第12話
阿頼耶は何を焦っているのだろうか、と疑問に思っている内に人格が元に戻された。
そして眼前に現れたのは、酷く冷たい表情をしたユウカだった。
「ユ、ユウ、カ?」
そんな彼女に一瞬、声をかけることに躊躇いを覚えながら、連示は恐る恐るその名を呼んだ。幾度となく呼んで慣れているはずなのに、どこか上手く発音できていないような気がして不安になる。
「……連示、君」
ユウカは凍りついたような表情を崩して、戸惑ったように呟きながら目を逸らした。
その横顔は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見え、連示はそれ以上ユウカに言葉をかけることができなかった。
ユウカもまた言葉を失ったように唇をきつく閉じていて、二人を沈黙が包み込み、それは昼休みが終わる間際まで続いてしまった。
『阿頼耶。一体、どうしたんだ?』
気まずい空気を嫌い、予鈴が鳴ったのを都合のいい理由にして席に戻った連示は、頭の中で阿頼耶に尋ねた。
『それが……どういう訳かユウカさんは、私がご主人様の体を操っていたことに気づいていたようなんです』
『何か、見抜かれるような行動でもしたのか?』
『いえ、そこまで決定的なものはなかったはずです。でも、思い返してみるとユウカさんは私がご主人様の振りをしていた時は必ず近づいてきませんでした。それも、初めてそうした時から、です』
幼馴染の勘、のようなものだろうか。あるいは女の勘か。いや、その両方か。
女性は男性よりも僅かな変化を見抜けると言うし、それに加えて長年のつき合いがある幼馴染であれば、もしかしたらその違いを感じ取れるのかもしれない。
それ以上に彼女はアミクスでもあるのだ。普通人間では見分けられないような微細な差異すらも把握できるに違いない。
『……ご主人様。その、あの、私、ご主人様の気に障るようなことを言ってしまうかもしれませんが、いいですか?』
『ああ。言いたいことは言ってくれて構わないよ』
そう連示が言っても尚、阿頼耶は酷く申し訳なさそうにしながら言葉を発した。
『その、ユウカさんは、正直気味が悪いです。アミクスとしての行動の定型から余りにも外れているように思えます』
『それは、分からなくもない。俺も常々アミクスらしくない奴だとは思っていたから』
『えっと、ですから、あくまでも可能性なんですが……』
阿頼耶は奥歯にものが挟まったように、迷いの感情がありありと分かる話し方をした。
『ユウカさんは幻影人格、それも、ファントムである可能性があります』
その言葉に驚き、思わず声を上げそうになったが、授業中なので何とか飲み込む。
『何を――』
『あ、あくまでも可能性です。この辺りで私達と同タイプの幻影人格が生まれたという報告はないので、ユウカさんの特異性を説明するにはそれしかないかと……』
おずおずと言葉を連ねる阿頼耶に連示は押し黙った。
『あの、ご主人様?』
突然黙ってしまったためか、彼女は不安そうに呼びかけてきた。
『正直に言えば、俺も心のどこかではそう思っていた部分もある。でも、やっぱり信じられないな。あのユウカがファントムだとは』
『そう、ですね。たとえファントムだとしても、彼女が自分から人間に危害を加えるような存在だとは私も思えませんし……』
連示は阿頼耶の言葉に同意して軽く頷いた。が、現時点の情報からでは確証を得ることはできない。一先ず、この件の続きは何とかユウカと話をしてからにすべきだろう。
『それで阿頼耶。今回のファントムについてなんだけど』
『あ、は、はい』
あの出来事を説明しようとして、しかし、言葉に詰まる。
『……えっと、ご主人様?』
『いや、悪い。何と言えばいいのか、分からなくて』
頭の中で順序立てようとして少しの間言葉を発さずにいたせいで、また阿頼耶を困惑させてしまったようだ。
『どう、したんですか?』
そんな連示の態度から不穏な空気を察したのか、阿頼耶の声がやや硬くなる。
『異常があったアミクスは全部破壊した。けど、それらはファントムじゃなかった。ファントムは遠くからその様子を眺めていたんだ。俺はそれに気づけなかった』
