第57話揚北衆・出羽侵攻

7月越後本庄城:義信視点


 俺は電光石火の行軍で、山之内一族を味方に引き入れた。そして返す刀で、刈羽と揚北の諸将を完全に屈服させるため、武力威圧巡回を再開した。史実で上条の乱・天文の乱・景虎の乱と、越後内では多くの内乱があった。その内乱でも、特に暴れ回ったのが揚北衆で、彼らには細心の注意が必要だ。


 本庄城主の本庄繁長は、父親の本庄房長を、叔父の小川長資と大葉沢城主の鮎川清長に謀(はか)られている。信じていた弟に騙された本庄房長は、城を奪われた衝撃で急死していた。だが本当に衝撃死だったのだろうか?


 もしかしたら暗殺されたのかもしれない。そしてその疑念は、俺だけではなく、本庄繁長も心の中で思っているはずだ。


 本庄家の忠臣たちの働きで、産まれたばかりの繁長が家督を継いだものの、実権は陣代となった叔父の小川長資が握っていた。


 俺はこれを正すべく、本庄城を急襲した。問答無用で小川長資を捕えて斬首した上で、本庄繁長を番長に取り立てた。


 史実で本庄繁長は、9月8日に父親の本庄房長の13回忌を行うと偽り、呼びだした小川長資を捕縛して切腹させていた。だがこの世界では、わずかに俺が早く行動したため、本庄繁長に恩を売る事ができた。


 他にも長尾景虎と上洛した本庄実乃の栃尾城を接収し、一族家臣は扶持武士として召し抱えた。


 鳥坂城主の中条藤資と、高梨政盛の娘を妻に貰っていた、嫡男の中条景資は隠居させた。その上で面目をたて、生活も保障するために、足利将軍に仕えるように上洛させた。残された中条一門は、城と領地の半分を召し上げた上で、次男の中条資興に跡を継がせた。


 本与板城主の直江景綱も、隠居上洛させた。残された直江一門も、城と領地の半分を召し上げた上で、弟の直江重綱に跡を継がせた。


 三条城主の山吉行盛と山吉豊守は、隠居はさせたが越後の残ることを許した。ただし条件として、山吉行盛の次女に、飛影が選び抜いた影衆を婿に迎えさせた。その代わりに、城と領地は安堵した。


 俺は飛影が選び抜いた戦士と、大熊朝秀に模擬戦をさせてみた。朝秀の武勇は抜きんでおり、先駆けに最適と判断したからだ。


「朝秀よ、そちの武勇は衆に抜きんでおる。朱槍を与えるゆえ、常に我の先駆けとして奉公すべし!」


「有り難き幸せ、この朝秀、命尽きるまで鷹司卿の先駆けとして働かせていただきます!」


 箕冠城主の大熊朝秀は、その武勇を評価し、領地の半分は召し上げだが、城の保有は認めた。その上で番長に取り立て、手柄次第で領地を返すと約束し、忠誠心とやる気を引き出すようにした。


 謙信派だった国衆と地侍は、当主を隠居させた上で、足利将軍家に仕える条件で上洛させた。だが山吉行盛の前例が知れ渡り、城と領地を安堵してもらうべく、俺の忠臣を婿に迎えようする者が多く現れた。


 俺の報復を恐れる越後の国衆と地侍には、大きく分けて2つの流れがあった。武田家越後総代官の武田信廉に、俺の忠臣を婿に迎えたいと、仲介を求める家が1つ。これに成功した家は、城も領地も残す事ができた。


 もう1つは、一族一門家臣団内で、家督争いや権力争いがある家だ。本家や主家から独立すべく、武田家や鷹司家との直臣化を求める者が続出し、国衆としてのまとまりと軍事力を失う家。結局細分化され、10石から100石程度の扶持武家になってしまった。






8月出羽本城城:義信視点


 俺は影衆の報告受け、周辺諸氏の情勢を判断し、出羽に討ち入る決断をした。大宝寺城主(鶴ヶ岡城)で出羽三山別当職でもある大宝寺義増(だいほうじよします)が、勢力を著しく減退させていたからだ。


 多くの一族や家臣に背かれていたが、それでも重臣筆頭格であり、藤島城主で羽黒山の別当職でもある、土佐林禅棟の後押しでなんとか家を保っていた。まあ俺が忠誠を勝ち取った、本庄家の助力がなければ、滅亡していた可能性が高いだろう。


 俺には修験者や山窩が忠誠を誓ってくれているので、その情報網と横の繋がりが大きな戦力だ。つまり出羽三山や羽黒山の修験者も、俺の事をよく知ってくれている。その事があるからこそ土佐林禅棟は、俺の支配下に入る事で大宝寺家を纏められると、大宝寺義増に献策したのだろう。


