愛は、記憶の中で見下ろす
杞優 橙佳
神様。どうかあの人を守って。
地球を見下ろしてみたかった。
ただそれだけの理由でボクたちはエベレストの山頂を目指した。
ボク、星野タカラとヒューリック・ケネディは、たった二人でエベレストにいる。
すでに標高は8000メートルを超えた。酸素は地上の三分の一しかない。お互いの姿と、酸素ボンベだけがボクらを世界につなぎとめている。周囲にはエベレスト登頂に失敗し、遭難死してしまった登山者たちの遺体が転がっていた。
通称「死のゾーン」
気圧が低すぎてヘリコプターも飛ぶことのできない世界。
ここで死ねば、永遠にエベレストに取り残されることとなる。
――それもいいかもしれない。
こんなことを思ったのは、酸素が行き届かず、脳細胞が死に始めているからかもしれない。
「大丈夫か、タカラ」
「ああ、大丈夫だヒューリック。お前こそ前を見て歩けよ。足を踏み外すと危ないぞ」
「オーライ」
言ってヒューリックは前を向いた。
だがこの瞬間に高山特有の突風がボクらに吹き付けた。
「ああっ!」
ヒューリックがバランスを崩したのが見えた。
ボクはとっさに滑落した彼を助けようと動いていた。この世界がもはや誰かを救って自分も助かる世界ではないことを忘れて。
「あああああ!」
ボクとヒューリックはひとつになってエベレストを滑り落ち、いつしか意識を失った。
—
「おい! 目をさまさんか! そなた!」
女の子の声だ。
ボクは重いまぶたをなんとか開け、ぼやける視界の中に声の主を見つけた。
肩やへそを露出した軽装。エベレストでそんな格好をしたら死ぬぞ。
もしかしたら、だいぶ地上まで降りてきたのかもしれない?
いや、あり得ない。第一どんなになだらかな斜面に落ちてきたとしても、エベレストの周囲は雪に覆われているはずだ。
「よかった。捕まえられた。よかった」
女の子は泣きじゃくっていた。
何が彼女の感情をここまで駆り立てるのかわからない。
体の感覚が蘇ってくる。これまで着ていたはずの登山服を着ていない。
周囲を見ればスイスのように牧歌的な風景が広がっていた。
「ここは?」
「ここはシャンバリエル。そなたがこれから暮らすことになる土地じゃ」
ボクは事態を飲み込み始めていた。
シャンバリエルなんて土地は、地球上にない。
おそらくボクは死に、この世界に転生したのだ、記憶を持ったまま。仏教の世界だ。
「君の名前は?」
「わしはレーベル。レビ、と呼ぶがよい」
レビは長く白い髪を揺らし、赤い瞳でボクを見て、穏やかな表情で言った。
まるで愛しい我が子を見るような優しい目をして。
「そうか。ボクはタカラ。これからよろしく」
「知っておる。何もかも知っておる」
ボクは握手を求め、レビは首を振った。
レビの目から涙がポロポロとこぼおちる。
「タカラ。おぬしは1年後。この世界で魔王となる。わしと共にある限り」
かすれて消えそうな声だった。
レビは肩を震わせ、目線をそらしている。
ボクはそんな彼女を放っておくことができなかった。
「魔王になるなら、それもいいかもしれない」
世界の頂から、地上を見下ろすことができるかもしれないから。
ボクはレビをそっと抱き寄せ、彼女とともに生きることを決めた。
レビはボクに聞こえない声で、そっと何かをつぶやいた。
●転生してから1ヶ月。
異世界での生活は素朴ながら楽しいものだった。
レビとともに釣りをしたり、狩りに出かけたり、魔法や剣の勉強をしたりした。
「タカラはまだまだ未熟じゃのう」
全てにおいて彼女はボクよりも巧みで、ボクに技術を教えてくれた。
「昨日教えたことの復習じゃ。同じようにやってみよ」
1ヶ月間、ボクは彼女の指導のもとで修行に励んだ。
おかげで剣も魔法も上達し、スクランブルエッグを炎魔法で作れるようになった。
「そなたの魔王なる才能のおかげかのう?」
「レビの指導のおかげだよ」
「そ、そうじゃな。わしの指導がいいからじゃ。さすがわしじゃのう」
「ははっ。はいはい」
●転生してから2ヶ月。
ボクは徐々に、レビのことが好きになっていった。
