第52話調略・侵攻・年末棚卸

9月15日信濃の犬甘城:義信視点


 俺と信玄は調略攻勢に出た。


 手に入れた官位官職を目一杯利用したのだ。


 効果があったのは、信玄が手に入れた信濃守護職だった。これで去就(きょしゅう)を迷っていた、信濃の国衆や地侍が、一気に武田に傾いた。本心では小笠原や村上を見限りたいが、武士の矜持(きょうじ)や体面(たいめん)で踏みとどまっていた国衆の、見限るための言い訳ができたのだ。


 それでも反武田を掲げる信濃の国衆には、武田義信改め鷹司義信から降伏の使者を送った。武田には降伏できないが、摂関家の鷹司家を継いだ俺になら降伏できる。鷹司家の仲介を受けての降伏なら、武家の体裁を整えられると考える国衆もいた。


 まあそれ以外にも、信濃守護職武田家の使者と、鷹司摂関家の使者が来る事で、国衆内の跡目争い、主導権争いが表面化した。どのような小さな家であろうと、必ず跡目争いや主導権争いはあるもので、家の中で降伏派と抗戦派の争いを誘発することになった。


 最後に使った手が、足利義藤将軍と細川晴元管領連名の上洛命令だ。幕府の役職に任じ扶持を与えるので、一族一門全て連れて上洛せよと言う内容だ。その扶持は俺が幕府に支援する物だから、実質的には俺が雇うことになる。


 最終的に上洛した国衆地侍に裏切られたとしても、早期に信濃攻略ができればそれでいい。最良は信濃の反武田勢力が上洛して、細川晴元伯父上の味方として三好長慶と戦ってくれる状況なのだが、それは望み過ぎだろう。


 そうそう、伊那に下向中の公家衆にも手当を払って、国衆地侍へ仲介の使者に立ってもらった。これが非常に役に立った。高位高官の公家が、武田に味方する様に説いてくれたから、国衆地侍も降伏しやすかった。特に効果があったのは、前関白・九条稙通の説得だった。伊那で武田の保護下にあるとはいえ、武田と縁戚関係のない、朝廷の重鎮による仲介を断る国衆は皆無に近かった。






9月15日信濃の中塔城:小笠原長時視点


「重高殿、今日までよく忠誠を尽してくれた、礼を申す!」


 俺は中塔城主の二木重高殿に、心からの感謝の気持ちを伝えた。


「御屋形様、申し訳ござらん。家臣領民の事を考えれば、これ以上武田に抵抗することができなくなりました」


「貴殿の気持ちは痛いほど分かっておる、気になさるな重高殿。将軍家は、甲斐の鬼畜を信濃守護に任じられた。武田に従わねば、将軍家に叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)すことになる。この世も末の話だが、鬼畜の息子が鷹司の名跡を継ぎ、そなたら国衆に従うように命じてきておる。さらには事もあろうに、九条卿までが仲介の労を取られておる。これに抗しては、朝廷にも抗することになってしまう。事ここに至っては、これ以上重高殿に負担はかけられん」


「御屋形様は、これからどうなさるのですか?」


「鬼畜めは儂らを上洛させて、将軍の味方をさせる腹積もりのようだが、その手には乗らん! 中野城の高梨政頼(たかなしまさより)殿が支援してくれると言ってきておるし、この政智が赤沢城を拠点に提供してくれると言ってくれている。儂はまだまだ諦めん!」


 俺に話を振られた赤沢政智が、静かに頭を下げてくれる。俺にはまだ、忠誠を尽してくれる国衆や地侍がいる!


 鬼畜の軍門に降ってたまるか!






9月15日信濃の平瀬城外:義信視点


 俺は今動員できる全戦力を投入して、小笠原軍に止めを刺すために、信濃中を巡った。最初に攻めたのは、諏訪に最も近い場所で最後まで抵抗を続ける、平瀬城だった。


 城主の平瀬義兼は、最後まで籠城する心算だったようだが、家臣の1人が裏切り義兼を刺殺した。これによって城内では、降伏派と籠城派の、血で血を洗う殺し合いに発展したようだ。


 俺は降伏派が城門を開くのを見て、先陣に突入を命じた。武田軍の突入を契機に、大半の籠城派も諦めたようだ。一部の忠義な兵が抵抗するものの、ほとんど味方に損害を出す事なく、平瀬城を手に入れる事ができた。


『信濃攻略軍』

足軽弓隊:2000兵

足軽槍隊:6000兵

騎馬隊 :4000兵

黒鍬輜重:5000兵

総計:1万7000兵


 一方信玄軍は、村上義清軍へ攻撃を開始した。最初に砥石城を囲むと、砥石城の足軽大将だった、真田幸隆の弟・矢沢頼綱が裏切った。


 真田幸隆を通じて、事前に調略が行われていたのだ。このお陰で、あれほど苦戦した砥石城を、わずか1日で落城させることができたようだ。


 これを契機に、最後まで村上義清に味方していた国衆も、ついに諦めて武田に降伏した。






9月17日信濃の中塔城外:義信視点


 俺の最後通告に対して、中塔城主の二木重高は、率直な回答を寄越してきた。それは小笠原長時の逃亡時間を稼ぎたいので、2日間待って欲しいと言うものだった。


 俺はこの条件を認める事にした。小笠原長時を逃がすことで、攻城戦がなくなり、敵にも味方にも損害が出ないなら、その方がはるかに得だ。それに上手くすれば、忠臣二木重高の心を掴むことができるかもしれない!


