1A 二つの世界
第4話
あの日、世界の全てが変貌を遂げた日から約一ヶ月後。
正確には三五日目となる今日。
戒厳にとっては永遠のように長く感じられた日々がようやく終わりを告げた。
それは同時に、戒厳の復讐が始まることを意味していた。
(しかし、いい天気だ。まるで俺の門出を祝福してくれているみたいだ)
僅か一ヶ月のみとは言え、十七年の人生の中で二番目に長く過ごした研究所の前で見上げた一月末の空は、雲一つなく澄み渡っていた。
(まあ、今の俺を祝福する存在がいるとすれば悪魔ぐらいのものだろうけどな。いや、むしろ、あの日を見過ごして今日を祝福するような神や天使は俺には無用だ)
今日までの時間は、全て復讐という目的のために費やしてきた。
具体的には、新たに得た体に適応することに。
与えられた力の扱いを学ぶことに。
そして、己の覚悟を確かなものにすることに。
一介の高校生に過ぎなかった戒厳が決して生易しくない日々を耐えることができたのは、胸の内にある黒い感情のおかげ以外の何ものでもない。
あるいは、そのせいで耐えられてしまったと言い換えてもいいかもしれないが。
(何にせよ、ようやく……ようやくだ)
そして遂に今日。
ここ青森から故郷、北海道という名を失ったあの地へと向かうのだ。
「済まなかったな、戒厳」
背後からかけられた言葉に、戒厳は視線を空から降ろし、その声の主を振り返った。あの日戒厳の命を救い、力を与えてくれた恩人アナレス・アルキミアへと。
その傍らにはこの一ヶ月の間、身の回りの世話をしてくれた少女、サクラ・ミツルギも控えている。彼女の手には、視覚的に何やら細長いものが入っていると分かる布製の袋が握られていた。
「何のことです?」
「いらぬ横槍が入ったせいで、お前の体は不完全だ」
「ああ……そのことですか」
「任務遂行の不確定要素を潰すため、などというお偉方の下らない要求に従ったためにお前の性能は私の構想の六割程度でしかない。まあ、それでも奴等を殺すだけなら十二分ではあるのだがな」
「なら、十分でしょう。むしろ、お偉方の危惧は正しかったと思いますよ。その時になって殺人を躊躇する暗殺者なんて何の役にも立ちませんからね」
「……そうか」
アナレスは痛ましげな表情とは裏腹の坦々とした口調で呟くと、サクラへと視線を向ける。と、彼女は頷いて手に持っていた袋を戒厳に差し出してきた。
「これは?」
「餞別だ。以前渡したものは例の訓練で使いものにならなくなったと聞いた。これはそのようなことにならないように特殊な加工を施してある。いくら人間を斬ろうとも、欠片も切れ味は鈍らないだろう」
アナレスの言葉に耳を傾けながら、サクラからそれを生身の左手で受け取る。と、ずしりと金属の確かな重みを感じた。
その袋は中にあるものに合わせて縫われたようで細長く、余分な先端部分が折り曲げられ、紐で締められていた。
「開けても?」
アナレスが頷くのを待ってから、紐を解いて中身を確認する。
そこに入っていたのは長短二振りの刀だった。
拵えは一様に黒。僅かに鞘から抜くと、刃もまた黒く輝いている。
「助かります。結局、訓練で最も手に馴染んだ武器はこれでしたから」
静かに刃を収め、刀を袋に戻して紐をきつく結ぶ。
「ありがとうございました。色々と」
それからアナレスに深く頭を下げる。そんな戒厳に彼は「いや」と首を振った。
「私は私の、国は国の利益のためにしたことだ。お前が礼を言う必要はない」
「それでも俺が今生きていられるのは、そして、家族の仇を討つ力を得られたのも貴方のおかげです。それは確かな事実ですから。礼ぐらい言わせて下さい」
「……私としては不完全な状態のまま送り出さねばならないことが心残りだ」
