第29話

『うおあああああああああっ!』


 もはや意味を成さない、阿頼耶の声でありながら獰猛な野獣のような絶叫が、火輪の聴覚を通してトラック内に響いていた。

 拓真達は彼女の目が見ているものをモニターに映し、彼等の様子を見ていた。

 見ていて何もできなかった。末那の体が砕かれ、地面に転がる瞬間も。


「ご主人様、末那が!」


 モニター前の椅子に座って一時も目を逸らさずに戦況を見詰めていた阿頼耶が、焦ったように立ち上がって叫ぶ。

 見ると、菴摩羅の巨体が連示をその爪で攻撃するために再び移動し始め、今正に機能停止した彼女の頭部を踏み潰そうとしているところだった。

 美穂が小さく悲鳴を上げて画面から視線を逸らし、目を閉じる。拓真はそれを見据えながら己の無力さを憎み、拳を爪が食い込む程に握り締め、唇を噛んだ。

 そして、同類の死を目に焼きつけようとしているかのように、火輪の視覚が末那の頭部をズームアップする。だから、拓真はその瞬間に何が起きたのか分からなかった。

 次の瞬間、その激しさが振動となって感じられる程の轟音だけがスピーカーから聞こえてきた。それはまるで大型車が壁に激突したかのような巨大な音だった。


「な、何だ? 一体、何が……」


 末那の頭部が映されたモニターには、いつまで経っても予想された映像が映らない。

 拓真は、末那の頭部を捉えたままで現状を映さないモニターに思わず苛立った。

 実際は火輪も瞬時にズームアウトし始めていたのだろうが、場を支配する重苦しい空気は、そう感じてしまう程に時間の感覚を狂わせていた。

 火輪の視覚がようやく全体を映し出した時、菴摩羅は倉庫の床面を抉りながら、その巨躯の底面、移動機構を火輪のカメラに晒していた。

 そこには半球形のタイヤが何ヶ所にも取りつけられている。それを傾かせつつ回転させることで、全方位へ移動していたようだ。


『ば、馬鹿な。この、力は――』


 驚愕の声は菴摩羅のもの。その前に立つのは連示、阿頼耶の姿。

 しかし、拓真はそれがそうだとは一瞬認識できなかった。その瞳は金色に輝き、顕になっている肌には鮮やかな赤い光を放つラインが浮かび上がっていたからだ。

 それはまるで全身を流れる血液のようだ。

 何よりやはりその形相。比較的柔和な雰囲気の連示からは全く想像できないような激しい憤怒の表情を、阿頼耶の顔が表している。

 拓真はその歪さに菴摩羅に対するより遥かに強い畏怖を抱いた。


「どう、なっているんだ?」

「リミッターが限定的に解除されました。第三ストレージバッテリーが起動し、電動機が高出力モードに切り替わっています。現在、皮膚の擬態機能が一部排除され、余剰電力を光の形で放出している状態です」

「リミ、ッター?」


 先程の焦りようとは打って変わり、落ち着いた口調で告げる阿頼耶に、拓真は違和感を抱いた。彼女の様子は、もはや勝負は決したと思っているかのようだ。

 そんな感覚と共に再びモニターへと目を向ける。既にその中から末那の頭部は消えていた。どうやら火輪が隙を見て回収したようだ。

 画面の中では菴摩羅が体勢を立て直し、連示と対峙していた。

 もはや表情も何も分からないが、菴摩羅は戸惑い、恐れを抱いているように見える。


「え?」


 次の瞬間、隣で美穂が呆けたような声を出した。

 一瞬何が起こったのか分からず自失したのは拓真も同じだった。

 皮膚を走る光のラインの残像を残して、連示の姿は予測を遥かに超える速度で菴摩羅へと向かっていったのだ。

 拓真の目は追いついていなかった。が、紅の光が尾を引くように空中に線を描き、直感的にそれが分かる。まるで火矢が一直線に飛んでいくようだった。

 菴摩羅が撃ち出す弾丸は、もはや連示が通り抜けた遥か後の床面しか削り取ることはなく、気づいた時には連示は再び菴摩羅の巨体を駆け上っていた。

 そこへ末那を砕いたマニピュレーターの爪が迫る。


『おおおおおおおおおおっ!!』


 しかし、連示はそれを上手く避けるとその腕の部分を掴み、全身から全ての力を引き出そうとしているかのように絶叫し、関節部分を無理矢理捻じ切った。


『何故だ。こんなことは予測になかった。その力は一体何なんだ!?』


 破壊されたアームはショートを起こしたように火花を撒き散らす。

 呆然とそれを眺めているかのように菴摩羅は動きを完全に止めてしまっていた。

 機械然として冷静だった口調からは明らかに焦燥の色が聞き取れる。

 連示はその問いに一切反応することもなく、ただ獣のように喚きながら、引き千切った残骸を無造作にその場に放り投げ、別のマニピュレーターを根元から引き抜いていた。

 あの装甲一つで八方塞に追い込まれていたとは思えない圧倒的な力だった。


「これが人間の非合理性。その最たるもの。感情の爆発です」


 モニターを真っ直ぐに見詰めながら、呟くような小さな声で連示の代わりに阿頼耶が答える。だが、その声は菴摩羅には決して届かない。


「確かにあの装甲は強固でした。ですが、所詮は装甲頼みの設計です。全てはあれを装備しつつ、私の速さに対応するためのもの。私達に負けないための上辺だけの力です。そのため、想定外の事態には酷く脆い。対して、私達の力は人間と共に未来を勝ち取るためのもの。いかなる状況にも対応できるように内面的な性能を重視しているんです」


