第74話混乱

9月信濃諏訪城:義信視点


 伝書鳩や騎馬継伝令に狼煙台も駆使して、各地の戦況を知ることができる。


 青崩城砦群では、皆が忙しく立ち働いてくれているようだ。


 農繁期には農兵を田畑に戻し、元からいた近衛武士団1000兵を基幹に、近衛足軽槍隊5000兵・甲斐と信濃の国衆2000兵・出羽三山から連れてきた僧兵8000の、合計1万6000兵が遠江侵攻に備えてくれている。


 俺の築城基準は、公衆衛生を大切にしている。


 元々歴史シミュレーション小説が大好きだった上に、療術の世界で生きて来た。まして生まれ変わった甲斐では、水腫病で苦渋(くじゅう)を飲んだのだ、築城場所の選定を守備力や交易の要衝(ようしょう)と言うだけで選べない。


 1番大切にしたのは、飲料水の確保だ。戦時に敵が水の手を切ろうとしても、守り切れる水源が確保できる場所でないと、城や砦を築くことはできない。


 水源が決まれば、その水量で籠城できる最大人数が決まる。


 籠城人数が決まれば、次にその人数で守り切れる城砦の大きさが決まる。


 さらに城の形を決めないといけないのだが、山城や丘城だと、元々の地形が影響する。


 そしてそ何よりも大切なのは、戦時での糞便と遺体の処理だ!


 敵に四方を包囲された時の籠城では、汚物を城外に持ち出すことはできない。だが城の大きさに限界がある以上、籠城が長引き城内に汚物を放置すれば、疫病が発生する危険が高くなる。


 そこで築城する最初から、汚物を埋める場所を考えておかないといけない。


 そして人情を考えると、糞便と戦死した味方を同じ場所に埋めることは、士気の面から絶対にできない。


 遺体の埋葬場所と、糞便の処理場所は、最初から計画的に分けておかねばならない。


 城の縄張りには限界があるので、できるだけ深い、戦時用便所を多数用意しておく必要がある。


 さらにその便所が一杯になった時のために、予備便所用地を確保しておかないといけない。


 そこは深く深く便槽が掘れる場所であり、掘り出した土で、先の便所を埋める事を考慮した場所でないといけない。


 俺が新たに縄張りした城砦群は、そう言うところまで考え尽した上で、築城してあるのだ。


「飛影、伊那に入り込んだ今川の忍びは討滅できたのか?」


「はい、道々の民の怒りを買い嬲殺(なぶりごろ)しになりました。」


「生産に影響は出ているのか?」


「さすがに城の奥深くまでは入り込めなかったようで、大切な物に影響はございませんが、酒などに毒を入れられた可能性もあり、確かめたり捨てたりせねばならぬ物が多く出てしまいました」


「軍資金の事を考えれば、酒の廃棄(はいき)は堪(こた)えるな」


「酒造りは水を必要とするため、どうしても狙われやすい場所に拠点を置かねばなりませんでした」


「多くの餌が必要になるが、直接武具生産所だけではなく、軍資金を稼いでくれる所にも犬狼を置かねばならないな」


「承りました」


 側に控えていた狗賓善狼が答えた。これで犬狼部隊の大幅増員が決定したが、魚肥にしてた魚の一部は、餌に流用する必要があるだろう。


 生糸生産が大幅に増えているから、佃煮にして食べる以上に蛹が増えているはずだ、それとも全部食べているのかな?


 まあこんな話は後でもいいだろう、まずは報復の話だ。


「吉岡城の事だが、今後は公家衆の屋敷は伊那から飛騨に移す。大切な生産拠点近くに、あのような者たちを置いていた我が愚かであった。他の大名に利用される訳にはいかないが、根本拠点に公家衆を置くわけにもいかん」


「承りました」






9月加賀:第3者視点


 細川・浅井・武田連合軍が国境線から撤退したので、朝倉宗滴は一向宗を滅ぼす決意で、加賀に侵攻した。


 越中で武田軍と戦い、大幅に戦力を損耗した一向宗は、国境線の城砦群を簡単に突破されてしまった。


 今まで越前との国境を守っていた、南郷城・千束城・大聖寺城などが、わずか1日で陥落してしまった。


 しかし一向宗も、和田山城(和田本覚寺)・藤島超勝寺(塔尾超勝寺)・金沢御堂に狂徒を集め、反撃の準備を整えた。


 朝倉勢は農閑期に一気に国境線の諸城を攻略した後、専業武士と銭で雇った足軽、さらには越中からの亡命将兵を占領した諸城に入れた。この体制を取る事で、農繁期に農兵を帰国させても、占領地を守りきろうとした。






