補うように、今度は佳撫がその手に力を込めてくる。

 そうして見上げてくる彼女の瞳からは、家族にだけ向けられるような絶対的な愛情が確かに感じられた。


『そして、お前はこの世界で殺された徹の代用品だ』


 そんな彼女とは対照的に、混乱に追い打ちをかけるように冷たく言い放つレオンに、徹は完全に言葉を失ってしまった。

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