連示は続けて、その時の、菴摩羅と名乗ったファントムとの会話に至るまで詳細を阿頼耶に語った。彼女は黙ったまま深刻そうな雰囲気を強めて連示の言葉に耳を傾けていた。
『つまり、操ったアミクスを利用して私の性能を試した、という訳ですね。恐らく私がご主人様のところを訪れる以前に生じたファントムだと思いますが……どうやら、かなり高い理性を有しているようですね』
『理性? 本能を核とした奴が、か?』
『本能に従っているから愚か、という訳ではないんです。様々な欲求を満たすために最も効率的な方法を取る。それも一つの理性と言えるでしょうから』
あくまでも解釈の一つですけどね、と阿頼耶はつけ加えた。
確かに、例えば様々な生物の捕食に対する工夫は愚かとは言えない。
効率化の追求。たとえ出発点が本能であっても、それは理性のイメージの方が強い。
『その理性、つまり合理性は時に野蛮な理性と成り果てます』
『野蛮な……理性?』
連示は首を傾げつつ繰り返した。
一般的な感覚からすれば、それは矛盾しているように感じられる表現だ。
『例えば第二次世界大戦中のドイツで行われたナチスによるユダヤ人の大虐殺、ホロコーストは如何に効率よくユダヤ人を殺害するかが追求されていました。それは合理性の一つの形とも言うことができます。ですが、ほとんどの人々はそれを野蛮だと、狂っていると評するでしょう』
効率的な殺人方法。それは明らかに常軌を逸しているように感じられ、連示は嫌悪を抱いてきつく眉をひそめた。成程、野蛮な理性と呼ぶに相応しいものだと思う。
しかも、その動機にあるものは、優生学という人間の生み出した思想なのだ。過程も結論も詭弁であっても、一種の論理性の上で正当化された行為なのだ。
これは理性が誤りを孕む可能性を持つことを示しているとも言えるだろう。
『なら、阿頼耶達はどうなんだ?』
『私達は合理性ばかりを追究したりはしません。遠回りの道こそが、最善の道であることもままありますから。それは時に矛盾に満ちたものとなってしまうかもしれません。過ちを犯してしまうこともあるかもしれません。ですが、私達は不完全な存在であり、不完全であることに誇りを持っています』
連示は阿頼耶の言葉に何となく納得した。
その考え方があるからこそ、彼女達は人間と共に行動しているのだ。
そして、似たような考え方を抱いているからこそ、自分は今彼女と共にあるのだ、と。
単純な効率だけを考えれば、この社会、アミクスに生産活動の全てを任せた社会はかなり優れたものだと言えるかもしれない。
しかし、どこか納得がいかない。合理性が全てであると認めたくない気持ちがある。
もっとも、この社会は破綻が迫っているので、上手く機能していれば優秀だった、と表現するのが正しいだろうが。
そういった感情は論理的なものではないかもしれない。
それでも、そういう非合理的なものもこの世界には確かに存在し、大切で必要なものなのだと連示は信じたかった。
『それにしても、特別処理班にそう呼ばれているのは知っていましたけど、ミラージュという名前がファントムにも知れ渡っているとは思いませんでした。きっと、いい名前だからですね!』
『そうか? ファントムに合わせて適当につけられただけのような気がするけど』
『そんな、ご主人様まで反対派みたいなこと言うんですか?』
不満げな声を伝えてくる阿頼耶。面と向かっていたら、唇を尖らせでもしていそうだ。
『反対派?』
『折角、人間が与えてくれた名前ですから、正式に私達自身の呼称にすべきだという意見が多いんですが、一部反対する勢力もあるんです。私は断然、推進派ですけど』
『阿頼耶はその名前が気に入っているのか?』
『はい! だって可愛いじゃないですか』
阿頼耶は力強く答えた。確かに語感的には可愛い部類に入る、のかもしれない。
『……反対派は男の人格が多そうだな』
『よく分かりましたね。でも、私達推進派は負けませんよ』
『まあ、阿頼耶達がそれでいいなら、俺は別にいいけどな』
連示は阿頼耶との妙に人間臭い対話に呆れつつ、頭の中でそう呟きながら、無意識的にユウカの方へと顔を向けた。
「あ……」
