第59話天文21年(1552年)15歳・朝廷工作・美濃援軍・佐渡侵攻

天文21年(1552年)1月10日信濃諏訪城の北二之丸:義信視点


 朝廷と幕府に工作していた官位官職が、ようやく認められた。信玄の官位官職は、従四位上・大膳大夫のままだが、俺との兼ね合いで甲斐国司を降りた。一方足利幕府では、准三管領・甲斐・信濃・飛騨・越中・越後の五カ国守護となった。


 俺の朝廷での官位官職は、正二位に昇叙した上で、権大納言・左近衛大将・甲斐・信濃国司となった。だがその一方で、越中と越後の守護職は辞することになった。


 鷹司実信の朝廷での官位官職は、正四位下・参議・左近衛権中将・越中国司となり、普光内親王の降嫁を待つ状態になった。


 三条公之の朝廷での官位官は、従四位上・参議・右近衛権中将・越後国司となり、永高内親王の降嫁を待つ状態になった。


 史実で大聖寺門跡となられた永高女王は、1551年に亡くなられている。だが武田家からの贈り物攻勢と、侍女を送り込んでお守したためであろうか、無事に1552年を御迎えになり、降嫁に備(そな)えられている。


 想定外に成功したのは、武田家からの入内工作だった!


 史実で伊那の下条信氏に嫁いだ信虎の6女と、禰津神平に嫁いだ信虎の7女を、入内させようと工作を始めたのは、俺が三条家の嗣養子に成る話が出始めた頃からだ。だが本命は、三条家の血が流れる、信玄と母上の娘である妹たちだったのだ。


 だが妹たちは、入内させるには幼過ぎた。正直工作しながらも、無理だろうと諦めていた。だがここで幸運にも、方仁親王の典侍である藤原房子様が御懐妊された。


 俺はこの好機を逃さず、もし藤原房子様に皇子が御生まれになった場合、叔母たちとの間に皇子が産まれても、皇位は望まないと誓紙をおくった。


 入内した叔母たちに何人の皇子が産まれても、武田家が責任を持って宮家を創設すると言う約束で、叔母たちの入内が認められそうだ。


 だがもし叔母たちの入内工作が失敗した場合、年頃の叔母たちが婚期を逃す事になる。


 藤原房子様から御生まれになられるのが、皇女である可能性が5割あるのだ。その場合は、叔母たちの入内は絶対認められないだろう。


 その場合の保険として、誠仁親王の弟宮で、後奈良天皇の第三皇子、比叡山延暦寺曼殊院門跡となられておられる、覚恕法親王に還俗してもらうと言う事で話がついた。


 そう、還俗してもらった覚恕法親王に宮家創設してもらい、叔母たちを輿入れさせると言う事で話が付いた。もちろん全ての儀式費用は、鷹司家(武田家)で持つことが条件だ。


 これで藤原房子様から御生まれになられるのが、皇子でも皇女でも、武田の血を引く宮家創設がほぼ確定した。


 史実の覚恕法親王は、織田信長による比叡山焼討ちの際には、比叡山延暦寺曼殊院におられなかった。焼討ちの難は逃れられたものの、信長に比叡山抵抗の責任を追及され、武田信玄を頼り甲斐に亡命されている。


 覚恕法親王は、信玄が権僧正の僧位を得るために尽力されているが、その後も京に戻ることはなく天正2年(1574年)に甲斐で亡くなられている。我が武田家とは縁が深いのであろう。


 ちょっと問題なのは、昨年から支援要請が来ている、上総武田家の真里谷一族だ。一族内の内紛と、北条家や里見家からの外圧で、真里谷一族は滅亡寸前なのだ。


 真里谷一族には、北条の支援を受けている椎津城主の真里谷信政(まりやつのぶまさ)と、里見の支援を受けている真里谷信応(まりやつのぶまさ)・真里谷信高親子がいる。


 俺には北条家との同盟に未練があるので、真里谷信政に軍資金を支援すべきだろう。上総に武田の勢力を残して置くことで、後で何かの役に立つかもしれない。


 同時に上総武田家の本家で、庁南城・勝見城・池和田城に勢力をもつ、武田清信へも軍資金提供を打診してみよう。近くに勢力を持つ万喜城主の土岐為頼は、美濃で支援している土岐頼芸の一族なのだ。


 俺が軍資金を援助した上で、武田清信と土岐為頼が同盟すれば、北条や里見の影響を排除して、上総を取り戻すことも可能かもしれない。


 後は日本海航路の安全確保のために交流を始めた、因幡武田家への対応だ。鵯尾城主の武田高信は、鳥取城を押領している。


 父の武田国信が、主君である因幡守護の山名誠通に願い出て、鳥取城の城代になっていた。


 だが主君である山名誠通が亡くなり、因幡守護の山名家からの独立を目論み、鳥取城を支配下に置き、城主のように振る舞っている。どうにも信用できない相手なので、日本海航路を使う際に、適度に湊に利益を落として、因幡を俺の影響下に置ければ儲けものだろう。