「それは仕方のないことです。横槍以前に時間的な制約もあったんですから」
「そうだな。二つの世界が繋がった今、時代は過渡期に入った。一つの国の内部でさえ様々な思惑が入り乱れ、何ごとも予定通りには進まん」
「あの日の変化は余りに大き過ぎました。そこかしこに歪みを生むでしょうね」
一ヶ月前の聖なる夜。
あの日戒厳から家族を奪った光の柱は、故郷である北海道のみならず世界各地に降り注ぎ、数多くの人々と国を次々とこの世界から消し去ってしまった。
その現象が起こった地にいながら生き残ったのは、恐らく戒厳ただ一人だろう。
その真実を知らず、一時的に被害を免れていた者の間では、神の裁きだの、宇宙人の襲来だの、どこぞの国の新兵器だのと諸説飛び交っていたが……。
その中に一つとして正答はなかった。
現実というフィルターがあって尚、それだけ荒唐無稽な予想ができたのは、それだけ事態が常識から外れていたからに違いないが、事実はそれを上回って余りにも荒唐無稽だったのだ。
その事実とは、異世界からの侵略だった。
「二つの世界。この地球と、異世界テラ」
僅かに位相のずれた宇宙にあるそれは、この地球と根源では同一の星だ。
便宜上、あちら側の地球をその古い公用語で地球を示す語、
「天体の大きさから環境、大陸の配置、宇宙における位置もほぼ変わらない。重なった隣り合わせの星。しかし、位相のズレのためにこれまで認識できなかった」
戒厳はこの一ヶ月の内に学んだことを確認するように呟いた。
「……ん? そう言えば、どうして認識できないはずの異世界の存在が、テラでは知られていたんですか?」
恐らく直近の仕事には関係ないが故に意図的に説明を省かれていただろう部分に疑問が至り、アナレスに問う。
「ああ、それは――」
彼は語るべき内容を整理するように目を閉じ、それから再び目と口を開いた。
「テラの歴史では一万年程前まで二つの世界は一つだったとされているのだ。しかし、ある時、進化の可能性によって世界が分岐し、言葉通りの並行世界となったのだそうだ。テラという言葉はこちらでも大地を意味する言葉だが、その辺りの共通点は世界の、文化の根底が同じ証と言えるだろう」
「進化の可能性による分岐……あの力、ですか」
「そういうことだ」
たとえ文化の根底が似通っていても、地球とテラは確実に異なる世界なのだ。
それは、あの日あの場所で目の当たりにした現象によって証明できる。
「理術。あの日、俺の家族を奪った光が正にそれによるものでしたね」
一瞬赤く染まった世界と物言わぬ屍と化した人々の無残な姿がフラッシュバックし、戒厳は表情を歪めた。同時に胸の内にどす黒い衝動が湧き起こるが、今はそれに身を任せるべきではないと唇を噛んで何とか抑制する。
「お兄様……」
と、そんな呼びかけと共に、無意識に刀を砕かんばかりに握り締めていた左手を優しく温かな感触が包み込んだ。
それは、いつの間にか戒厳の傍らに寄り添っていたサクラの手の温もりだった。
「……大丈夫だ」
一度深く息を吐き、無機質な機械の右手を、純白のカチューシャを避けながら彼女の頭にそっと置く。
その時には戒厳の心を蝕もうとしていた激情は治まっていた。
彼女こそ、今となっては戒厳に安らぎを与えてくれる唯一無二の存在だった。
「ありがとう、サクラ」
言葉と共に感謝の気持ちを込めて、戒厳はその手をサクラの日本人同様に黒く艶のある髪のさらさらとした流れに沿わせた。彼女の鎖骨にかかる程度の長さのそれは、愛らしい顔立ちと相まって絶妙に幼さを醸し出している。
平均的な体格である戒厳の肩までの背の高さと小柄な彼女の頭は、手を乗せると実に納まりがいいことも相まって心が落ち着く。
そのため、こうして彼女の頭を撫でるのは半ば戒厳の癖になってしまっていた。