 彼女は一人語り続けた。自分達の考え方は決して間違ってなどいなかったのだ、と自らに証明しているかのように。誇らしそうに。


「それに、超重量の機体の弱点は関節部分と相場が決まっていますからね」

「で、でもさ、何でいきなりそのリミッターが外れたの?」

「ご主人様の日常の状態から算出したある数値を、ノルアドレナリンの分泌量の数値が超えたためです。怒りは判断能力を低下させ、人間を超えた挙動を行っても精神的なショックを受けにくくしてくれますから」

「えーっと、それはつまり逆上して相手を倒すこと以外考えてないから、普通の人間なら無理な動きも脳が疑問に思わず処理できちゃうってこと?」

「簡単に言うとそうです」


 美穂はその答えに気が抜けたように微苦笑した。

 しかし、それで緊張の糸が切れてしまったのか、安堵の溜息と共にその表情には疲労が色濃く浮かび始める。

 もはやこの場には敗北の雰囲気など一欠片も残っていなかった。

 後は勝利という終局へと向かう流れに従うのみ。それ以外の結末などあり得ない。

 モニターに映し出されている映像はもはやなぶり殺しに近いものだった。既にマニピュレーターは全て引き千切られ、重火器は完膚なきまでに叩き潰されている。


『ああああああっ!』


 更に装甲を剥ぎ取り、叫びを上げながら内部のコードを引き千切る連示。

 既に菴摩羅の機体は機能を停止しているようだが、それでも破壊を止めようとはしない。


『これが本物の人間の感情なの?』


 立ち尽くしたように火輪はその瞳を、カメラを連示に向け続けていた。

 トラックのモニターには、恐ろしい形相で、しかし、どこか泣いているようにも見える連示の表情がアップで映し出されている。


「そう、だな。これも感情の一つのあり方だ」


 そうは言いながらも、ここまで強い感情の発露を目にするのは拓真も初めてだった。

 この停滞させられた世界では全く見られないもの。

 拓真は自分の心がそれによって大きく揺さぶられるのを感じていた。


 感情は能力を増加させることもあれば、減少させることもある。

 それは酷く不確定的で確かに非合理的。しかし、時に自らの限界をも超えた力を発揮させることができる。俗に言う火事場の馬鹿力もそうだ。

 合理性を追求することは悪いとは言わない。しかし、それすらも超越する何かがこの世界にはある。そういう世界でいいのだ、と改めて拓真は思った。

 この宇宙はどこまでも合理的なものに見える。物理法則によって支配されているのだから。しかし、ミクロな部分を突き詰めていくと不確定的な面が見えてくる。

 それは、存在は非合理性を含んでいていいという世界そのものからの承認なのではないだろうか。

 そして、そのことをミラージュは最初から理解していたのだ。

 静かに画面に視線を送っている阿頼耶を横目で盗み見る。

 これも結果だけを見れば、性能差と相性による勝利という、ある意味合理的な展開と言えなくもない。しかし、その発動条件にはどこまでも非合理的なものが必要だった。

 合理性一辺倒のものを超越する、非合理性をも含んだ合理性。

 その思想こそが、ミラージュを菴摩羅のようなファントムから区別するものに違いない。


『連示……』


 どこか心配そうな火輪の口調。

 彼女の、幻影人格に比べれば幼い人格は、この光景から何か得るものがあっただろうか。

 画面には原形も留めていない菴摩羅の残骸の中に立つ連示の姿が映っていた。

 彼は振り返り、画面手前側、火輪の方向に力なく近づいてくる。

 その瞳は元の血のような赤に、肌も人間らしい温かみのあるものに戻っていた。


「工場の全システムが復旧。セキュリティをこちらで再構築しました。再び菴摩羅に利用されることはないでしょう。一先ず、私達の勝利です」

「……そうか」

「よ、よかったあ」


 かなり情けない口調で安堵を示した美穂だったが、まだ気を緩めるのは早いことを思い出したのか、すぐに表情を引き締めた。

 モニターを通じて外を見ると、夜明けが近いのか東の空が白んできている。

 しかし、悪夢のような映像を見せつけられた人々は今も尚苦しんでいるのだ。

 これだけの被害が出た以上、さすがに今回の出来事を誤魔化すことはLORとやらでも不可能だろう。

 少なくともアミクスを利用した干渉は行わなくなるはずだ。となれば、世界は大きな変化を余儀なくされるに違いない。


『火輪……末那、は?』

『大丈夫。頭部は守れたし、メモリは無事みたいだから』

『ほ、本当か?』

『私は必要のない嘘はつかないから。安心して』


 画面から聞こえてくる二人、人間とそれに作られた人格との会話。

 人間の従者としてのアミクスはいずれ消え去るだろうが、別のあり方を持つ知的存在としてのアミクスはこれから増えていくことだろう。

 それを人間は受け入れるのか、それとも排斥するのか。その選択はいずれなされるだろうが、少なくともそれは今ではない。

 しかし、世界は既にそれを迫る未来へと動き始めているのは確かだ。

 人間は考えていかなければならない。明確な答えを得られるその時まで。

 自らが生み出す自らと同等かそれ以上の知性を持つ存在のことを。あるいは、まだ人間には知られていないが、どこかに存在するかもしれない者達のことを。


「雅人。工場へ戻るぞ」


 だが、まずは何よりもこれから起こり得る混乱への対処について自分は考えなければならない。それが特別処理班として本当の意味でなすべき仕事のはずだ。

 拓真はそう思いつつ、運転席で腕を組んで目を瞑っている雅人に、連示達と合流するための指示を出した。すぐさまトラックは緩やかに走り出す。


『今は、帰ろう。連示』


 それと同時に、穏やかで、仄かに温かな火輪の声がモニターを通して聞こえてきた。

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