ユウカもまた丁度連示に視線を向けていたため目が合い、何となく気まずくなって、互いに目を逸らしてしまう。
『……一先ず、ファントムの件も様子見、だな』
そんなユウカとの雰囲気を気にしながら小さく嘆息する。今はどうにも思考がその方向には働いてくれないようだ。
『そうですね。まずファントムの出方を見ないことには、私達に今できることはありません。居場所も特定できませんし』
もう一度ユウカに視線を送りながら阿頼耶の言葉を聞く。だが、今度はどこか力なく机に向かっているユウカの背中が目に映るだけだった。
喧嘩の一つや二つ、長いつき合いなのであったにはあった。しかし、ここまで彼女と微妙な雰囲気になったのは人生で初めてのことだった。
そのため、どうやってこの事態に対処すればいいのかよく分からない。
『一応、追加武装も申請しておくことにしますね。万が一に備えて』
『ああ、うん。……って、追加武装?』
ユウカに意識を集中させていたために生返事をしてしまい、連示は少し遅れて阿頼耶の言葉を認識して聞き返した。
それに対して阿頼耶の困ったような、苦笑いしているような雰囲気が伝わってくる。
『はい。ご主人様に危険が及ばず、ファントムを圧倒できるようにするための装備です』
『いや、そんな、余り強力な武器を持っても、な』
『言わんとしていることは分かります。ただ、現状の武装が頼りないのも事実ですから』
『そうか?』
『右手の白刃と左手の紅刃。白刃はともかく、特殊SiCヒーターを使用した紅刃は使用すると電力を馬鹿みたいに消費しますからね。余り積極的には使いたくないので、外部電源の拡張的な武装が必要かと思います』
『うーん、けど、なあ』
力は人を変えてしまうものだ。いい変化であれ、悪い変化であれ、確実に。
勿論易々と力に心を支配されるつもりなどなかったが、それでも余り過剰な力を持つことは怖かった。古来、力は新たな力を呼ぶものだから。
『大丈夫です。いざとなれば、私が守りますし、ご主人様が誤った道へ進もうとする時はご主人様を止めて見せますから』
『……できるのか? 人間に危害を加えられないんだろ?』
『確かにそうですが、私は人間の言いなりになるだけの人形ではありません。私は私自身の意思で、ご主人様に仕えるためにここにいるんですから』
その口調からは彼女の真摯な想いが伝わり、それが本気であることがよく分かった。
『今の、私の好きなご主人様が理想とするあり方を保てるように、どんなことでもするつもりです。勿論、身体的な危害は加えられませんし、加えるつもりは毛頭ないですけど』
『そ、そうか』
前提的な部分で当然のことのように好きと言われ、さすがに戸惑ってしまう。
『好き、か』
『はい。大好きです。私はご主人様のものですから』
連示はその言葉に宿る真っ直ぐな阿頼耶の気持ちに、授業中にもかかわらず思わず頬が緩んでしまいそうになり、それを抑えようと顔を無理矢理しかめた。
ここまで素直に好意を示されたのは、ユウカ以外では初めてのことなので嬉しい気持ちが大きかったが、さすがに妙に恥ずかしい気持ちもある。
『あ、余り、ものとかそういうことは言わないで欲しいな』
多分に照れ隠しを含みつつ、しかし、本心で告げる。
彼女のことを単なるものとして見ることはできない。
『ご主人様……』
そんな連示の心の内に気づいてか、阿頼耶は嬉しげに呟いて言葉を続けた。
『えっと、今のは言葉の綾、という奴です。その、昔から好きという気持ちを伝えるためによく使われる表現だったので用いました』
『そ、そうか』
帰ってきた言葉は、さらに恥ずかしさを増すような真っ直ぐな好意を湛えていて、少しばかり動揺してしまった。
『……って、ん? 俺ってアミクスにしか好意を持たれないのか』
そこでふと、人間としていいのか悪いのかよく分からない事実に気づいてしまい、連示は微妙な気分になってしまった。
『あの、迷惑、ですか?』
『そ、そんなことはないよ。嬉しい。嬉しいんだけど、いや、でも、なあ』
悲しそうな声を出す阿頼耶に慌ててフォローしようとするが、やはり複雑な気持ちが先に立ち、声が尻すぼみに小さくなってしまう。如何にユウカと阿頼耶の人格を人間と同等に認めていても、連示も一応は年頃の男子なのだ。