9月備後国高の野陣:尼子晴久視点


 釜峰山城に入った我ら尼子勢2万8000兵に対して、黒岩城に入った毛利勢4000兵は、城の前の河岸段丘上に布陣した。


 尼子新宮党の精鋭5000兵が湯木から向泉に南下したことで、竹地谷川を挟んで両軍が対峙することになった。


 だが両軍の合戦は、梅雨の豪雨のために竹地谷川が氾濫してしまったことで、戦いは初日の小競り合いで終わり、決戦にまで発展する事はなかった。


 自然には逆らう事ができず、毛利元就はいったん志和地(三次市)に撤退した。


 俺も山内家の本拠である甲山城(庄原市)へ入り、毛利勢の江田攻めを北から牽制することにした。


 さてどうするべきか?


 備後の国衆を味方にするためには、大内勢を討ち破り、江田隆連を助けなければならない。


 だが同時に、国久に手柄を立て過ぎられても困るのだ。これ以上増長されては家中の和を保てないし、何より俺を越える声望を持たれてはならん。


 大内を討ち破た後で、国久が討ち死にしてくれれば最高だが、運に任せてそのように都合のよい状況が起こるなど無理な話だ。


 自然に起こらないのなら、俺自身の手で起こる様に仕向けるしかない。


 全軍の指揮を国久に委ねて、万が一大内に負けるような事があれば、責任を取らせて処刑すればいい。


 大内に勝った場合は、大内が報復に放った忍に暗殺されたことにする。この辺が俺自身が作りだせる状況だな。


「義父上、ここが勝負所でしょう、一切の指揮を預けます故、何としても勝って頂きたい」


「任せられよ、我ら新宮党が三吉の比叡尾山城を攻め落とし、比叡尾山城に籠れば江田も落ちる事はあるまい」


「稲刈りに出雲に帰られぬのか?」


「大内方の田を刈れば良い、出雲は女共が何とかしよう。まあ殿たちは城を落とした後で出雲に帰られよ、稲刈りは殿が連れ帰った兵に手伝わせてもらえばよい」


「あい分かった、出雲の事は任せよ」


「但し取った城は新宮党で貰い受ける」


「仕方あるまいが、他の譜代衆への配慮も必要だぞ」


「ふん! 分け前が欲しければ、我ら新宮党と共にここに残ればよい。共にここに残る勇気があるのなら、城地を分けてやろう」


「う~む、それも通りか。仕方あるまいな、だが勝たねば話にもならんぞ」


 このままでは江田の旗返山城が落ちてしまう、何としても勝たねばならん。だがこのように傲慢(ごうまん)では、勝っても負けても国久を処分するしかあるまい。


 国久が城を取って備後に残ってくれるなら、我が手を汚さなくても大内が見逃すはずもない。問題は新宮党が全滅した後の戦力だが、大内内部を揺さぶって時間を稼いで立て直すしかあるまい。大内義隆と陶隆房は上手くいっておらんようだから、その辺と突いてみるか。






備後比叡尾山城:第3者視点


 尼子国久が甲山城を出て、比叡尾山城を目指している事を知った毛利勢は、「国広山城」・「龍王山城」・「岩倉山城」「陣山城」・「天城山城」から成る、国広山大城郭群に入った。


 毛利勢は堅固な国広山大城郭群に入ることで、精強な尼子新宮党を迎え撃つ事にしたようだ。


 だが尼子新宮党は、毛利が国広山大城郭群に入ったのを知っても、そんな事は無視した。何も不利を承知で、多数が籠る城を攻める必要はない、少数が籠る城を攻め落とせばよい。


 いや、何の抵抗もできない、大内方の村々を略奪すれば、越冬物資を確保し民を大内から引き離せる。


 大内に味方したら、略奪されても助けに来てくれないと民に思わせれば、国衆が大内に付こうとしても一揆で阻まれるかもしれない。


 案の定、尼子新宮党の略奪を受けた備後大内方国衆は、陶と毛利を突き上げた。大内頼るに足りずと言う流れを受けた陶と毛利は、堅固な国広山大城郭群出るしかなくなり、野戦に引きずり出された。


 旗返山城を囲んでいた陶勢1万兵が、尼子を討つべく囲みを解いて移動し、毛利は隙を突いて国広山大城郭群を下りる用意をしていた。


 尼子国久はさすがに戦術に優れており、陶勢移動の報を受けて直ぐに原川(馬洗川)を越え、高杉城外に陣を構えた。


 高杉城は江田家の支城であり、櫓から陶勢を俯瞰(ふかん)できれば、陶勢の陣形を逸早(いちはや)く知ることができる上に、毛利勢が国広山を駆け下りて来ても、奇襲される事なく原川を挟んで迎え討つことができる。