献身的に尽くしてくれて、時々忘れっぽくて、すぐに調子に乗る。
最初は先生として頼りにしていたけど、いまは気が抜けているのか剣でボクに負けることもたまにある。頼りになるんだか、ならないんだかわからない存在。そんな人間味あふれた女性だから好きなのかもしれない。
「のうタカラ。おぬしの作る朝食はうまいのじゃが、これでは満腹で動けなくなってしまうのう。もう少し軽食でお願いしたかったのじゃが」
「今日、なにか予定あったっけ」
「ふむ。タカラもだいぶ剣と魔法がうまくなったからの。今日は街のギルドに登録しに行くのじゃ」
「先週行ったよね」
「なんじゃー! ちゃんとバッジを服につけとらんおぬしが悪い!」
「ははっ。やつあたり」
ボクらはこんなやりとりをしながらギルドに登録をして、山賊や盗賊の退治。
ゴブリンやオークの退治を行って日銭を稼いだ。
レビは桃のシャーベットが好きらしく、よくシャーベットをねだった。ボクは幸せそうにシャーベットを頬張る彼女の姿を見て、明日もまた頑張ろうと思うのだ。
●転生してから3ヶ月。
ボクとレビは唇を重ねた。
はじめて触れた彼女の身体は小さくて、あたたかくて、いつまでも触れていたい衝動に駆られる。
身体を重ねるまでもすぐだった。
気持ちの盛り上がった男のさがだろうか。
ボクはレビを抱きながら、彼女のためにできることはないかと考えた。
それからの日々は、ボクにとって違って見えた。
彼女のために身だしなみを整え、彼女のために旅をし、彼女のためにプレゼントをする。
しかし、だからこそ見えてきたこともあった。
彼女がボクと過ごしてきた日々をぞんざいに扱うことが目につくのだ。渡したプレゼントを大事にすることなく扱ったり、昨日行った観光地に今日も行きたいと言ったり、何も変えていないのに昨日と髪型が違うと言ったり。
「もっとボクのことを見てくれないか」
そう怒ることも増えた。まるでボクがどうでもいい存在みたいだからだ。もちろん異世界の価値観ではそうするのが普通なのかもしれないが、ボクは傷ついた。
だがボクが自分の感情をおさえきれなかったとき。彼女はいつも「すまんのう」と鼻をすするのだ。
ボクはいつも後悔する。
彼女にも何か深い事情があるのではないか?
ある日、レビは大好きな本を失った。
記憶を失っていく鳥が、飛び方も忘れて陸を歩いていたら、同じく傷ついた友達が陸に降りてきて、一緒に空を飛べるようになるまで付き添う話だ。彼女はこの本の「神様、どうか彼を守って」という台詞が大好きだった。
だけどギルドからの依頼を果たす中で、本がドロドロに汚れてしまった。
ボクらは後ろ髪を引かれる思いで、本を土に埋めて葬った。
翌日、ボクは盾を損傷した。冗談で自分を指差し、「神様、どうか彼を守って」と言ったら、彼女は首を傾げた。あんなに好きだった本の内容を、彼女は一切覚えていなかったのだ。
――彼女は、記憶を失ってしまう病気なのかもしれない。
そう考えたら彼女が不憫で仕方なくなった。
ボクはできるだけ、ポジティブな感情だけを彼女へみせるようになっていく。
少しでも彼女に過去を覚えていてほしくて、二人の思い出を毎晩語るようになっていく。
●転生してから半年
いつものようにギルドから仕事を受け、報酬を得た帰り道。
こぶし大の報酬を愛おしそうに持つボクの前に現れたのは、宝箱を荷車に乗せた馬車に乗る鎧の男だった。
「へえ、凄いな。あんなにたくさんの報酬がもらえるなんて、ドラゴンでも倒したのか」
ふと言葉を発したボクを、レビが小突く。
20cmほど背の低い彼女は、悲しげな表情でボクを見上げていた。
「お前もしかしてタカラか?」
馬車に乗っていた男は兜を取ってこちらを向いた。
そこにはよく知った顔があった。
「ヒューリック。お前もこの世界にいたのか」
「ああ。どうやら。しかも特殊能力を与えられたようだぜ」
聞けばヒューリックはシャンバリエルの国王に認められ、勇者として雇われているらしい。
「絶対魔法。相手の魔法防御を貫通して確定ダメージを与える能力だ。どんなに強力な怪物でも俺の魔法を使えば倒すことができる」
