第34話

 それは千影の魂の欠片を取り戻す算段について話し合い、彼等の拠点に明日奇襲をかけることに決まったアノミアの直後。

 日曜日なのでパウロ以外の皆、教会の前でアノミアが明けるのを待ち、その時間の到来が砂時計によって告げられた後のことだった。


「……何だか、変だね」


 砂の落ち切った砂時計を懐にしまいながら、己刃が警戒したように周囲を見回す。

 晶もまた己刃の言に同意するように、その鮮やかな碧眼に厳しさを宿していた。


『アノミアが、終わってないの?』


 そう千影が呆然と呟いたのも無理もないことだ。

 世界には未だに穢れが見て取れたのだから。

 これまでアノミアは精密機械のように始まりと終わりの時間に乱れはなく、全く一定に生じていた。

 にもかかわらず今、世界に満ちている気配はアノミアの継続を示している。


「これは……まさか」


 隣から聞こえてきた呆然とした声は智治のもの。

 彼はこの状況を前に、愕然とした表情で立ち尽くしていた。

 耳を澄ませば、遠くから車やバイクの走行音など現実世界にしかない喧騒が聞こえてくる。

 それは即ち、アノミアが既に終わっている証だ。

 しかし、振り返れば、アノミアにしか存在しないあの教会がグラウンドの隅で荘厳な姿を晒している。


「は、反定立宇宙……」


 呟かれた智治の言葉にハッとしたように彼の顔を見た光輝は口を開こうとする。

 が、次の瞬間、激痛に襲われたように顔をしかめ、その場に膝をついてしまった。

 同時に己刃や晶、智治もまた同様に頭を抱えるようにしながら呻き声を上げ始める。


「な、い、一体、何が――」


 だが、朔耶には何も感じられず、突然の事態に困惑することしかできなかった。


「う、く、朔耶……お前は、無事、なのか?」


 息も絶え絶えという感じで尋ねてくる晶に首を縦に振る。

 隣で混乱したようにおどおどしている千影も一先ず問題なさそうだ。


「そう、か……うぅ」


 苦痛に表情を歪めながらも、晶は気力を振り絞るように言葉を続けた。


「何か、使徒よりも強大な何かが、急激に力を増して、いる。それに呼応するように、黒い衝動が、内側から……う、ぐっ」

「晶先輩!?」

「に、逃げろ、朔耶。このままでは、私が、お前を攻撃しかねん」

「そ、そんな――」


 こんな状態の皆を放置することはできない。

 それに逃げろと言われても、現状を把握できてもいない状態では正しい選択とは思えない。

 朔耶は混乱で思考を大きく乱されながらも、情報を求めて周囲を見回した。

 すると、遙か彼方に広がる異様な光景が視界に入ってくる。千影もそれに気づいたようだ。


『な、何? あれ』


 黒い雨が激しく降り注いでいる。

 そんな印象をまず受けたが、よく観察するとその印象は間違っていることに気づく。

 雨かと思ったものは黒く染め上げられた槍だった。

 それも人の身長を軽々と超える程の長さを持った巨大な槍だ。

 そして、その中心には巨大な何かが、黒い霧のようなものをまとって存在していた。

 その周囲に黒い槍が豪雨のように降り注ぎ、付近の建物は削り取られ、荒涼とした様を晒している。

 加えて、時折地面から虹色の光が黒い霧の中心部に吸い込まれ、影が膨張していくように感じられた。

 朔耶はその影から本能的、根源的な恐怖を受け、思わず目を逸らしてしまった。

 いつもアノミアで見る穢れを何千倍、何万倍にも濃縮したような忌避すべき感覚だった。


「ぐ、う、朔耶……」


 晶の辛そうな呻き声で我に返り、同時に視界の端に入っていた教会に、無意識的に助けを求めるように意識の焦点が合う。

 パウロであれば、現状に対処する術を持っているかもしれない。

 何より、教会の機能を考えると急場しのぎには使えるかもしれない。


「先輩、先生、とにかく一旦教会に入りましょう。あそこなら、その気配も遮断できるかもしれません!」

「わ、分か、った」


 朔耶の強い口調に四人は弱々しく頷くと自力で立ち上がり、おぼつかない足取りながら歩き出した。

 朔耶は特に己刃と晶を支えながら教会へと急ぎ、ほとんどなだれ込むように皆でそこに入った。


「どう、ですか?」

「あ、ああ。大丈夫なようだ。さすが教会、聖域というところか。破壊衝動らしきものがなくなったよ」


 安心させようとしてか笑みを見せながらも、晶は力なく聖堂の椅子に座った。

 やはり大きく精神力を消費したのか、その表情には疲労の色が濃く見て取れる。


「あの感覚、あんなものが私の中に?」


 晶の隣に座った己刃が呆然と自問するように言葉を発した。

 その口調には恐れの感情が含まれていた。

 それだけおぞましい感覚を受けたのだろう。


「どうかしましたか?」


 奥の部屋からパウロが訝しげな声と共に現れ、光輝と智治が彼に事情を説明した。

 すると、見る見る内にパウロの表情が厳しいものになっていく。


「反定立宇宙が……何故、このようなタイミングで」


 苦々しく顔をしかめるパウロに、千影がおずおずと手を小さく上げた。


『あの、すみません。そもそも反定立宇宙、って何ですか?』


 朔耶も同じ疑問を抱いてパウロを見詰めた。


「使徒がデュナミスを用いることで生み出される世界の呼称です。性質としては疑似アノミアに近いものですが、便宜上区別しています。そして、これこそ異端者達の最終目的、死の欲動に支配された世界」

