女将軍 井伊直虎

克全

第1話1550年13歳・御種

 『駿河・今川館』

 震えるのではない!

 運命に抗うと決めたのだから。

 身勝手な男に負けないと決めたのだから。

 待つだけでは駄目だと思い知らされたのだから。

 あの人は私を裏切ったのだから。

 他の女を妻に迎えたのだから。


 私を裏切ったあの人に子供が出来たら、家を乗っ取られてしまう。

 私の許婚を奪った女に子供が出来たら、家を乗っ取られてしまう。

 私が産んだ子供の家を継がせる。

 私の家を護るには、今川義元の種を手に入れなければならない。

 私と義元の子供なら、小野政直などの讒言に屈する事もない。


 だから震えるな、私。


 私の実家・井伊家は元々遠江守護・斯波家に味方していた。

だから一四九四年に駿河国守護・今川氏親が遠江に侵攻して来た時には、斯波義寛(しばよしひろ)・大河内貞綱(おおこうちさだつな)組んで今川と戦った。

 だが武運拙く一五一三年に遠江国は今川家の支配下となり、曾祖父・井伊直平は今川に味方する決断をした。

 隠居した曾祖父・直平の跡を継いだ祖父・直宗は、一五四二年に、主君・今川義元に従い三河国田原城攻めに参加し戦死してしまった。

 野伏(のぶし)に襲われたと言われているが、私は信じていない。

 今川や小野が、井伊家を乗っ取る為に裏で動いたと思っている。

 戦死した祖父・直宗の跡を父・直盛が継いだ。

 父が正室に迎えたのは、今川一門・新野親矩(にいのちかのり)の妹・祐椿尼だった。

 私の実の母だが、これも井伊家を守るためだった。

 でも父と母の間には女である私しか生まれなかった。

 だから父の従兄弟のあの人を婿に迎え、井伊家の当主になって貰うはずだった。

 だが元々敵対していた過去を変える事は出来ない。

 あの人の父、私から見れば大叔父の直満と、同じく大叔父の直義の二人が、井伊家家老・小野政直の讒言で切腹させられてしまった。

 あの人の命も危うかったが、家老の今村正実が信濃の伊那に逃がして匿ってくれた。

 小野政直は、井伊家の家老と言うより、今川家の手先や目付と言うべきだろう。

 少しでも隙を見せれば、井伊家を乗っ取りかねない。

 あの人が伊那で生きていることを今川と小野から隠す為、私は何も知らされず、あの人の菩提を弔う為に出家させられた。

 私があの人を想い、日々念仏を唱えていたと言うのに、事も有ろうにあの人、は伊那で妻を迎えていた。

 それなのに私は、あの人の冥福を祈る日々を重ねていた。

 でも母は、そんな私を哀れに思ってくださったのだろう。

 私に全てを教えて下さった。

 哀しかった。

 悔しかった。

 情けなかった。

 そして怒りと恨みが私の心の中に生まれて来た。

 最初は私を信じてくれず、何も教えてくれずに、騙して出家させた曾祖父や父を恨んだ。

 次にこのような運命を強いた、今川や小野に怒りを覚えた。

 最後に私を裏切ったあの人と、顔も知らぬ女を呪った。

 そして私は決意した。

 男には負けない。

 男に強いられる運命には従わない。

 私自身の手で運命は切り開いて見せる。

 先ずは井伊家の家督を私の子供に継がす。

 決してあの人に井伊家を継がせない。

 そして私にこの道を選ばせた、今川と小野を許さない。

 今川を私が手に入れて、その力を使って小野一族を抹殺して見せる。

 私は賭けに出た。

 今川義元の種を貰って、井伊家の跡継ぎを産む決断をした。

 そして機会を創り出して、義元や龍王丸を暗殺して今川家を手に入れる。

 先ずは義元の妾になり種を貰って、井伊家の世継ぎを産む許可を貰う事だ。

 だが今川家内の家督争いを嫌って、側室入りが認められない可能性も高かった。

 だがこれは、母の兄・新野親矩(にいのちかのり)と関口親永(せきぐちちかなが)が動いてくれて、何とか一つ目の賭けに勝った。

 関口親永が味方してくれたのには訳が有る。

 親永の妻は井伊直平の娘なのだ。

 曾祖父・直平は、敵であった今川家の疑惑と悪意を逸らすため、娘を今川義元の妾に差し出したのだ。だが義元は大叔母を妾にはせず、義理の妹として家臣に嫁がせた。

 その嫁ぎ先が関口親永だったのだ。

 関口家は、今川刑部少輔家と呼ばれる今川家の有力一族。

 新野家も今川一門で義元の信頼も厚い。

 この二人が強く推してくれたので、何とか一つ目の策が成就した。