「それは凄い能力だな。ボクは最近ようやく剣と魔法が使えるようになったくらいだ」
「なるほど。この世界でもまたバディになりたかったんだが、それなら仕方ない。まあ、スローライフを楽しむといいさ。で、そっちの女の子は?」
「彼女はレビ。ボクを救ってくれた女の子だ」
ボクはレビの背中を押してヒューリックに紹介した。
「なるほど。タカラは特殊能力の代わりにもっといいものをもらったな」
「いいものって。彼女はものじゃないぞ」
「そうか? だが羨ましいな。羨ましい」
ヒューリックは顎を触りながら、レビをなめるように見る。レビはボクの後ろに隠れた。
「そんなに怖がらないでくれ。とって食うようなことはしないさ。そうだタカラ。三人で色んな場所を旅しないか。この世界にはすごい自然が広がっているんだ。世界の中心に向かって落ちていく滝。葉土が輝く森。虹色の砂漠。しかもギルドからの依頼を受ければタダで行けるときた。俺たち冒険家にとっては夢のような話じゃないか」
ボクたちは三人でよく旅をした。すごい自然を見に行くことを目的として、装備を整えようとクエストをこなし、武器屋や鍛冶屋を活用して武器を整えるのはRPGみたいで楽しかった。
ヒューリックの力を借りて、世界の中心に向かって落ちていく滝も、葉土が輝く森も、虹色の砂漠も行くことができた。
ボクらはそこでうまい飯を食べ、強敵と戦い、同じ時間を過ごした。
冒険を終えた後は男同士で温泉に入りながら話をするのがルーティンだった。
この日も虹色の砂漠の側にある温泉施設に三人で泊まって、男同士湯船で肩を並べた。
「なあタカラ、俺にもレビが可愛く見えてきたよ」
「ヒューリックもこっちで彼女をつくればいいじゃないか。勇者なら簡単だろう?」
「そうだな。だが勇者として国中に知られると、とんでもない女しか近づいてこないもんだぞ。俺が好きだと言ったら女は皆従うしかない。こんな状況でつくった彼女など奴隷と同じだ」
「奴隷か。君は都合のいい女は嫌いだったもんな」
「思い通りにいかない恋をしたいものだよ」
ヒューリックはお湯で顔を洗った。
思えばレビとの日々は思い通りにならないことだらけだ。昨日のことをすぐに忘れてしまう彼女。だけど日に日にボクは彼女のことが愛おしくなっていく。
「ボクだって思い通りにならない事ばかりさ」
「ほう」
「君にはわからない苦しさもあるんだよ」
「そういうものだな。そうだタカラ。明日ドラゴンを倒しに行かないか。ギルドからも多額の報酬を貰えると約束されてる。俺だけでもいけるクエストだが、古い友人のよしみだ。お前にも美味しい思いをしてもらわないとな」
「ドラゴンは見たことがないから、そういう意味で興味があるよ。ぜひ君に協力させてほしい」
「決まりだな」
ボクとヒューリックは水しぶきを上げながらグータッチした。
バディだった頃もよくこうやって次に登る山を決めたっけ。
風呂上がりで別々の部屋に戻るボクたち。
ボクの泊まる部屋ではレビが正座して待っていた。
「タカラ。あいつと付き合うのは止めるのじゃ」
「どうしたレビ。大丈夫だ。あいつはボクのバディだった。世界で一番信頼おける男だよ」
「どうしておぬしは昨日のことを覚えていないのじゃ! おぬしは昨日、あの男に殺されかけたではないか!」
「そんなことあるわけがないだろう? ヒューリックに対して失礼じゃないか」
だが次の日、ボクはヒューリックに殺されかけた。
ヒューリックの放った絶対魔法が、ボクのいた大地ごとモンスターを消し去ったのだ。
ヒューリックの方を意識しながらドラゴンと戦っていたから助かった。
もしレビに何も言われていなかったら、ボクはもうこの世にいないだろう。
「どうしてレビにはわかったんだ?」
ボクはこれまでのレビとの日々を振り返り、ある仮説に行き着いた。
レビは未来から過去に向けて生きているのではないか。
それを確かめるために、ボクは日本で言う七夕の習慣をやろうと提案した。
ふたりが短冊に夢を書いたあと、ボクはレビが書いた短冊を取っておいて、翌日彼女に伝えてみたのだ。
