第23話信玄悪逆:金銀銅交換比率:撰銭

躑躅ヶ崎館の小人郭


 今日も子供達が勉強している横で、俺は戦略書を書き記している。騒がしく、楽しそうに学んでいる子供たち。俺も子供なのだが、餓死寸前で生きる事に必死だった彼らが、学ぶ・知識を得るという特権を得られるようになったのだ。本当に嬉しそう学んでいるのだが、そんな彼らの側が妙に落ち着き心安らぐ。


 今日俺が戦略書に書き記している項目は貨幣で、特に量目と交換比率だ。うっかりしていたのだが、甲斐のある東国と、京のある西国では銭の交換率が違う。西国では永楽銭が嫌われ、東国では永楽銭が好まれる。


明銭:永楽通宝

宋銭:天聖通宝・皇宋通宝・元豊通宝など

唐銭:開元通宝

精銭:宋銭や唐銭

鐚銭:質の悪い私鋳銭や、長年使われて劣化した銭。


 日々交換比率は変わるが、最近の交換比率は以下の通りだ。

 東国では、永楽銭(明銭)1枚で精銭4枚・鐚銭8枚から10枚。

 京では、永楽銭(明銭)1枚で精銭1枚・鐚銭8枚から10枚。

 九州では、永楽銭(明銭)2枚で精銭1枚・鐚銭8枚から10枚。


 そうなのだ、京で商いして永楽銭を手に入れ、甲斐まで運べば価値が4倍に跳ね上がる、九州なら8倍だ!


 だからと言って、俺の軍資金の基本が永楽銭になったわけではない。


 問題は、後に佐渡金山が発見され大量の金が出回ることと、貨幣の鋳造が順調にいくことだ。日々の交換比率は違うし、日本各地でも違うのだが甲斐の金銀銭の交換比率は。


 金1両(約16・8グラム)は銀7・5両(約126グラム)で永楽銭1・5貫文となっている。

 両は4・5匁(約16・8グラム)


 だが、俺の知る江戸時代初期の交換比率は

 金1両(約16・8グラム)は、銀50匁(約187グラム)で銭4貫文(4000文)


 まあ、何が言いたいかと言うと、極力銅銭は銀に換え、銀は金に換えておけと言うことだ。だから荷役は商いで、金山を持つ国衆や大名相手には対価に金を要求し、銀山を持つ国衆や大名には対価に銀を要求する。東国では対価に精銭を要求し、西国では永楽銭を要求する。荷役が運ぶべき商品が不足する時期には、銭を運んでもらい精銭と永楽銭の交換比率で儲けている。


 史実で織田信長は「定精選条々」を出し、悪貨1枚を精銭1枚に対して、2分の1、5分の1、10分の1の価値比率にそれぞれ分類して活用するように命じている。後に「精撰追加条々」も出し、金1両は銀7・5両で銭1・5貫文と定めている。


 そこで俺は信玄に提言と言うか献策と言うか、表面上は相談を持ち掛け誘導を試みた。史実で有名な武田信玄の甲州金はまだ鋳造されていない。なので、甲州独自の計算法として、両を4進法から10進法に改める相談をした。そして両を圓に改める相談もした。


 1圓は100銭であり、100銭は1000厘とする方法だ。


 信玄は、古法を改める事の混乱に難色を示していたが、今までの銭で年貢を納めさせる方法では、領民が商人に米を買い叩かれてしまうと話した。それよりは、武田で両替所を設けて、そこでしか両替を行えない事にすればよいと話した。


 そうすれば、武田家は莫大な両替手数料を独占できる。商人が手にしている利鞘分も、今後は武田家が独占できる。交換比率は公平に、俺が開いている市の相場でやればいい。


 あくまで相談と言う形で説得したが、利鞘分儲かると言う所が決め手となったようだ。信玄にしても、軍資金の銭も欲しいが、領民が餓死したり逃散しては元の子もない。


 俺を上手く活用して、俺が稼いだ銭を領民に吐き出すように仕向ければ、俺の力を抑え領民を豊かにし、年貢収入を増やすこともできる。俺としても、領民が農閑期に商品を積極的に作ったり、耕作物以外の商品を作ってくれれば、荷役が扱う商品が増える。何より領民の手元に耕作物が残る様になれば、領民が餓死する確率が減るので大歓迎だ。