 もし井伊家に産まれた義元の子供が、今川家の家督を争う事になったら、責任を持って二人が成敗すると言って貰った。

「おとわ様、体調は大丈夫ですか?」

「ええ大丈夫よ、悪阻(つわり)もないわ」

「それはようございます。大切な御体なのですから、少しでも辛ければ、何事によらず仰ってください」

 曾祖父・直平と父・直盛は、私の決断を苦々しく思っていたのかもしれない。

 何時かはあの人を伊那から呼び戻し、井伊家を継がそうと思っていたのかもしれない。

 あの人が伊那で娶った妻を離縁させ、許婚の私と娶せる心算だったのかもしれない。

 だが私は、そんな男達の身勝手に翻弄されない!

 今の井伊家には、今川に逆らう力などない。

 少しでも力が有るなら、佞臣・小野政直の讒言で大叔父二人が殺される事などないのだ。

 だから私が母上と密かに企てた、この策略に逆らう事など出来ない。

 そして男に運命を弄ばれているのは、私や母だけではない。

 大叔母様も、男の為に翻弄されてこられたのだ。

 男に運命を捻じ曲げられた女の繋がりを侮ると、大きなしっぺ返しを喰らう事を思い知らせてやる。

 今川家と井伊家からは、出来る限りの銭を引き出す。

 そしてその銭を使って、私独自の手の者を育てるのだ。

 女の力を使って男を翻弄し、この戦国の世を乗り切って見せる。

 奥にいる限りは、男の家臣を引き入れる事は出来ない。

 折角義元の種を手に入れたのに、不義を疑われては何にもならない。

 ここは別式女や女武者を育て上げる事が一つ。

 奥にいては分からない、世間を知る為の耳目となる女素破を育てる事が一つ。

 閨で毒を盛り、敵を葬るのも大切な手段の一つだろう。

 銭の力で私が育て手に入れる家臣は、そう言う者達だ。

「おとわ様、また浮浪児を探させておられるのですか? 御側に仕えさせるなら、もう少し身分の高い者を選ばれた方がいいのではありませんか。今川館の奥が臭くなったと、他のお妾達が申さされているそうでございます」

「そうなの? でも功徳を施して、御腹の子の安産を仏様に願っているのよ。だから陰口くらいで止める訳にはいかないわ」

「左様でございましたか。知らない事とは申せ、つまらぬことを申してしまいました。されどほどほどに為されないと、御屋形様の御不興を買う事にもなりかねません」

「そうね、ほどほどにしておくわ」

 ほどほどにする気などない。

 身分の高い者は、何時裏切るか分かったものではない。

 行き場のない子供を救い出すからこそ、忠誠心を育てる事が出来る。

 幼いからこそ、一から望む技能を教え込む事が出来る。

 見目良く育ちそうな者を白拍子に育て上げ、隠密や刺客として男達の下に送り込んで篭絡させればいい。

「ふじ、どうしたの? 何を泣いているの?」

「・・・・・」

「此方に来なさい」

「でも、お屋敷に上がっちゃいけないと言われています」

「そうね、だったら私が縁側まで行きますから、側に来なさい」

「はい」

「ちょっと見せてみなさい」

「あ!」

 ふじは、襤褸雑巾を継ぎ合わせたような、着物とも言えない布切れを身に着けている。

 だが問題はそんな事ではない。

 着物の下にあるものだ。

 そう、私の眼に触れないとこに付けられた折檻跡だ。

 女と言う者は陰湿な生き物なのだ。

 人の目に触れないとこを痛めつけて、己の汚い悪行を隠蔽しようとする。

 私も決して善意だけで優しくするわけではない。

 ふじに恩を売り、忠誠心を買う為だ。

 私は勝てない相手と敵対する心算はない。

 義元や有力家臣と繋がりのある者とは敵対しない。

 最初から彼女達は敵なのだ。

 私の手の者を攻撃するのは、当たり前の事だ。

 問題は、この傷が私の女官が付けていた場合だ。

 味方と思っていた者が、私の命令より己の考えを優先していた場合は、後々大切な命令を勝手に変えてしまう恐れが有る。

 そのような事をする女官は、早々に排除しなければいけない。

「正直に誰がやったか言いなさい。私が勝てる相手なら、ここから追い出してあげます。でも勝てない相手なら、ふじに我慢して貰います。あなたが喋った事で、これ以上悪くなる事はありません。だから誰がやったか正直に言いなさい。」

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