彼女はどうしてわかったのかと首を傾げる。
ボクは短冊を彼女に見せた。ボクの短冊にはこう書かれていた。
『レビと同じ記憶を共有したい』
「君も同じかどうか教えてほしい」
「今日気づくのじゃな。わしとおぬしが逆の時間を生きていること」
ボクは頷いた。
ボクと彼女の記憶は、今日しか交わらない。
ボクにとっての昨日が彼女にとっての明日で、ボクにとっての明日が彼女にとっての昨日なのだ。
「のうタカラ。それでもおぬしはわしと一緒にいられるか? おぬしにとっては今日出会ったおなごと何ら変わらんじゃろ? わしらは記憶を共有できない赤の他人じゃ」
レビは明日から世界が消えるような陰りのある顔をして、物悲しげに微笑んだ。
赤の他人……言われてみればそうかもしれない。
しかしボクの中にはレビとの思い出が溢れている。
ボクを助けてくれて涙をこぼした彼女。剣や魔法の稽古をつけて、勝ち誇っていた彼女。ヒューリックからボクを救ってくれた彼女。短冊に『タカラとずっと一緒にいたい』と書いてくれた彼女。
彼女が笑ったら嬉しいし、泣いたら悲しいし、不安なら不安を取り除いてあげたい。
唇を重ね、身体を重ねた彼女の体のぬくもりが、手のひらに残っている。
「レビ。君が覚えていなくても、君と笑った思い出は、ボクの記憶に刻まれているんだよ。ボクは君のことが大好きで、君とずっと一緒にいたい。それは昨日のボクも同じだと思うから。君がこれから出会うボクもずっと君を愛し続けるから」
自然と涙がこぼれた。
「だから赤の他人なんて、悲しいことは言わないで」
「タカラ。感謝する」
レビは赤い瞳をさらに赤くして、タカラの首元に抱きついた。
そして二人は唇を重ねていく。
ボクと彼女の好きが釣り合いの取れていた初めてにして最後の日。
ここからボクは彼女が好きでたまらなくなっていき、彼女は少しずつよそよそしくなっていった。
●転生してから1年後。
レビはベッドの上で枕に顔をうずめていた。
彼女は軽く悔しそうな顔をして、頬を紅潮させ目に涙を浮かべながら、ぶっきらぼうに言った。
「明日おぬしは魔王になる」
「ああ、もうそんなに時間が経つんだね」
ボクは異世界のタバコを吸いながら、彼女の美しい姿を見ていた。
大掛かりな手術の前日に、医師から誓約書を書かされるときの気分だ。
『100人に1人は後遺症が残る可能性があります』
実際には失敗の恐れがほぼ無い手術でも、誓約書にはそんな文言が並んでいる。
患者は失敗などするはずがないという自信と、もし失敗したらどうしようという不安にかられながら、緊張で眠れない夜を過ごす。
「ねえレビ。ボクはどんな魔王だった?」
ボクは初めて、自発的に未来のことを聞いた。
「そうじゃのう。お主は少しずつ優しくなっていった。じゃが、わしはお主のことが最初から好きじゃったよ」
「そうなんだ」
1年前に魔王になると言われてから、頭の片隅にあったが直視しなかった現実。
その現実が明日に迫っていた。
●転生してから1年と1日。
ボクは朝からひどい頭痛に襲われた。
頭痛だけでなく耳鳴り、歯の痛みと続き、全身を激痛に見舞われ、喉が焼けるようにいたくなり、身体が中から引き裂かれるような感覚を覚えた。この痛みは14時間半も続いて、ボクはレビのことも忘れて自室に引きこもった。
何度血反吐を吐いただろう。
夜になるとボクの肌はバラバラに引き裂かれ、中から黒い皮膚が姿を表していた。
鏡を見ると手だけではない、顔も胸も全身の肌が割れていた。ボクはボロボロになった肌色の皮膚を手で擦ってみる。するとするりと皮膚がめくれた。もう痛みはない。ボクは全身の皮膚をめくり、取り去った。
真っ黒の肌に白い眼球、黒い瞳。
輪郭と目以外は原型を留めない真っ黒な姿。
ボクの魔転は完了した。
●転生してから1年と1ヶ月。
ボクは自分に圧倒的な力があることを知った。
巨大な湖の底に、世界の中心に向かうほどの大穴を開けることもできた。
この世界に存在しない、きらめく葉のなる木々を生み出すこともできた。
砂を虹色に変えることもできた。