 商売で儲けた銭を多少吐き出すぐらい何でもない、ささいなことだ。


 まあ俺も歴史に名を残したい願望がある。桝(ます)の大きさも税制も、武田家は独特なのだ。いや、この頃の日本は、各地の領主によって違うと言った方がいいかもしれない。


 武田家では、大小切税法(だいしょうきりぜいほう)と言う、田畑の貢租を三等分し、その内3分の2「大切」を物納、残りの3分の1「小切」を金納する。ここを変えるのは難しいから、有名な甲州三法の残る1つ、甲州金を俺流に変えて歴史に名を残したい。


 そうそう、俺の差配する市には、堺を始めとする各地から商人が集結している。各種漢方薬・焼酎・生糸・白絹を欲してのことだ。同時に商人は、甲斐で不足して高値となっている、玄米を始めとする穀類を持ち込んだ。


 おかげで米価が安定し、凶作や戦時以外の米価は、秋の収穫時で1石につき400文、夏の不足時は1石につき1貫600文となった。


 だが俺は、高値の時であろうと米の売り抜けは禁じ手としている。なぜなら何時籠城する羽目に成って、大量の兵糧が必要になるかもしれないからだ。だが豊作地方の米を秋に大量買いすることや、麦の収穫時期に大量買いする事は、自分の中で解禁した。


 凶作・飢饉に対応すべく、20年は保存できる干飯、9年は保存できる籾が付いたままの稲穀(とうこく)状態の米と粟、甕で丁寧に保存すれば100年以上もつ焼酎を、非常食として蔵に収めさせることにした。


 酒に関する前世の記憶では、新酒が好まれるようになったのは江戸時代からだ。税制の関係と、木樽で日本酒を保管すると痛むことがあるので、10石の大樽で酒造りする様になってから、新酒が好まれるようになった。


 だが戦国の世では、1石か2石の甕で酒を造ってる。戦国時代は古酒の方が高値で売れるし、凶作時のために長期間保存しておける。






高遠城:城主の間


 8月に信玄が、準備万端整えて佐久への侵攻を開始した。北佐久の志賀城に籠城する、笠原清繁を攻めるのだ。笠原清繁は、関東管領の上杉憲政への援軍要請が認められ、縁戚関係にあった西上野の菅原城城主・高田憲頼の援軍を得て、籠城を実行したのだ。


 俺は侵攻軍には加わらず、3カ所の守備を任されることになった。


 1つは天竜川下流の警戒で、今川・織田・松平などが攻め込んで来ることへの対処だ。

 どうやら今川と織田で、松平を属領とすべく争っているらしい。勝った方が余勢を駆って、武田領に攻め込んでくる危険もある。大将にその心算はなくても、現場の武将や足軽が独断専行することもありえるので、国境線の防衛拠点となる要衝は、先に確保しといた方がいい。その対策として、伊那の国衆と地侍を1000兵派遣した。


 1つは林城の小笠原長時が、この機に諏訪を奪いにくる事への対処だ。

 これは今まで通り、南熊井城・北熊井城・赤木南城・赤木北城・横山城・八間長者城・武居城・妙義山城・中原館・本山城に警戒させている。だが念のために、これまで以上に物見を頻繁に出すよう、強く指示した。


 1つは木曾義康が攻め込んで来ることへの対処だ。

 これには、中山道・権兵衛峠・大平街道・木曽路を警戒しなければならない。担当の国衆や地侍に物見を出すように指示した上で、何時でもどこへでも援軍を派遣できる様に、伊那の国衆と地侍3000兵を高遠城に結集させた。この3000兵は、天竜川下流へも信濃へも動員可能だし、最悪甲斐への援軍にも転用可能だ。


 信玄は以上の俺の対処を確認した上で、上原城の板垣信方勢も限界まで佐久方面に動員した。


 信玄の志賀城攻めは凄惨を極めたようだ。


 7月24日に信玄は、大井三河守を先手として甲府を出陣し、志賀城の包囲を開始した。


 翌25日には、金堀衆が志賀城の水の手を断つことに成功したため、志賀城は窮地に陥った。笠原清繁に後詰めを依頼された関東管領・上杉憲政は、上野の平井城から倉賀野党16騎を先陣に、家臣の金井秀景に2万兵を預け派遣した。関東管領軍は碓氷峠を越えて信濃国へ進軍した。


