7.シーン1-6(きっかけ自体は些事な大事)
目が覚めた私は、心底幻滅して溜息をついた。確かに寝られたことは寝られたが、起きた後の気分が甚だよろしいものではない。元から盛り下がる一方だった私の気分が、見事な夢のお陰でますます盛り下がっていく。船室にある窓から外を確認すれば、呆れるほどに良く晴れた朝だった。
横を見れば、オルカはあぐらを掻いたまま、ぐっすりと眠っている。この体勢で、よくもまあこんなに眠れるものである。
もう一人はどうなのだろうと背後の気配を探ってみたが、時すでに遅し、何の気配もしなかった。どうやら部屋を出ているらしく、もうここには居ないようだ。しまった、逃げられた。
ふう、と落胆しながら息を漏らした後、私はもう一度緩みきっている隣人を見た。今まではあまり気に留めていなかったが、よくよく見れば彼の髪はなかなかきれいに手入れされているのである。背中の辺りまで届いている長い髪を後ろで括っているのだが、最初はただ伸ばして無造作に括っているのかと思っていた。しかし、どうにもそうではないらしい。寝癖がついているし、ちょっと気が付きにくいのだが、何か思い入れでもあるのかもしれない。
ちなみに今更なことなのだが、件の彼は別格として、私にとってはオルカの魔力もあまりそばで感じたいものではない。私は高い魔力、もとい、濃いマナの感覚が、少々苦手なのである。
最悪の事態と見事なまでの夢に加え、隣人からは居心地悪い気配が漂い、非常に申し訳ないことではあるが、私の気分は物凄く悪かった。
「おーい、朝ですよー」
不当な怒りをぶつけるべく、私はオルカを少し強引に起こしておいた。……ごめんね。
他に室内にいた人たちも、もぞもぞと起き始めたようだ。
その後、有料で船員さんからもらった配給の食料をもっさもっさと口に詰め込み、私は立ち上がった。昨日聞いた話だと、今日の夕方頃にでも非常停留所の村に着くらしい。私は手頃な船員を見つけて停留先の位置を確認するべく、一足先に部屋を出た。
漁村って言ってたよなあと、荷物から取り出した地図を見ながら歩く。起きてからというもの、というよりもまあ昨日からなのだが、気分もあまり優れないので、ついでに少しリフレッシュしようと甲板へ出た。
「漁村、漁村、海沿いの村……えっ、もしかして、コレ!?」
地図の海岸をなぞっていた私の指が、ぽつりと描かれた点の上で止まる。
とても嫌な予感がして、急いで近くにいる船員さんに声をかけた。船員さんは船の細かな破損箇所を確認している最中だったらしい。
声をかけてしまってから、失敗したことに気がついた。先客がいたのだ。辺り一体がすごくもんもんしている。モンモンボーイである。
彼とはことごとく縁があるようだ。あまり良い縁ではないらしいとだけ言っておこう。
「あ、いたいた」
後ろからオルカが合流してきた。
あまり具合が良いとは言えないというのに、脂っこいこってり魔力でふわふわパンを逆サンドするのはやめていただきたい。彼らに悪気は無いにしろ、嫌なものは嫌だと言えよう。しかしなんだか、船員さんに「やっぱりいいです」と断りをいれて立ち去りづらい雰囲気だ。
気が付けば、なぜか船員さん含めて皆、黙ってこちらをじっと見ていた。お願いだから、みんな挙ってそんなに注目しないでほしい。
そのまま沈黙が続き、私は諦めて切り出した。
「すみません、もしかして到着予定の村ってここですか?」
地図にある印を指で示しながら尋ねる。小さい村だからか、名前が書かれていなかった。不親切だが、値段もそれなりの地図だ。
「ああ、うん、そうですよ。キョスカってところです」
「キヨス……?」
「キョスカです」
私の質問が終わると、船員さんは仕事へと戻っていった。快活そうな、二十になるかならないか程度の若い船員さんで、恐らくは下っ端だろう。
私はもう一度地図に視線を落として目的地を見つめた後、がっくりとうなだれて溜息をついた。そして、そのまますぐ近くにあった船の縁に腕をかけてもたれ掛かかった。春もそろそろ終わりだと告げるように、磯々とした濃厚な潮の香りが鼻を突き、ことさら私の幻滅を誘う。