 3日後に、降伏臣従してきた二木重高を先陣に加えて、小岩嶽城を囲み古厩盛兼を降伏させた。


 4日後には、安曇郡森城主の仁科盛能が、弟たちと共に降伏臣従にやって来た。弟は筑摩郡青柳城主の青柳清長、小岩嶽城主の小岩盛親、安曇郡平倉城主の飯森盛春、安曇郡渋田見城主の渋田見盛家の4人だ。


 5日後には、大宮城主の沢渡兵部盛方と、古山城主の大日方上総介直武と、弟で安曇郡千見城主の大日方佐渡守直長が、降伏臣従にやって来た。生き残るために忠誠を示したい直武は、臣従を拒む一族の棟梁で、父でもある大日方直忠と、兄である大日方直経を攻め殺している。


 戦国とは惨いものだ!


 だがそれを行ったのは、まぎれもなく俺なのだ、死んだら地獄に落ちるかもしれない。


 今回の討伐で大きかったのは、千国街道を押さえる、仁科盛能の弟で平倉城主の飯森盛春と、家臣で塩島城主の塩島但馬守勝雄を臣従させたことだ。これで全ての関所を廃止して、軍の移動はもちろん、物流を支配することができる!



 他にも仁科盛能の家臣で、飯田城主の大日向佐渡守や、茨山城・三日市場城・小川村の城砦を確保した。






9月20日信濃の赤沢城:小笠原長時視点


「御屋形様! 小坂城の桑原が裏切りました!」


 赤沢城主の赤沢政智が、怒りに打ち震えながらやって来た。


「政智殿、村上勢も唐崎城主の雨宮景信、屋代城主の屋代正国、鞍骨城主の清野右近太夫が裏切った。もはやこの城も守り切れまい。倉科殿の守る鷲尾城と、我らが殿(しんがり)を引き受けて、御屋形様と村上義清殿に逃げて頂こう」


 略奪を中止して、赤沢城に入ってくれた、神田将監が苦渋の選択をする。だが神田将監の言葉も、俺の心を慰めてはくれぬ。


「え~い、中塔城を落延びて幾日もせぬうちにこの為体(ていたらく)とは、情けない!」


 ついつい吐き捨てるように愚痴が出てしまう


「御屋形様、家臣を纏めきれず申し訳ありません」


 こんな事では駄目だ、落ち目の俺に忠義を尽してくれたからこそ、配下に裏切られたのだ。もし政智殿が早々に鬼畜に降っていれば、本領も安堵されたであろうし、配下に裏切られることもなかったのだ。


「政智殿のせいではない、儂が不甲斐無いだけよ!」


「御屋形様、武田に囲まれては落延びる術(すべ)もなくなります、野陣を敷き進退の自由を確保いたしましょう」


「鬼畜め! 攻めてきおったら我が馬廻り衆の突撃で目に物見せてくれるわ!」


「それはなりませぬ御屋形様! 義信は越中で鉄砲を使い、突撃して来た神保勢を一撃で粉砕したと聞き及んでいます!」


 将監が諫めるが、それは義信を買いかぶり過ぎだ!


「それは神保が未熟だったからじゃ! そなたと儂が小笠原弓馬礼法で鍛えた馬廻り衆なら、必ず勝てる!」


「我らの弓馬礼法を使うには、この場所は不利でございます。この狭隘(きょうあい)な場所では、十分に馬を使いこなせません。義信の鉄砲に対抗するには、中央に盾を持った足軽を配して突撃させ、騎馬隊を左右に分けて、遊撃させるのが良策でございます」


 将監の言う事も一理あるな。


「いたし方なし! 将監の策を取る。」






9月26日信濃の若槻山城:義信視点


 俺は、降伏して来た信濃の筑摩衆・安曇衆・埴科衆・更級衆を先陣として、白馬から戸隠に抜ける山道を侵攻した。現代でいうと406号線を通り、戸隠に出た俺は若槻山城を奇襲した。


 俺は非情に徹して、寝返った信濃衆の損害は考慮せずに、我攻めをやらせた。若槻山城を1日で攻め落とした俺は、周辺の国衆や地侍に降伏の使者を送りつつ、高梨政頼の籠る中野城・鎌ヶ嶽城・鴨ヶ嶽城に進撃した。


