第2話
そして、モノクロを滲ませた世界を彼女と共に黙々と歩いていく。
その進路は朔耶もよく知る通学路、聖アフェシス学院へと向かう道だった。
周囲には自転車や鞄、服など様々なものが、所有者がその場に捨てて消えてしまったかのような形で放置されていた。
車道では自動車が不自然な車間距離で停車していて、まるで時が止まっているような印象を受ける。
「こっちよ」
聖アフェシス学院に着き、校門を抜ける。
と、中高一貫校のため高校と中学校の校舎が並び立つ光景が視界に入った。
普段とは違い、僅かに滲んだモノクロの上、人の気配もない学校。
その様は非常に不気味で軽く身を震わせてしまう。
彼女の後について校舎の脇を抜け、私立らしく見た目で莫大な金がかかっていると予測できる広大なグラウンドを横切ると、朔耶の記憶では空き地だったはずの場所に出た。
しかし、そこで目にしたのは全く見覚えのない教会だった。
「これ、は? こんなもの、ここにはなかったはずなのに」
「もしかして、君、この学校の生徒?」
「あ、はい。そうです。高校二年で……」
「そっか、私の後輩だったんだね」
僅かに彼女の表情が和らぐ。
「この教会はね。この世界、アノミアの中でしか認識できない建物で、タナトスが侵入できない聖域、のようなものなの。だから、この中にいれば安心よ」
彼女に背を押されてその教会に入り、その聖堂に案内される。
そこには何列もの長椅子が並べられており、そこに座ってようやく一息つくことができた。
顔を上げれば、神父が立つ祭壇の奥にあるステンドグラスが視界に入る。
しかし、白黒の上、滲んだそれに本来何が描かれていたのかは全く分からなかった。
「……あの、先輩。この世界、一体何なんですか?」
「それは……君は知らなくていいこと。この世界が終われば、君は忘れるんだから」
「終われば、忘れる?」
「あの砂時計の砂が落ち切る頃にこの世界は終わり、現実の世界が帰ってくる。そうしたら君は元の生活に戻れる。この世界での恐怖は全て忘れて、ね」
彼女が指差した先を振り返る。
すると、出入り口の脇に通常教会にはあるはずがない、巨大な砂時計が二つ備えられていた。
その砂は五分の一程度が落ちていて、今も尚さらさらと重力に従っている。
落ち切るまで後二時間半というところか。
「じゃあ、私は君みたいな人が他にいないか探しに行かないといけないから」
「え? いや、でも――」
「後のことは神父様に……あ、神父様」
聖堂の奥にあるドアが開き、緑色の司祭服で身を包んだ男性が現れた。
しわが深くなり始めた顔には老いが見られるが、彼の年の取り方からは他者を落ち着かせる精神的な深み、心強さが感じられる。
成程、神父として人々を教え導くことができそうな雰囲気がある。
「話し声がすると思えば……
穏やかな表情を湛えて近づいてくる彼に、己刃と呼ばれた彼女は、はい、と頷いた。
「そうですか。では、彼は私に任せて下さい」
「お願いします」
神父に丁寧に頭を下げてから、己刃はそのまま振り返ることなく風のように聖堂を出ていった。
その後姿を思わず目で追ってしまう。
何となく心細い。
「では、しばらくここで休んでいて下さい」
「あ、は、はい。いや、その」
しわがれた神父の声に慌てて答えると、彼は静かに微笑んで朔耶の隣に座った。
「まあ、暇でしょうから、少し話でもしましょうか」
彼の言葉に導かれるように頷いてしまう。
彼自身に対して警戒心が生じないのは滲み出る人徳のなせる業か。
聖職者の一つの完成形を見ているような気がする。
「君は、力に目覚めてしまいましたか?」
「力? ……先輩が使っていたような、ですか?」
朔耶の問いに彼は静かに首肯した。
「い、いえ、何のことだか」
「そう、ですか。それはよかった。君はまだ日常に帰ることができる」
「日常に、帰る……」
意味を噛み締めるように呟いた朔耶の言葉に、彼は優しげに微笑んだ。
「アノミア。この世界に来てしまったということは君も多かれ少なかれ現状への疑問、あるいは不満、そして、非日常への憧れを持っていたのでしょう。君のような年頃では皆そういう傾向にありますが」
朔耶は肯定の意を込めて頷いた。
「しかし、君自身の日常は君にとって非常に尊いものです。できるなら、非日常を日常とはしない方がいい。経験を以って言いますが、それは辛い道となります」
きっとそれは誰でも理解できること。
それでも、どこか納得できないもの。
納得できないが、納得しなければいけないのだとも理解している事実だ。
それに囚われれば、堂々巡りのまま時間ばかりが過ぎ去っていく。
そうしている内に大抵の人は社会のしがらみに屈し、その事実を真正面から受け止めて答えを出す前に大人にならざるを得なくなるのだろう。
「あの、参考までに、どうすれば力を得られるんですか?」
あのような恐怖を経験した後にもかかわらず、それでも尚、朔耶の中には未だに非日常への憧憬が色濃く残っていた。だが、彼の言うことは正しいと思える。
だからこそ、逆に不可能という答えを貰い、現実に立ち返るためにそれを尋ねた。
そんな朔耶の気持ちに気づいてか、彼は穏やかな表情で微かに頷いた。
「力を得るには強い求めが必要です。それも一切妥協のない純粋な求めが不可欠です。それはこのような安全圏では可能なことではありません」
「そう、ですか」
つまり朔耶のような一般人ならば、先程のような危険の只中にでもいなければならない、ということ。
そして、もう一度そこへ身を投じろと言われても無理な話だ。
問いの答えは不可能。それでいい。
日常にあって非日常を望み、自ら日常を代償に捧げるなど余りにも愚かしい。
それこそ世界からずれた存在になってしまう。
非日常はやはり遠くにあって愛でるものであるべきだ。漫画や小説を読み、憧れるように。
砂時計は刻々と砂を落とし、時を刻む。
さらさらと流れるその音を聞きながら、朔耶はそう考えて納得の笑みをこぼした。
神父はそんな朔耶の様子に会話はもう十分だと感じたのか、安堵の表情を浮かべながら離れていった。
それから神父との会話を反芻しながら待ち続け、砂が落ち切る数分前。
聖堂の入口の扉が開かれ、己刃が戻ってきた。
「そろそろアノミアが終わるから、ここから出るよ」
「あ、はい、分かりました」
背を向けて歩き出す己刃に、朔耶もまた立ち上がって彼女と共に教会を出た。
どうして外に出るのか疑問を抱いたが、その質問をしないことで非日常との決別とする。
「これでもう、大丈夫だからね」
少しの間、無人のグラウンドで小さな砂時計を取り出して眺めていた己刃は、その砂が全て落ち切るだろう直前にそう言って優しく微笑んだ。
それを朔耶が認識した正にその瞬間。
突然視界の全てに色という色が爆発的に満ち溢れていき……。
そこで朔耶の思考は寸断された。
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