『そ、そんな、じゃあ、もう、世界は……』

「いえ、宇宙全てを死へと転倒させるには莫大な量のデュナミスが必要です。恐らく、先走った使徒が勝手にデュナミスを使用したのでしょう」


 パウロの言葉に千影は僅かに安堵した様子だった。


「勝手に使用って、そんな簡単にこんな状況を?」

「反定立宇宙を生み出すのは簡単です。デュナミスを自らに突き刺せばいいだけですからね。しかし、彼らとて無駄に使うことをよしとはしないはずですが……」

「アフェシス派に打撃を与えるために使ったのでは?」

「考えられなくはありませんが、失われるデュナミスとの釣り合いが取れません。確かに大きな被害を受けるでしょうが、アフェシス派の使徒が減るということは、その分新たな使徒が生まれる可能性が高くなるということでもありますからね」


 迷い子を助けるということは、新たな使徒が生じる可能性を潰すということ。

 パウロが言ったのはその逆の理屈。助けがなければ、新たな使徒が生じ易くなるということだ。


「成程、食物連鎖のように数は自然と調整される訳ですね」


 迷い子をタナトスから守るという目的を掲げる限り、両者の数の相関は続く訳だ。

 勿論、調整が完了するまでは比較的デュナミスが奪われ易い状況が続く。

 だが、パウロの言った通り、使用されたデュナミスとの釣り合いは取れない程度なのだろう。


「朔耶、今はそれどころではない」


 晶に窘められ、確かに今聞くべきことはそれではなかった、と朔耶は思い直した。


「それで、その、この状況を打開するにはどうすれば?」

「反定立宇宙の核となっているのは、デュナミスによって世界自体のデストルドーが現実化した存在、エネルゲイアです。それを滅ぼせば全てのデュナミスが解放され、世界は正しい姿を取り戻すでしょう。しかし――」


 パウロは逡巡するように視線を下げた。


「しかし?」

「皆さんの話からすると、この反定立宇宙は過去最大のものと同等かそれ以上と考えられます。死の欲動由来の力を持つ使徒に影響が出たのは、相当量のデュナミスが使用された場合でしたから。そして、それだけエネルゲイアの力も強いということですが……」


 パウロはそこで再び曖昧に言葉を切った。


「つまり、現状まともに戦える朔耶に戦え、と?」


 パウロが躊躇った結論を大幅に先回りして晶が詰め寄ると、彼は渋面を作りつつ肯定した。

 隣で浮かんでいた千影が、そんな、と絶句し、朔耶もまた言葉を失ってしまった。

 疑似アノミアで何とか戦えたのは全て晶と千影のおかげだ。その時よりも遥かに強大な存在を相手に命を懸けろと言われて何も考えずに、はい、と言える程強くはない。


「本来なら『熾天』に属する私がすべきことですが、力が強いということはそれだけ死の欲動に深く繋がっているということ。この教会を出れば、どうなるか分かりません」


 実際にその一端を体験した晶は、言葉に窮したように俯いてしまった。


「既にアフェシス派の本部に連絡は行っているでしょうが、こうしている間にも人的被害は増える一方です。この街が壊滅する可能性もある。ですから、せめて時間稼ぎをお願いしたい。お二人の力を合わせれば、エネルゲイアにも少しは対抗できるはずですから」


 被害のことを言われると反論できないようで、晶は唇を噛んで引き下がった。

 朔耶もまた、多くの人々の命が危険に晒されているのなら、そして何より、自分にしかそれができないのなら、逃げる訳にはいかない、と思った。

 だが、まだ覚悟し切るには至らない。

 それだけで即座に行動できるヒーロー達とは違って、より多くの理由が必要だから。

 そもそも、逃げられないから戦うなどという後ろ向きな理由で生き残れる戦いではないだろう。


「しかし、それだけのデュナミスがあの教会に蓄えられていたのでしょうか?」


 光輝の問いにパウロはしばらく考え込むように目を閉じた後、口を開いた。


「かの教会に安置されていたデュナミスは全てエネルゲイアに取り込まれているでしょうが、全体からすれば微々たるものでしょう」

「では、何故……」


 過去最大の反定立宇宙が生じてしまったのか。


「朝日奈君が見た黒い槍。それは時乃宮ユダの力。あれに触れた者は魂を砕かれてしまいます。そして、エネルゲイアは世界のデストルドーの具現とも言うべき存在。故にタナトスの性質も有しています。使徒の力で魂を砕き、タナトスの性質によってデュナミスを作る。それを自ら取り込んでさらに強大になっていく、というところでしょう」