これからのことを考えると、またもや深く溜息が出る。する度に幸せが逃げるだなんて誰が言ったのだろう、幸せが逃げたからこそ溜息ついているんじゃないか。
「そんなに落ち込まなくても……」
オルカが苦笑しながら聞いてきた。君はなぜわざわざ船室から私を追いかけてきたのか。聖女か。さては聖女に会いたいのか。
「だって陸路だと無理だからこの船に乗ってるのに、よりによってその元凶の森の手前で降ろされるなんて」
次に来る定期船がその漁村まで立ち寄ってくれるらしいが、それは約一週間も後だと先ほどの船員さんから聞いている。一週間も何もなさそうな小さな漁村で立ち往生なんて、ついていない。
ふと視線をずらすと、怪しい方の少年がじっとこちらを向いていることに気が付いた。何だろう、何か言いたいことがあるなら言いなさい。
様子を窺ってみたが特に反応は無い。まったく、素直になれば良いじゃない。おつりを払えば良いじゃない。痺れを切らした私の方から切り出した。
「妹に会ってみますか?」
特に返事はない。しかし、どことなくだが、どうしようかと悩んでいそうな感じがするではないか。
なんということだろう。彼はおつりを払ってくれそうなのである。カモなのである。私のホークアイがぎらりと光る。
ここで獲物を逃がしちゃならぬ。毒を食らわば皿までだ。
もう一度私が口を開きかけたとき、突然オルカが大きな声を出した。
「そうだ、次の船待たなくてもいいんじゃないか!」
「はいっ?」
「ほら、森を抜けちゃえばいいんだよ」
何を抜かしているんだこいつ有り得ん、という私の視線に気が付いたのか、彼は続けた。
「確かに一人だと危ないかもしれないけど、二人いれば何とかなるんじゃないか。森自体は大した面積も無いみたいだし、きっと朝出発すれば何とか日が沈むまでには出られるよ!」
私を巻き込まないでほしい。しかも昨日、せめてもの護身に持っていた剣を海に落としてしまったのだ。さすがに命を捨てに行く気まではない。
と、思いきや、彼が見ているのはなんともう一人の少年の方だった。ああ、なるほど、彼は二人でランデブーしたいのだ。ここから先は彼らだけの世界である。
「ふーん、そっか。二人で仲良く気をつけて行ってね」
「何言ってるの、アリエも一緒に来ればいいじゃない。二人いれば君くらい守れると思うよ、ほら、見たでしょ? 昨日の彼の力。なかなかのものだ。それに君だって女の子助けて結構凄かったじゃないか」
禁断の世界に乙女を巻き込もうとは何事か。そうでなくとも、気合と根性で森を抜けられるのなら元よりこんなに苦労なんかはしていない。オルカは勝手に話を進めているが、彼が了解するかどうかも怪しい。
「俺は一人で行く」
彼は一人で行けるらしい。次元の違いからか会話についていけない。
「でもほら、君……えーっと、名前なんて言ったかな」
オルカの一言で急に話の方向が変わった。なんて言ったかな、と言いながらオルカは私の方をちらりと見たが、私は小さく首を振った。言われた名前をあっさり忘却しているとは、二人揃ってなんとも失礼極まりない。もちろん、聞かれた方からは答える気配がしなかった。
「チョップさん」
私が出した救済処置に、当事者の方から言葉に詰まるような音が聞こえた。ずいぶんと気に入ってもらえたようで、私も嬉しい。
「ずっと思ってたんだけど、なんでチョップ?」
「昨日私がこけた拍子にチョップしちゃったから。しかも二回」
「名前で呼んだ方が良いんじゃないの、それ」
「本人が答えようとしないものを無理に聞いたってきっといい迷惑だよ。ね、チョップさん? 他に呼びようが無いんだから仕方ないじゃん! ね、チョップさん?」
オルカはしばらく唸っていたが、彼の方から返答が来ない為か、諦めたように切り出した。
「……えーと、でもほら、チョップさんも聖女に用」
「クラドラグカインだ」