「はい……お兄様」
状況が状況故に普段とは異なり、そう言いつつも不安げに見上げてくるサクラ。
彼女にそんな表情をして欲しくなくて、戒少し抱き締め気味に体を引き寄せて髪をさらに丁寧に撫でる。と、彼女は目を細めて頬を戒厳の胸に預けてきた。
「よしよし」
そのまま十二分に時間を取って抱き締めてやり、サクラが満足して自分から離れるのを待ってからアナレスへと向き直る。
「俺が留守の間、サクラのこと、よろしくお願いします」
「ああ。……と頷いておいて何だが、普段は私もまた世話をされる立場にあるからな。私にできることは高が知れているが」
苦笑しながら発せられたアナレスの言葉に対し、戒厳の左腕に触れたままのサクラが「そんなことはありません!」と強く否定する。
「十年前の戦争で孤児となったサクラを拾って頂いただけでなく、お兄様と出会わせて下さいました。これ以上、ご恩情を頂いてはご恩返しができません!」
「お前の両親には幾度となく世話になったからな。だから別段、恩返しは必要ないといつも言っているだろう。むしろ、身の回りの世話や研究の手伝いまでして貰って私が感謝しているぐらいだ」
戒厳から見たサクラの現在の立場は、アナレスのメイド兼助手というところだ。
サクラの主張では前者の割合が多く、アナレスは後者でいいと常々言っている。
今は茶色い厚手のコートを羽織っているが、下には普段着になっている白と黒を基調としたエプロンドレスが隠れている。白のカチューシャも実に
彼女は自身の言葉通り、戦災孤児となった自分を引き取って育ててくれたアナレスに対して望んで恩に報いているのだ。
「だとしても、やはりご恩返しは必要です。アナレス様がお兄様と引き合わせて下さったことは確かですから!」
「……お前が戒厳のことを兄と呼ぶのはお前自身の選択だ。戒厳がお前のことを妹として扱うこともな」
サクラが両親を亡くしたのは五歳の時だったそうだ。
甘えたい盛りに親を失ったのだから、心の奥底では家族を求める気持ちは強かったに違いない。が、アナレスは恩返しの対象であって甘える対象ではない。
となれば、彼女がそういった感情を押し殺してきただろうことは想像に容易い。
そんなところへ、家族を全て失うという似通った境遇にあり、程よく年上の戒厳が現れればどうなるかは火を見るよりも明らかだろう。
果たして、彼女は戒厳を兄と呼んで慕うようになっていた。
戒厳自身も孤独感からそれを受け入れていて、そのため、この一ヶ月という短い間で本物の兄妹以上に近しい関係を築いていた。
共依存気味なのは自覚しているが、そこは境遇上大目に見て貰いたいところだ。
「だが、まあ、お前の好きにするといい」
「はい。好きにします!」
「とは言え、今日は私のことはいい。連絡は取れるとは言え、しばらく戒厳とは離れ離れになるのだからな」
そうアナレスが告げると、途端にサクラは表情を再び曇らせてしまった。
もう少しの間だけその事実を忘れていたかったのだろう。
「……復讐はお前の望みでもあったのだろう? 戒厳の家族の仇は、お前の両親の仇でもあるのだから」
「それは、勿論です。勿論ですけど……」
サクラは口を噤んでしまったが、それは寂しさからではなかった。
その声にははっきりとした怒りの色が浮かんでいる。
「サクラは、自分の国がお兄様をあんな目に遭わせるとは思いませんでした」
彼女は、お偉方の横槍、について憤っているようだった。
「しかし、戒厳の言う通り、理には適っている。私の研究の妨げにはなったがな」
「ですけど……」
「使い捨ての人体実験には囚人でも使えばいいが、実働させてデータを取るプロトタイプとなると慎重に人選をせねばならない。かと言って税金を投入した職業軍人をプロトタイプに用いるのは万が一の時に勿体ない。国民を使うのも面倒だ」