いつしかボクは世界を見下すようになった。
思えば最初からボクは、こうして世界の頂に立ちたかった。
誰も見たことのない景色を見て、自分だけの特権を楽しみたかったのだ。
その側にレビもいた。
ボクは次第にレビにひどい行為を強要するようになった。
女性を殴りたいとか、ひどい目に合わせたいなんてこれまで感じたことも無かった。
けれど新しく生まれた黒い身体は違っていた。
この身体は弱いものを脅かし、震えて怯える表情を見ると興奮して、最高に幸せな気持ちになる。
ボクの肉体はいつしか精神を置き去りにして、彼女に暴力を振るうようになっていった。
「ごめん、レビ。ごめん」
口に出す言葉と表情が一致していなかった。ボクは心で泣いて肉体で笑っていた。
レビにとってはどちらが真実だったかなど、言うまでもないことだ。
●転生してから1年と半年。
オレはこの頃、恐ろしい事実に気づき始める。
『行動が人格を決める』ということだ。
オレは次第に暴力をふるうことが楽しくなっていった。
レビの震える顔を見るのが快感になっていった。
彼女がオレの黒い肌を押して引き離そうとすると、オレは彼女の髪を掴んで自分の方へぐっと引き寄せた。彼女が首を振り、涙を浮かべる姿がオレを興奮させた。
――やめてくれ。
オレは彼女のことをたしかに愛していたはずなのに。
オレが今日見るのは、まだ一度も暴力を振るわれたことのない無垢な彼女。
今日オレの振るった暴力が、明日の彼女の記憶となって彼女を苦しめる。
だがこのときのオレは。
オレは完全におかしくなっていて。
まだ暴力を振るわれたことのない、無垢な今日の彼女を虐めるのが、新鮮で楽しみになっていた。
彼女に初めて悲しい思い出を植え付けたのは今日のオレだ。
この事実がまるで彼女の精神を自分のものにしたみたいで、興奮した。
そうだ。オレにとっての明日の彼女は、今日の出来事など覚えていないのだから――どんなに酷いことをしても気を病む必要はない――。
オレは狂った。大事な人を大事に思えないほどに狂ってしまった。
●転生してからちょうど2年。
オレから放たれる魔のオーラが、世界を覆い尽くしていた。
汚物にハエがたかるように、魔のオーラに適応し、悪魔化、妖蟲化した蟲たちが城にたかっていた。
オレが住み着いた居城とそのまわりは、いつしか「死のゾーン」と呼ばれて恐れられている。
おかしなものだ。
ここはオレの知っている死のゾーンとどこか似ていた。
エベレストの山頂付近で見た、凍てついた世界。
文明の利器が入り込むのを拒み、生命の存在を拒む世界。
そうだ。ここはもはや誰かを救って自分も助かる世界ではない。
心も体も凍てつく、救いのない世界なのだ。
オレはいつものように指先で柱に線を入れた。
柱に刻まれたいくつもの正の字は、オレが魔王になってからの日数を示している。
「転生してからちょうど2年か」
もうオレは1年もレビに苦痛を与え続けている。
いまも彼女は、オレの隣で疲れて寝ている。身体には赤いアザができていた。夜になると、彼女がこっそりと治癒魔法で治療していることは知っていた。それでも普通の女性なら壊れてもおかしくないだろう。
だがオレは壊れた彼女を一度も見たことがなかった。彼女はいつも無邪気で可愛くて、オレに優しかった。
永久凍土に覆われたオレの心へ、わずかなヒビが入った気がした。
1年間経ってはじめて、自分のしてきたことを思い知った。
昨日のオレがレビの無邪気な笑顔を見られたのは、明日の彼女が苦しみを背負い込んでくれたからだ。
オレは眠るレビを抱きかかえ、城の中心にある玉座へ座った。
彼女の白い髪を撫で、艷やかな唇に触れる。
オレが魔転する前日、彼女はどんな気持ちでオレと唇を重ねたのか。
暴力を振るい続けてきた男が一転、人生で最も甘い言葉をつぶやいて彼女を抱いた。
怖かったろう……気持ち悪かったろう……そこまでして彼女はどうして。
カラン。
思案に暮れるオレの足元に、蟲の死骸が投げつけられた。
うつむいて時間が経つのも忘れていたオレは、ゆっくりと顔をあげ、見知った顔の男と顔を合わせた。