4月10日信濃諏訪城の北二之丸:義信視点


 俺には臨月の九条を残して、佐渡遠征をする事に躊躇(ためら)いがあった。だから次弟の鷹司実信を名目上の大将とし、実際に軍を差配する陣代に飯富虎昌を任命して、佐渡侵攻を開始した。


 九条の出産が無事に済んだら、俺も騎馬隊を率いて駆け付ける心算だった。だが信濃から歩兵部隊を移動させるには、どうしても時間が掛かる。だから取りあえず、越中と越後の国衆地侍の中から、参陣希望者を集めて、彼らを先陣として佐渡に上陸させた。


 だがここで大問題が出来(しゅったい)してしまった!


 美濃の土岐頼芸が、斎藤道三の圧力に抗しきれず、直接援軍を願ってきたのだ。もし援軍を出さなければ、土岐頼芸は史実の様に美濃を逃げ出すだろう。


 史実では、常陸江戸崎城主の土岐原景成の養女を娶って婿養子に入った、弟の土岐原治頼の下に逃亡している。美濃はどうしても手に入れておきたいから、援軍を出さない訳にはいかない。


 だが佐渡攻略は、鉱山収入の確保もあり、早急に成し遂げなければならない!


 だから美濃に出せる戦力も限度がある。


 そこで美濃制圧するのではなく、大桑城に籠城して守り切れるだけの戦力を、土岐頼芸の援軍に送る事にした。


 だがタダで援軍を出すほど、俺もお人好しではない。土岐一族の姫に武田一門を婿養子に入れ、土岐頼芸の養嗣子とする事を条件とした。


 この条件を土岐頼芸が受け入れたので、養嗣子として信虎の8男で俺の叔父である、一条信龍を大桑城に送り込んだ。一緒に送った兵力は、俺の子飼い兵力である、弓足軽1000兵と槍足軽2000兵に、寄騎同心が220騎1100兵だ。


 これでようやく佐渡侵攻に本腰を入れられるのだが、俺の直属戦力もかなり各地に分派されており、全力を持って佐渡侵攻とはいかなかった。


 美濃土岐家への援軍以外にも、陸奥会津の山之内一族への援軍に、曽根昌世と足軽3000兵を送っている。


 出羽の小野寺家への目付として、漆戸虎光と足軽3000兵を送っている。


 越中の抑えに、武田信繁叔父さんに5400兵を預けている。


 越後の抑えには、武田信廉叔父さんに5400兵を預けている。


 残った兵力を掻き集めて、2万5000兵弱の雑多な将兵で軍を編制し、佐渡侵攻を始めることになった。






佐渡国:第3者視点


 佐渡には200弱の城砦群があるが、2万を超える軍勢に抗し得るほどの城も、統一された勢力も存在しない。


 佐渡で最大の勢力を誇る本間一族自体が、覇権を得ようと同族で相争っている。だが国外から攻め入られた場合は、さすがに共同して抵抗する。


 鷹司義信は、佐渡制圧後の鉱山経営も考えて、本間一族は根切りするか、島外強制移住を絶対条件とする予定だ。


 最初に佐渡に上陸したのは、猿渡飛影に指揮された越後勢4000兵だった。彼らは小木湊にジャンク船団を付けて、強襲上陸した。


 そして蓮華峰寺の南側の比高50m程度の所にある、羽茂本間家の属城である小比叡城を、一気呵成(いっきかせい)に攻め落とした。


 猿渡飛影は、小比叡城を落とした時に降伏して来た、佐渡兵を軍に加えて侵攻を続けた。


 羽茂本間家の本拠地である羽茂城は、佐渡では最大級の城だ。だが武田家の基準では、中規模の城でしかない。


 しかしそれでも、猿渡飛影配下の4000兵でだけ落とすのは無理がある。だから第2陣が佐渡に上陸するまでは、支城群から攻略することにした。


 次に攻略したのは、大橋村にある清士岡城だった。清士岡城への攻撃は、損害を考慮せず、我攻めで落城させた。


 そして落城させた小比叡城と清士岡城を修築し、佐渡攻略の拠点とした。


 猿渡飛影は無理をせず、小比叡城と清士岡城で4000兵を休息させ、第2陣の到着を待った。


 攻略予定の支城の1つ目である須川城は、大蓮寺の西800m、羽茂城の西1・5kmの平野部に、北から突き出した比高20mほどの台地上にある。


 前面に小川が流れており、先端の主郭部は50m×70mほどで、主郭の両脇には腰曲輪が設けてある。この北側に一段高く100×150mほどの広い郭があり、その背後には空濠があり、その奥の平坦地にも郭がある。