アナレスは「あちらにも様々な市民運動家がいるからな」と本当に迷惑そうにつけ加えて、更に言葉を続けた。
「故に身寄りのない現地人を使うということで落ち着いた訳だが、政治的な判断と時間の制約の中でプロトタイプを実戦投入する必要が出てきてしまった。まあ、私はどうせそうなると思っていたからこそ、被験者が戦い易いように復讐心を持つ者という条件を選定につけ加え、あの日あの場に向かったのだがな」
「とは言え、被験者、つまり俺が担う役割は敵主戦力の暗殺。対象の内の一人に特別に復讐心を持つにしても所詮平和ボケした日本の一般人上がりの人間が、一ヶ月程度の訓練で本当に人を殺せるのか不安に思うのは当然の流れです」
戒厳自身としても色々と思うところがない訳ではなかったが、努めて冷静にアナレスの言葉を引き継ぐ。
「で、でも、だからと言って、わざわざ死刑囚の斬首を繰り返して殺人に慣れさせるなんて、そんなの、余りにも――」
サクラが嫌悪するように呟く。それこそが、お偉方の横槍、の内容だった。
いくら死刑になる程の凶悪な犯罪者だとしても、そして、復讐を心に決めた瞬間から既に一人殺すことを確約したようなものだとしても、初日は抵抗感から刀を一ミリも動かせなかった。
結局理術で無理矢理体を操られて相手の首を斬り落とさせられたのだが、自分の意思ではないにしても、その最初の感触だけは今もハッキリこの手に残っている。
(けど――)
そうして何日かに渡って刑の執行を延々と繰り返させられた結果、殺人が悪であるという真っ当な倫理観や死刑の是非を完全に棚上げにし、心を殺して機械的に相手を殺すことができるようになった。
いや、ならざるを得なかった、というのが正しいかもしれない。
恐らく、そうなれなければ先に心が壊れていたに違いないから。
「そんな措置は、余りにも酷いと思います」
「そうだな。しかし、私が戒厳を実験に用いたことも非人道的と批判されるのは間違いないだろうし、この現在の日本における価値観では、お前が戒厳に復讐を託したことも褒められることではない。私達には上層部を責める資格はないさ」
サクラはアナレスの言葉に驚いた表情を見せた。
どうやら、彼が自身の所業を非人道的と評したことが信じられなかったようだ。
「アナレス様はお兄様を実験体にしたことを後悔しているのですか?」
「私は私の目的のために数多くの命を弄んできた。そこに罪悪感がない訳ではないが、後悔はない。私が後悔などしては、犠牲としてきた命に申し訳が立たない。悔やむぐらいなら、そんなことはしなければいいだけのことだからな」
静かに自分自身に言い聞かせるように告げたアナレスは、それでその話題は終わりとばかりに「それよりも」と口にしながら戒厳へと向き直った。
「いい加減、外で話を続けていても仕方がないだろう。太陽が出ているとは言っても、真冬であることに変わりはない。これからかの国の領土と成り果てた北海道へと向かい、使命を果たさねばならない戒厳が風邪をひいても困る」
それからサクラへと視線を落としたアナレスは、更に言葉を続ける。
「ここから先のことは全てサクラに伝えてある。分からないことがあれば、サクラに聞いてくれ」
「分かりました。では……行ってきます」
「ああ。たった一つの才能を己の拠りどころとしている愚か者共に、目にもの見せてやってくれ」
そう告げると同時にアナレスは戒厳達に背中を向けた。
「……これから先の世界にあのような愚劣な国も民も必要ない」
そして彼は、そう静かに呟くと研究所の中へと戻っていった。
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