3-8 復讐
翌日、祥次郎は若菜の履歴書を片手に、東急東横線の菊名駅で下車した。
駅前の小さな商店街を抜け、坂道に沿って続く住宅街をコツコツと靴音を立てながら登り続けた。
太陽が真上から照り付け、普段全く運動をしない祥次郎はあっという間に背中が汗ばみ、息が切れそうになった。
しかし、坂を登りきると、遠目に富士山も見えてきて、時折丘陵を越えて吹き付けてくる海風が心地よく感じた。
細い坂道や階段に沿って、延々と続く住宅……その一角に、若菜の履歴書に掲載された住所があった。
そこにあったのは、どこにでもあるような2階建ての住宅だった。
しかし、玄関の前には『売家』という大きな看板が立っていた。
「え?『売家』って、まさか……」
祥次郎は敷地に足を踏み入れ、庭から家の中を覗こうとした。
窓にはカーテンが敷かれて中を見ることはできず、かろうじてカーテンの無い二階の窓を遠目から見ると、すでに荷物は何も無い様子であった。
ガス、水道、電気のメーターも既に止まっており、生活の様子は見当たらなかった。
「一体……どうなってるんだ?」
祥次郎は、敷地から出ると、犬の散歩をしていた女性に声をかけた。
「あのお、すみません、ここの家の方、どうされたかご存知ですか?」
「ああ、田崎さんか。昨年の春くらいかなあ?引っ越していったみたいですよ。近所に挨拶も無しに、ね」
「挨拶無しで?」
「そうです。出て行く前まで普通に生活していたし、自治会の会議にも顔を出してたんですけどね」
「田崎さん、どこか、変わったような様子はありましたか?」
「変わった様子ねえ……確か、引っ越す半年くらい前から、借金取りのような柄が悪そうな人が時々来ていましたね。玄関から大声で、ご主人の名前を何度も叫んでいたのを覚えてますよ」
「え?じゃあ、借金から逃れるため、行方をくらましたのでしょうかね?」
「さあ、どうなんでしょうね。とにかく、我々としてもこのまま誰も住まないで放置されるのは、正直不気味なんですけどね。私たちが知ってるのは、このくらいです。失礼しますね」
そう言うと、女性はそのまま犬を連れて坂を下りて行った。
若菜は、すでに履歴書の住所には済んでいなかった。
その後の住所は、全く分からないし、おそらく祥次郎、そして予備校にも伝えていないようである。
祥次郎は大きなため息を付くと、駅へと続く急坂を下りて行った。
□□□□
浜松町の『エクセリアスホテル』の一角に佇むバー『フロイデ』。
時間帯にはまだ夕方であったものの、多くの外国人旅行客がカウンター席やソファーに座り、グラスを片手に談笑していた。
ハンチング帽を深々とかぶった祥次郎は、カウンター奥の空いている席に腰を掛けた。
「こんばんは、小野田君」
「おお、祥次郎君、今日はどうしたんだ?」
「ちょっと運動して、喉が渇いちゃってね。で、何か美味しい酒でも飲んで帰ろうと思って、立ち寄ったんだ」
小野田は、シェイクを振っていた手を休め、笑みを浮かべて祥次郎の席に近づいた。
祥次郎は椅子に座るや否やタバコに火を灯すと、ふうと一息つき、目を閉じて心を休めた後、顔を上げ、小野田の顔を見ながら呟いた。
「ユキちゃん、昨日俺の店にきたよ。そして、いきなり切りつけられてね。このざまだよ」
そう言うと祥次郎は、腕に何重にも巻かれた包帯を見せた。
「……え、その傷、ユキちゃんがやったのかい?」
「そうだよ。未だに痛むんだよなあ。果物ナイフだったんだけど。おまけに、アシスタントの秋音ちゃんは、ナイフの柄で後頭部を殴られて、軽い記憶喪失になっちゃってさ」
「ひどいな。それもユキちゃんが?」
「いや、それはまだ分かっていないんだ」
「あのユキちゃんが、この件で深く関わっていたなんて、想像すらできないな。まだまだ若いのに、お客さんにも評判良かったし、カクテルやウイスキーの作り方も、早々とマスターし、僕がこの店を外して任せても大丈夫な位だったからね」
祥次郎は、タバコの火を灰皿で揉み消すと、小野田を手招きし、耳元に手をあて、小声でささやくように話した。
「ところでさ、ユキちゃんのこと、もう少し聞きたいんだけど、いいかな?」
「良いけど、ユキちゃんについて、また何か気になることがあったのか?」
「さっき、ユキちゃんから提出された履歴書の住所に実際に行ってみたら、売家だったんだ。近所の人に聞いても、突然出て行ったようで、分からないって言ってた」
「そ、そうなんだ!じゃあ、僕の所に出された履歴書の住所も……」
「たぶん、引っ越す前の住所じゃないかな?」
小野田は慌てて奥の部屋に入り、履歴書を調べると、青ざめた表情で再び祥次郎の元へと戻ってきた。
「横浜市港北区……ってところ?」
「ああ、そこに今日行ってきたんだよ。そこにはもう、住んでないよ」
「じゃあ、今は何処に?」
「というか、小野田君なら知ってるかな?と思って、聞きたかったんだけど……やっぱり、分からないのか」
「……ごめん。分からない」
「まあ、それは置いといて、だ。ユキちゃん、何か気になるような言葉を言ってなかった?他の客との絡みでもいい。何か手掛かりになりそうなものはないか知りたいんだ。何でもいい、教えてほしいんだ」
小野田は、憔悴しきった表情を浮かべた。
何か思い出そうとしても、なかなか思い浮かんでこない……
その時、小野田は、何か思い当たることがあったようで、目を大きく見開き、手をカウンターに叩きつけるように押し当てた。
「そう言えば、以前、『復讐』という言葉を言ってた気がする」
「復讐、だと?」
「こんなかわいい若い子が使う言葉じゃないなあ、と思ってたけど。お客さんからお酒を飲まされたことがあってね。『私には、復讐したい人間がいるんだ』ってね。単なる酔っ払いのたわごとだと思ってたけど、ちょっと怖いなあと思ったね」
そう言うと小野田は、スコッチウイスキー「マッカラン」を、トクトクとグラスに注ぎこんだ。
「今日は久しぶりにマッカランが入荷したから、マッカランでいいかな?このウイスキー、たしか、篠田ケインズさんも好きなんだよね」
「ああ、確か本人もそう言ってたな」
すると、小野田は突然、何かに思い当たったような表情を見せ、顎に手を当ててしばらく思案すると、訥々と語りだした。
「祥次郎君、今、思い出したよ!ケインズさんのことでね。ケインズさん、いつも裕恒さんと一緒にここで飲んでいたけど、当時、ユキちゃんと、時々目配せやらサインやらを送り合ってたような記憶があるんだ」
「な、なんだそりゃ?サイン?目配せ?」
「ユキちゃんは裕恒さんがお気に入りみたいで、裕恒さんの話相手になってることが多かった。それはこないだ君にも話したよね?でも、時折裕恒さんから視線を外して、隣に座ってるケインズさんに、何やらジェスチャーしたり、表情で何やらメッセージを送っていたように見えたんだ」
祥次郎は、マッカランを口にした後、グラスを回しながら少し表情が緩んだ。
「ほほう、なるほど……そういうことなのか」
「え、そういうこと?どういうこと?」
驚く小野田をよそに、祥次郎は店のBGMで流れる洋楽に合わせてフンフンと鼻歌を唄いつつ、ケインズが嗜んでいたというマッカランをゆっくりと喉に流し込んでいた。
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