 西国無双の侍大将と言われる陶隆房と、新宮党を率いる尼子国久の激突が始まった。


 軍勢を高杉城に進めて来た陶勢に対して、休養十分の尼子勢は中央に新宮党5000兵、左右に尼子左衛門と尼子紀伊守の各2500兵を配して攻め掛かった。


 陶隆房は直臣衆3000兵を中央に配し、左右に寄騎衆と備後国衆で編制した、各2000兵を配して迎え討った。


 激突した陶勢と尼子勢は、一進一退の攻防が続くも、兵力で勝る尼子勢が徐々に押し出した。陶隆房が本陣の3000兵を、敵中央の新宮党に投入して押し返そうとした。


 だが勇猛で鳴る新宮党を押し返す事ができず、逆に尼子国久が投入した予備勢5000兵が、左右に分かれて押し包む動きを見せた。


 尼子予備軍の動きに怯えた雑兵が逃げ出した事で、寄騎衆と備後国衆が友崩れを起こしてしまい、陶勢は壊乱した。


 尼子国久は崩れた大内勢を追いに追い、陶隆房こそ討ち漏らしたものの、名の有る大内方大将を数多く討ち取り、備後の国衆を一気に尼子方に引き寄せた。


 しかし三次を中心に、出雲と備後を結ぶ街道沿いの国衆は許さず、攻め滅ぼして尼子新宮党の直轄領とした。


 陶勢と尼子新宮党の合戦が始まるのに合わせて、毛利勢は国広山を駆け下りて陶勢と連携しようとしていた。


 だが毛利に備えていた尼子晴久の本陣1万3000兵に、原川を挟んで迎え討たれたため、手も足も出なかった。


 3倍の兵力を相手に、渡河して攻め込むほど、毛利元就は愚かではなかった。せめて尼子勢の本陣1万3000兵を引き付けようと、鬨の声をあげ矢を射かけた。


 だが陶勢の大敗を見て、尼子晴久の追撃に備えながら、静々と軍を引き安芸に帰還して行った。


 このまま原川を挟んで尼子晴久と対陣すれば、尼子国久が引き返してきた場合に挟撃されて、死地に陥ってしまう。稲刈りが差し迫っている今なら、尼子晴久の追撃にも限りがあるとの判断だった。


 今回の攻防で、備後はほぼ尼子の勢力圏となった。


 しかし滅ぼした備後国衆の城地を、尼子国久率いる新宮党がほぼ独占したため、尼子譜代衆の不満がさらに高まり、晴久の大名としての統制力が問われる事にもなった。


 一方負けた陶隆房に武名は地に落ち、大内家での指導力が著しく低下した。しかし陶隆房にしてみれば、これは大内義隆の責任だと思いたかった。


 尼子勢が2万8000兵を集めたのに対して、大内勢は1万4000兵しか集められなかった。大内義隆と側近衆こそ、今回の敗戦の元凶であると思いたかったし、同胞や家臣たちにはそう言い分けした。


 陶隆房の大内義隆に対する不満と不信に怒りは、収まりのつかない所まで高まることになった。






9月信濃諏訪城:義信視点


 諏訪城に戻った俺たちは、人口増加を図る作業に励んだ。


 開墾・産業振興・合戦など、何をするにも人ありきだ。長らく本拠を留守にしていた将兵には、富国強兵のために、頑張(がんば)ってもらわなければならない。今回の合戦でも敵味方多くの人が死んだ、日本全体の事を考えれば明らかな衰退と言える。


「黒影、北条の見極めはつかないか?」


「佐竹がしきりに武蔵に兵を送っております、北条としても動き難いと思われます」


「全軍は無理にしても、一部の軍勢でも動かす素振(そぶ)りはないか?」


「小田原に足軽を集めておりますが、それが何所(どこ)に向かうかは分かりません」


「兵数はどれほどだ?」


「農繁期でも動かせる足軽3000兵を、城普請(しろぶしん)させながら待機(たいき)させております」


 さて北条がどう動くか?


 小田原城に集めているなら駿河を狙っていると思いたいが、武田が兵を駿河に入れた隙に甲斐を狙う事も有り得るから、楽観できる状況ではない。だが新九郎殿の暗殺を知って、北条氏康が怒り狂ったとの噂も流れている。


「若殿、佐竹の兵に中に、信濃の小笠原長時が加わっております」


「あの漢(おとこ)もしぶといな、騎馬隊を立て直したのか?」


「は! 関東管領の上杉の威光(いこう)を使い、騎馬武者を集めたようでございます」


「まだまだ公方と管領の名は役に立つのだな、しかし以前と同じ弓主体の騎馬なのだな?」


「は! その通りでございます」


「ならば何とかなるが、引き続き調べてくれ」

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