 ユダがデュナミスを使用したのか、取り込まれたのかは分かりませんが、とパウロはつけ加えた。

 しかし、どちらであろうと現状に変わりはない。

 何にせよ、時間が経てば経つ程にエネルゲイアの強さは増していくということだ。

 事実、あの黒い槍が降り注いでいた場所から立ち上っていた虹色の光、砕かれた魂はエネルゲイアに取り込まれ、その強大な気配がさらに強まっていた。

 それは既にそれだけの人々の命が奪われたことを示している。

 きっと、その多くは得体の知れないものへの恐怖を最後まで抱きながら、死んでいったに違いない。

 それを思うと胸の内に怒りが湧き起こってくる。

 あの時、千影を砕いた理不尽さの正にその根源を見たような気がして。

 そして、己刃の言葉を思い出す。自分達に恩を返すのではなく、使徒として多くの人々をアノミアから救って欲しい、という彼女の言葉を。

 同時に晶の姿も脳裏に浮かぶ。あの疑似アノミアで、朔耶達を守るために命を懸け、己より強大な敵に挑んでいた彼女の姿が。

 それらが決意を固めてくれる。


「あの、一つ確認したいんですけど――」


 だが、それでも尚多くの理由づけを冷静な、いや、臆病な部分が求めて尋ねさせる。


「エネルゲイアに取り込まれたデュナミスの中に、千影の魂の欠片もあるんですよね?」


 かの教会に蓄えられていたデュナミスが全て取り込まれたのなら、そういうことになるはずだ。

 その推測を肯定するようにパウロが、恐らく、と頷く。


「……分かりました。できる限り、やってみます」


 それを最後の決め手として今度こそ覚悟を決める。


『で、でも、朔耶君、危険だよ』

「それでも、現状俺達しかやれないならやるしかない。何もしなければ、全て失いかねないんだから。それに、千影を元に戻すためにはエネルゲイアを倒す必要があるだろ?」


 何より、自分よりも遙かに強大な敵に挑み、魂の欠片を取り戻してこそ、あの日千影を守れなかった事実、自分自身の弱さを乗り越えることができる気がするから。


「使徒としての役割を果たす。俺自身の望みを叶える。そのために俺は戦う。だから、千影も俺と一緒に戦って欲しい」

『戦うよ。朔耶君が望むなら、わたしは一緒に戦う。朔耶君を守る。でも――』


 不安そうに瞳を揺らして見上げてくる千影の言葉を、その手を握って遮る。


「言ったろ? 俺は千影と本当の意味で一緒に生きていきたいって。それに――」


 そして千影の耳元に顔を寄せて、彼女にしか聞こえないように続ける。


「その、俺も、千影にあーんとかして欲しいから、さ」


 その言葉に千影は途端に顔を真っ赤にして、うん、と小さく頷く。

 朔耶はそんな千影に頷き返してから、自分で頬を張って気合いを入れ直した。


「では、神父様。行ってきます」

「……朝日奈君。よろしくお願いします」


 自分を責めるように表情を歪めながら頭を下げるパウロに、はい、と簡潔に答えて、朔耶は聖堂を後にしようと彼等に背を向けた。


「さ、朔耶」


 晶に弱々しく呼びかけられ、足を止めて振り返る。

 しかし、彼女は言葉を探すように視線を頼りなく動かしていた。

 己刃もまた朔耶の身を案じつつも、かける言葉が見つからないのか腰を浮かして唇を噛んでいる。


「大丈夫ですよ、先輩。この場は弟分に任せて下さい」


 自分を鼓舞する意味も含めて、朔耶は軽くおどけた口調で言った。

 それから、いつかの晶が心配させないように笑ったのと同じように微笑む。

 正直内心には強い恐怖があり、上手く笑えているかは分からなかったが、それでも二人は幾分か表情を和らげて頷いてくれた。


「では、今度こそ、行きます!」


 そして、皆に見送られて教会の外に出る。

 すると同時に、本来タナトスや使徒の気配を感じられない朔耶でも感じられる程明確で、異常な圧迫感が襲いかかってきた。

 その方角、移動したのか先程とは違う位置を見ると、あの黒い霧の中心にあった影、エネルゲイアが確かな形を成していた。

 蝙蝠に似た巨大で歪な翼を持ちながら、しかし、人の形を成したそれは人が想像する悪魔に近く、落ち窪んで闇を抱く目は死の漆黒を宿しているかのようだ。

 それは人間が抱く死や理不尽への恐怖、憎悪の具現なのだろう。

 そう。エネルゲイアに取り込まれた多くの人々の。


『朔耶君……』


 その姿に威圧されたように千影が微かに震えた声を出しながら、手を握ってくる。


「……行こう」


 その手をしっかりと握り返して、朔耶はそれに向かって走り出した。

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