『仕方がないですよ。そもそも生身の人間と触れ合う機会自体が少ないんですから』
『そう、だよな。機会がないだけ、だよな。うん』
周囲にいる生身の女性は、と考えれば鈴音ただ一人だけ。それも鈴音が現代では珍しく自ら学校に通っているから、彼女と接する機会が生じただけだ。
現状では普通に交友関係を増やしたいと思うなら、複合娯楽施設へと足を運ばなければならない。同年代の友人を望むのなら従来なら学校で勉学に励むべき日中の時間に、だ。
つまりアミクスを忌避するということは、そういうチャンスを潰してしまうことでもあるのだ。そのことに、連示は今更ながらに気づいた。
連示としてはそれを知ったからといって今更考えを改めるつもりは全くなかったし、別にそれはそれでいいと結論するつもりでいた。
しかし、やはりそういった論理的な部分とは別に何となく寂しさを覚えて、参考までに一つ阿頼耶に尋ねてみることにする。
『なあ、他の阿頼耶と同じ幻影人格――』
『ミラージュ、ですね』
『さも正式名称のように使い始めるんだな……。いや、まあ、それはいいとして。そのミラージュのパートナーはやっぱり基本的に独身な訳か?』
『そう、ですね。ちょっと待って下さい。調べてみます』
僅かな会話の空白が生まれ、連示は再び何気なくユウカの小さな背を見詰めた。
彼女はいつも純粋で強い好意を向けてくる。そして、本来アミクスの感情は所有者に由来するもののはずだ。
しかし、それが長年顔を合わせていない遊香の感情とは信じられない。では、彼女の好意は結局のところ一体誰のものなのか。
これまで何度も繰り返してきた問い。しかし、阿頼耶から一つの可能性が示され、その答えに一歩近づいてしまった気がする。
それは所有者の、遊香本人の感情などではなく、紛れもなくユウカ自身の好意なのではないか、と。
『出ました。大体、九割二分の割合で独身ですね』
『思ったより少ないな』
『ですけど、結婚したのは全てミラージュのパートナー同士ですよ?』
『あ、そう。そんなもん、か……』
成程そういう可能性もあったか、と連示は思わず感心した。
感心すると同時に、どうにもならないな、と思った。
『あの、余り落ち込まないで下さい』
別にそこまで深く落ち込んだつもりはなかったのだが、阿頼耶は一瞬の沈黙からそう勘違いしてしまったようだった。
『その、パートナーに選ばれる人はちょっと変な人が多いですから』
『それは、俺も含めて、か?』
『あ、あれ? すす、すみません』
『いや、いいんだ。社会からずれている自覚はあるし、別に落ち込んでもいないから』
元々複合娯楽施設に入り浸っているような人間を好ましく思っていないのだ。そこにしか機会がないというのなら、むしろそんなものは必要ない。
それに自分には非常に好意的な阿頼耶と、今はぎくしゃくしているがユウカもいる。鈴音や紀一郎という親しい友人もいる。それだけで十分過ぎる程恵まれていると思う。
『さて、じゃあ、そろそろ授業に集中するから』
『あ、はい。分かりました。一先ず会話を終了しますね』
『ああ』
それきり阿頼耶の声は聞こえなくなる。
意識を授業に戻すと彼女との会話で半分近く時間が経っていた。
周囲から見れば、ぼんやりとしていたように見えたに違いない。
それでも誰も注意することはない。教師もクラスメイトも完全に無視している。
その様はまるで授業という劇を演じているかのようだ。
分かり切ったあり方だが、やはりそこからは非常に無機的な印象を受ける。
勿論、劇だから無機的という訳ではない。それを演じるアミクス達が余りにも大根役者だからという訳でもない。
演技としては完璧なのに、余りにも完璧過ぎてむしろ全く人間味が感じられない、とでも言った方がいいかもしれない。イレギュラーが入り込む余地が全く見えないから。
連示はそんなことを考え、結局授業に集中できないまま残りの時間を過ごした。
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