 2つ目は村山城で、羽茂城の西2kmで須川城と西に向いあっており、さらにすぐ西側に西方城がある。比高40mほどの台地上の先端部を利用しており、小規模の郭が3つあり、その間に空濠が設置されている。


 3つ目は西方城で、羽茂城の西1・6km、村山城のすぐ南側の比高40mの北に向かって、2本の台地上にある。


 猿渡飛影は、第2陣の越中勢4000兵が加わるのを待って、一気呵成(いっきかせい)に西方城、村山城、須川城に我攻めを仕掛けた。


 一応弓を使える兵を集めて集中運用し、その援護弓射の下で、竹製盾で防御した兵が攻勢を掛けた。


 だが常に合同訓練している、鷹司義信の子飼い足軽兵団ほどには、上手く連携はできなかった。


 それでも佐渡では、8000兵もの大軍による城攻めは効果が絶大だった。1日1城、3日で3城を攻め落とすことができた。


 ここでまた猿渡飛影は、全軍に休息をとらせた。そして休息中に、飯岡城・合沢城・大川城・国分城・雑田山城・雑田城・渋手城・滝脇城・竹田城・椿尾城・中沢田城・浜中城・吉岡城・腰細城・上川茂城に降伏の使者を送った。


 だが降伏の条件は厳しく、武士を続けたい者は、扶持武士として信濃に移住すること。佐渡に残りたい者は、武器を捨て百姓になることであった。


 そんな中で、佐渡第一宮の渡津神社の南1kmほどの所にある、飯岡城主の風間家は、扶持武士としての移住を認め降伏してきた。


 その噂を聞いた腰細城の村殿本間家、上川茂城の池野家、大川城の大川家、国分城の鶴間家、渋手城の足立家、滝脇城の臼杵家、椿尾城の安藤家、中沢田城の小田家が、次々と降伏し城を明け渡した。


『佐渡侵攻軍編制』


総大将:鷹司義信

大将 :鷹司実信

陣代 :飯富虎昌・猿渡飛影

副将 :三条公之

軍師 :鮎川善繁・曽根昌世

侍大将:於曾信安・板垣信憲・曽根昌世・滝川一益

   :相良友和・今田家盛・加津野昌世・米倉重継

足軽大将:狗賓善狼・市川昌房・田上善親・田村善忠

武将:酒依昌光・板垣信廣・有賀善内・武居善政・武居堯存・金刺善悦

  :金刺晴長・矢崎善且・小坂善蔵・守矢頼真・松岡頼貞・座光寺為清

  :知久頼元・山村良利・山村良候・贄川重有・大祝豊保・鵜飼忠和

  :両角重政・山中幸利・小原広勝・小原忠国・武居善種・花岡善秋

  :大祝右馬助勢・諏訪満隆・座光寺頼近・千野光弘・千野昌房

  :千野靭負尉・沢房重


『佐渡攻略軍兵数』

飛騨衆と

木曽衆と

諏訪衆で:2200兵

甲斐衆 :1000兵

信濃衆 :3000兵

越中衆 :4000兵

越後衆 :4000兵

扶持武士:1100兵

足軽弓隊:1000兵

足軽槍隊:2500兵

黒鍬輜重:6000兵

総計:2万4800兵


『佐渡侵攻時の部隊配置』


「美濃」

土岐頼芸援軍:一条信龍

与力同心: 220騎

    :1100兵

槍足軽 :3000兵

弓足軽 :1000兵


「出羽」

小野寺家目付:漆戸虎光

槍足軽 :2000兵

弓足軽 :1000兵


「陸奥」

山之内一族援軍:曽根昌世

槍足軽 :2000兵

弓足軽 :1000兵


「越後」

総大将  :武田信廉

扶持武士団:2400兵

槍足軽  :3000兵

越後国衆 :4000兵


「越中国」

総大将  :武田信繁

扶持武士団:2400兵

槍足軽  :3000兵

越中国衆 :4000兵


「信濃国」

諏訪城  :鷹司義信:騎馬隊  :6000騎

妻籠城  :甘利信忠:扶持武士団:1000兵

青崩城砦群:楠浦虎常:扶持武士団:1000兵


横谷入城:浅間孫太郎

三才山城:赤羽大膳

北条城等:三村勢

福応館 :福山善沖勢

丸山館 :丸山善知勢

村井城 :諏訪満隣勢

殿館  :殿勢

荒井城 :島立貞知

櫛木城 :櫛置当主

波多山城:櫛置勢城代

淡路城 :櫛置勢城代

伊深城主:後庁重常


花岡城 :元難民が統治

金子城 :元難民が統治

その他統治地域の城砦は元難民が統治

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