なんてことだ、私ときたら、今まで大事な可能性に気がつかなかったのである。そう、もしかしたら、これは宇宙語なのかもしれない。私は今まさに未知なる異星とのコンタクトをとろうとしているのかもしれない。そう、ワレワレハ、ウチュウジンダッタノダ。
オルカまでもがチョップさんと呼び始めたことに焦ったのか、彼は遂に口を開いた。
「えっと、どこまでが名前でどこからが苗字?」
言葉を遮られたオルカだが、持ち直して全くもっての疑問を口にした。
「それが名前だ」
なるほど、だから彼は余計に名乗ろうとしなかったのだろう。難しい漢字の名前の人が、電話相手に自分の字を何度も億劫そうに説明する光景が浮かんだ。確かに、いちいちこれでは名乗るのが面倒になるのも無理はない。かなり変わった名前である。やはりワレワレハウチュウジンなのかもしれない。
「ずいぶん変わった名前だね」
オルカがストレートな反応を示す。
「えっと、何だっけ、クラ……あれ」
きっと毎度のことなのだろう、名乗った方はまたこれかといった様子だ。
「クラドで良」
「じゃあドラッグ少年で」
私と彼の言葉が被った。彼が途中で喋るのをやめたせいで、私の言葉の方が勝ってしまう。言葉を止めた彼に代わり、オルカが反応してくれる。
「……なんだか嫌な響きだね」
「じゃあクラクラ少年」
「なんか情けない感じがしない? というか、少年ってつけなきゃ駄目なの?」
オルカはやたら丁寧に私の冗談に返答してくれる。名付けられている方は特に止める気がないのか、今までどおり黙っている。何になっても知らないぞ。
「うーん、じゃあクラクラボーイ」
「一瞬だけちょっとカッコいいかも、なんて思っちゃったけどそんなことなかったね。クラクラから離れない?」
「じゃあパラリラ」
「全く関係ないよそれ! パラリラって何!」
「じゃあ若様」
「もうそれ名前じゃないよね! ていうか、若様って!」
「じゃあ若」
「それ様抜いただけだから!」
「もー、文句ばっかりなんだからー。いいよもう、愛しのハニーでもご主人様でも何でも」
「い、愛しのハニーって。さすがにそれは呼べないってー」
本人そっちのけで二人して言いたい放題である。呼べないってー、とか言いながら何だかオルカはニヤニヤしている。そっちのけられた本人からはやはり何も反応が無い。本当に何と呼ばれても構わないのだろうか。愛しのハニーでもご主人様でも好きに呼んでくれて構わないということだろうか。
「ほら、本人から制止が入らないんだから、そう呼んでいいってことだって! ね、チョップさん?」
「結局チョップさんかよ!」
迷った時は原点回帰が鉄板である。
「じゃあ、えー……カインで」
私は彼の名前の中で、名前として一番聞き慣れた部分を抜き出した。罪を犯して楽園を追われた人類の祖の子、得られぬ愛を妬んでしまったが故、手を血に染めてしまった罪の子だ。まあ、ここでは関係ない。
「カイン、カインか。うん、いいね、それで行こう!」
ここに来て一番まともな呼び名が出されたからか、オルカは大した疑問もなくうんうんと頷いた。ほぼ即決である。
「だからクラド」
「私はパラリラと呼びたいな」
ようやく放たれた彼の二度目の訂正をまたもや私の言葉が遮ってしまい、そこに続けてオルカのとどめが重なった。
「それを言うならおれはクラクラボーイがいいよ」
まさかである。
「よし、間をとってパラリラボーイにしよう」
「カインでいい」
残念である。
呼び名なんていうものは、結局のところ呼ぶ側が好きに呼ぶものなのだ。
「で、何の話してたかな。忘れちゃったよ」
呼び名を決めるというだけで随分脱線してしまったせいか、オルカは会話の流れをど忘れしてしまったらしい。頭をかきながらぼんやりと海を眺めている。私は覚えていたのだが、不本意なことなので黙っておいた。パラリラ、訂正、カインの方は不明だが、彼なら恐らく覚えていても口に出さないと思われる。
「ご主人様も捨てがたいと思うんだけどなあ」
「アリエは話を戻す気が無いんだね」
安心したまえ、どのみち夕刻まで暇である。
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