 大宝寺家を配下に加えることになり、俺は一気に反大宝寺勢力を駆逐した。降伏臣従した出羽の国衆と地侍は、領地の半分を召し上げて、あぶれた足軽や地侍を扶持武士にした。それと越後で新たに始めた、城と本領安堵を条件とした、婿養子の押し込みを行った。


 俺は庄内一帯(田川郡・櫛引郡・出羽郡・遊佐郡)を勢力圏にした上で、召し上げた城に足軽兵団を守備兵に残し、出羽の平鹿郡に侵攻した。


 小野寺家の第12代当主である小野寺稙道は、天文15年5月27日に、金沢八幡別当の金乗坊と、横手城主の大和田光盛ら家臣の反乱に会い、湯沢城に追い詰められて暗殺されていた。


 小野寺稙道の4男である小野寺景道は、大宝寺義増の下に逃げ込み保護されていた。3年後に大宝寺一門の娘を正妻に迎えた事で、大宝寺家から軍事的支援を受けることに成功した。


 大宝寺家の縁戚となった事と、軍事支援を受けた事で、稲庭城主など小野寺一門と、由利郡の国衆地侍の支援を取り付ける事に成功した。だが何より大きかったのは、忠義の知将である八柏道為の働きがあった事だろう。


 それらすべての力を結集して、父の敵である金乗坊と大和田光盛を滅ぼし、横手城を取り戻していた。


 俺は大宝寺義増を支配下に置いたので、大宝寺義増の娘婿である、小野寺景道を臣従させる好機と考えた。2万を超える兵力を率いて、平鹿郡・由利郡・雄勝郡・最上郡・豊島郡を席巻して、国衆と地侍を威圧して回った。


 中には抵抗する国衆や地侍もいたが、抵抗する国衆の城は、鉄砲と弓の支援を受けた、盾装備の足軽と地侍で強襲した。1度でも敵対した国衆と地侍は、城も領地も没収して、俺の直轄領とした。


 この圧倒的な戦力と示威行為により、小野寺景道は臣従を誓った。






8月越中放生津城の主郭:武田信繁視点


 ジャンク船の購入と、交易船の蝦夷派遣は上手くいった。今後も新造ジャンク船なら、真珠で購入すると言う条件がよかったのだろう。あの交渉から今日に至るまで、毎日の様に明国のジャンク船が、越中各地の湊に入港して来る。


 鷹司卿の指導で始められた、鮫の尾を干物にした物や、干鮑(ほしあわび)・鯣(するめ)・干蛸・干海鼠(ほしなまこ)が高値で売れた。特に海鼠腸(このわた)は、考えられないくらいの高値で売る事ができている。


 蝦夷に送ったジャンク船に同乗した将兵は、米を対価にアイヌ族から、海藻・鮭・鰊などを干した物を、大量に買い集めることになっている。


 さらに鷹司卿の指導で、天草(てんぐさ)・オゴノリなどの紅藻を集めて、粘液を凍結・乾燥する作業が行われた。


 越中の民は無駄な苦役と思っているが、古くから鷹司卿と苦楽と共にしてきた難民出身の将兵は、喜々として作業に当たっていた。儂も少し楽しみだ、いやかなり楽しみなのだ!


 鷹司卿が、豆腐を凍結させた氷豆腐を、初めて食べさせてくれた時の衝撃は、今でも忘れられない。あの独特の食感と、吸いこんだ美味しい汁、一緒に煮た卵と干椎茸も美味しかった。思い出しただけで唾(つばき)が湧き出す!


 氷豆腐も冬に凍結させる必要があった。今回も凍結させているから、驚くほど美味しい物ができ上がるに違いない。ああ、唾が止まらん!


 鷹司卿から、氷豆腐をもっと美味しく食べるためには、蝦夷で採れた海草を干した物が必要と教わった。もっとジャンク船を購入せねばならん、中古ジャンク船でも買い増ししていいと、鷹司卿から許可を頂いた。佐渡侵攻用の戦船も確保しなければいけない。佐渡侵攻時にも蝦夷派遣船を確保するために、中古ジャンク船買い取り交渉を始めよう。






10月信濃諏訪城:義信視点


 越後・陸奥山之内領・出羽大宝寺領・小野寺領と、騎馬隊の機動力で駆け巡った。足軽兵団と扶持武士団の大兵力で、威圧城攻め制圧支配を実施した。そうして大きく勢力圏を広げた上で、雪深くなる前に諏訪城に戻って来た。すると九条簾中の、月のしるしがと止まっていると言う!


 目出度いが不安だ!


 この医療の遅れた戦国時代では、周産期死亡率は高いはずだ。俺の知る範囲では、江戸時代の乳幼児死亡率は5割だったはずだ!


 子供の半数が周産期死んでしまうのだ!


 もはや戦どころでは無い、全力で母子の健康管理を行う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る