 俺が背後に現れた事を知った小笠原・村上勢は、軍を維持する事をできずに崩壊(ほうかい)した。馬廻り衆や名のある忠義の将は残ったものの、足軽や地侍が逃げ散ってしまったのだ。


 その状況を見た信玄旗下の将兵は、赤沢城と千曲川の間で踏ん張っていた、小笠原・村上連合に猛攻を開始した。足軽や地侍に逃亡された連合軍には、信玄軍に抵抗する力はなかった。


 命懸で殿(しんがり)を務めた、神田将監指揮の騎馬隊のお陰で、野尻湖方面に出て関川を下って越後に逃げていった。高梨政頼と合流する事すらできない、壊滅的な敗走であった。


 本来なら、高梨政頼の従兄弟である長尾景虎(上杉謙信)が、救援に来るのだろう。だが謙信は長尾政景との抗争中で、とてもではないが、援軍を送る余裕がなかった。史実の川中島合戦が起こるための要因である、越後衆の支配と同心が達成されていなかったのだ。


 信玄は、農民兵が動員できる限界ぎりぎりまで、水内・高井郡に留まった。俺と一緒に、国衆地侍の調略攻略に専念した。


 信玄が農民兵を連れて領地に帰った後は、農耕に制限されない俺の軍だけで、調略攻略を行った。鴨ヶ嶽城で最後まで抵抗する高梨政頼の攻略法は、鉄砲と弓矢の援護射撃の下で、竹盾で防御した信濃兵を突撃させると言うものだった。


 この信濃兵の損害を考慮しない我攻めで、高梨政頼と一族一門を皆殺しにした。この後も我攻めを続け、初雪が降る前に信濃国の城砦を全て攻略し、信濃に残った全ての国衆地侍を臣従させた。


 その上で俺は、信濃国衆の領地替えを断行した。来春早々の越後討ち入りを宣言し、そのための国境線城砦の直轄化を、国衆・城主に認めさせたのだ!


 直轄化した城砦は、千曲川流域で、与板城主の長尾政景との連絡路にある、白鳥城、城板城、今泉城、仙当城、牛ヶ窪城。


 飯山街道を押さえる富倉城、大川沢端城、大川日蔭城、飯山城、大倉崎館。


 野尻湖から関川を下る街道を押さえる、赤川城、土橋城、琵琶島城、割ヶ岳城。


 千石街道を押さえる、平倉城、塩島城、飯田城だ。


 これで甲斐・飛騨・越中・信濃の4カ国が、ほぼ完全に武田家の支配下に入った。街道を押さえた事で、軍の移動と物流を支配することができる。楽市楽座を断行する事で、多くの商人が集まり、商品が溢れかえるだろう。ここから得られる富は莫大で、武田家の力を不動のものにしてくれるかもしれない。



『義信直轄力』


 俺の力の源である生産力の内、麦焼酎の卸値がジワリと下がり、1合18文となった。信濃で大胆な領地替えを行い、直轄地を増やした。石高には畑や山林も石高計算されているため、実際の取れ高とは一致していない。特に今年は大洪水の連発で取れ高が著しく減少し、大凶作となった。


甲斐水田 :1100町(1万1000反)

甲斐畑  : 700町(7000反)

信濃伊那郡:10万石

信濃諏訪郡: 3万石

信濃木曽郡: 1・5万石

筑摩郡  : 4万石

水内郡  : 5万石

埴科郡  : 2万石

安曇郡  : 1万石

高井郡  : 1万石

飛騨   : 3万石


取れ高

玄米: 5万5000石

雑穀:20万0000石


備蓄兵糧

玄米:35万石

麦 :60万石


焼酎生産力

杜氏26人

杜氏1人当たり3石甕1000個前後

26×3×1000=6万9000石

6・9万石×(1合卸値18文)=128万2000貫文


鉄砲     4064丁

三間槍 :1万3000本

三間薙刀:  7000本

弓   :  9000張

大型弩砲:   700基

打刀  :2万1000振(徒歩用の現代人が思う日本刀)

太刀  :  8000振(騎馬用の長い日本刀)

足軽具足:2万5000個


足軽弓隊 :  3000兵

足軽槍隊 :1万2500兵

扶持武士団:  6300兵

騎馬隊  :  5000兵

黒鍬輜重兵:  5000兵


繁殖牝馬 1593頭

訓練育成中の軍馬

0歳馬:1501頭

1歳馬:1392頭

2歳馬:1309頭

3歳馬: 828頭

4歳馬: 402頭

5歳馬: 132頭


繁殖牝牛 989頭

育成中の牛

0歳牛:923頭

1歳牛:802頭

2歳牛:723頭

3歳牛:448頭

4歳牛:177頭

5歳牛: 71頭


合戦・牛馬・武具・米麦・恩賞・裏工作費用など歳出

128万貫文


『軍資金』

使用不能な武田貨幣

金銀銅貨合計 6000万貫文

(10文黄銅貨が特に使えない・半分は信玄保有)


使用可能な精銭・永楽銭

188万貫文

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