 これに対して志賀城を包囲中の信玄は、重臣の板垣信方と甘利虎泰に、別動隊5000兵を編成させて迎撃に向かわせた。


 8月6日に両軍は小田井原で合戦となり、板垣・甘利率いる武田軍は関東管領軍を一方的に撃破し、敵将15人、3000兵を討ち取る大勝利を収めた。信玄は打ち取った3000の生首を志賀城に運ばせて城の周りに置き、籠城している笠原清繁を威嚇した。救援の望みが全く立たれた城兵の士気は、大きく衰えたそうだ。


 8月10日に武田軍は、総攻めをしかけて外曲輪と二の曲輪を焼き落とした。


 翌11日に武田軍は、残る本曲輪を攻め、城主笠原清繁と関東管領からの援軍高田憲頼を討ち取り、志賀城を攻め落とした。信玄はこれで碓氷峠・西上野口を確保したので、小県郡攻略を本格的に始める事だろう。城内に取り残された女子供はすべて生け捕りとされ、甲府に運ばれ売られることになるようだ。


 親類縁者が買い取れないなら俺が買い取ろうか?


 今回も俺を守備に回したのは、硬軟使い分けをするための、役割分担としか思われない。率直に話し合って、親子で誤解や思い違いがないようにしよう。信玄に切腹させられるのだけは嫌だ!


 信玄の攻勢はこれで終わらず、奴隷市を後回しにして、全軍を伊奈方面に転進させたのだ!


 これには俺も驚いたんだが、一気に反武田の伊那勢を討伐する好機ととらえたようだ。俺を先陣大将に任命し、まず今宮城・飯田城・愛宕城・切石城・桜山城・虚空蔵山城・知久平城を国衆から取り上げた。


 本陣の血まみれ信玄軍5000兵の威圧と、先陣を務める俺の4000兵の、どちらに降伏する方がマシかは馬鹿でもわかる。志賀城攻略戦の地獄絵図は、すでに風のように早く、噂として伊那全域に広まっていたのだ。


 意外な事なのだが、城は全て直接交渉した俺の直轄城となった。信玄はさらに軍を進めることを命じ、茶臼山城・西平城・小野郷城・久米ヶ城・駒場城・伊豆木城・甲賀館・吉岡城・根羽砦を俺に攻略させた。


 彼らも草木がなびく様に武田家に臣従を誓い、俺に城を明け渡したが、これらの城砦群も全て俺の直轄城となった。城地を取り上げられた国衆や地侍を、銭で雇用する様に俺に命じて来たが、この措置はさすがに信玄だ。これで兵農分離を足軽だけではなく、武士階級でも確立できる。


 だがそれ以上に大切だったのが、武田家譜代衆の不満解消だ。俺も分かってはいたのだが、譜代衆は俺が河原者を城代に取り立てて、譜代衆を蔑(ないがし)ろにすることに不満を募らせていたのだ。だが、俺の力の源泉は河原者だし、不当に差別されている人たちを見過ごしにはできない。


 そこで信玄は、新たに直轄城として手に入れた城代の半数を、俺に古くから仕えている、譜代衆子弟近習を任命する様に指示してきたのだ。俺もこの指示には助けられ、河原者への対応が楽になった。なぜなら河原者の中には、城代や郭の主に任命されて当たり前と、思い上がっている者もわずかかではあるが出始めていたのだ。


 さらに信玄は、狼煙台を各城砦に設置して、敵の急襲に備えるように指示してきた。これは俺がうかつだったのだが、支配領内なら伝書鳩より狼煙台の方が確実だ。もっと狼を捕えて飼い慣らし、狼煙材料の狼糞を採取保存しなければならない。


 信玄は最後に、青崩城・熊伏山城・袴越城・観音山城・天ケ森城などの城砦群の築城を命じた。それと同時に、全ての城を俺に与えた代わりに、佐久から伊那に転戦にしてからの信玄軍の日当を、玄米で支払うように命じてから、戦う事なく悠々と躑躅ヶ崎館に帰還した。


 分かったよ、玄米くらい払ってやるよ、新たに手に入れた城に比べれば安いものだ。父ちゃんありがとう!

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