「お前、タカラだろう」
現れたのは勇者ヒューリックだった。
ヒューリックはダイヤモンドのように輝く鎧と盾を持ち、どこか生物的なデザインの剣を持っていた。
彼は無数の蟲をその剣で打ち倒し、ここまでたどり着いたのだろう。
彼にそうさせたのは、エベレストで先頭に立ち、道なき道を行ったあの勇気だ。
かつて同じ向きを見て挑んだ死のゾーンで、オレたちは今向かい合っている。
自然と笑いが溢れた。
「変わらないな君は」
「お前も変わらない。タカラだとすぐわかったよ」
「それは君だからだ。オレは変わったよ」
「変わってないさ。お前はあの日と同じ。永遠にここに取り残されることを望んでいる」
ヒューリックは剣を強く握った。剣が赤く発光していた。
殺意が空気を伝わってくる。バディだった頃のヒューリックはもういない。
「魔王と勇者か。お互い偉くなったものだ」
「タカラ。世界を勝手に見下ろすな。力は多くの人を救うためにあるものだ」
「お前も変わったよ」
オレはレビの頬を叩き、彼女を起こした。
彼女はきょとんとしてオレの顔を見上げている。
久しぶりにこんな無防備な表情を見た気がする。
「レビ。ヒューリックのところへいけ」
「なぜじゃ?」
彼女はまるで、初めてボクを見るような目をしていた。
「そうか」
オレは天を見上げた。
――もう君を傷つけずに済むのだな。
オレはマントを脱ぎ去り、ヒューリックと対峙した。
体中から溢れ出る魔力が、オレの身体を赤く変色させていく。
「ヒューリック。オレの旅の集大成を見せてやる」
オレは最大限の魔力を両手に集めて、ヒューリックへ放った。
城の半分が吹き飛び、オレたちは外へ飛び出した。
勇者との戦いは夜明けまで続いた。
一進一退の攻防。
勇者の絶対魔法がオレの右手を吹き飛ばしていく。
だがオレとて伊達に魔王を名乗っていない。勇者の盾を破壊し、鎧を破壊し、視界を奪った。
勇者の剣がオレの額を真っ二つに割る。
流れ出る血液を、オレは長い舌で舐め取って笑った。
視界はどんどん狭まっていく。お互いの姿だけがオレたちを世界につなぎとめていた。
ヒューリックがバランスを崩したのが見えた。
オレが’とどめを刺そうと彼に接近した時。
彼の剣がオレの身体を貫き、そしてオレの爪が彼の心臓を貫いた。
—
目が覚めたら、雪が降っていた。
ボロボロの魔王は、足を引きずりながら、山の頂上を目指して歩いていた。
――前もこんな事があったな。
息が苦しかった。生き物の生存を拒む、雪に覆われた世界。
ここはエベレストか、それとも魔王城か。
オレとボクの意識は混濁して、ここがどこかわからなくなっていた。
パートナーの背中が見えない。ボクはこのまま死ぬのか。
そんなとき、後ろで足音がした。
振り向いたボクは、呆然と立ちすくんだ。
長く白い髪と、赤い瞳。
たったひとりで雪に覆われた道を歩く少女がいた。
「レビ! レーベル!」
ボクは痛覚を失った足を振り上げて、骨が石に当たる音だけを頼りに走る。
レーベルと呼ばれた少女は青白い顔でボクを見上げた。
ボクは彼女に覆いかぶさり、魔法で風を遮るシェルターを築いた。
「そなたは誰じゃ。どうしてわしにこんなに優しくしてくれる?」
「君をどうしても助けたかった」
視界は暗闇に覆われかけていた。
ボクの旅はここで終わるのだ。
わずかに見える視界の中で、レビがボクの手を取り、笑顔を浮かべた。
「そなたに感謝する」
ああ、これがレビの本当の姿なのだろう。
純粋で、素直で、あたたかくて、ボクの心を掴んで離さない。
魔王の瞳から、涙がこぼれた。
「レビ。オレはこれから君を何度も傷つける。自分勝手な都合で、昨日の君を、明日の君を傷つける。でもボクは、君のことを愛しているから。君の幸せを願うから。どうかボクを見捨てずにおいてくれ」
彼女にとっては、意味不明な告白だったろう。
だが彼女は「任せておけ」と笑った。
今までの罪が救われたような開放感と、罪悪感が胸を締め付ける。
溢れる涙が、いつしかボクの意識を世界から洗い流していく。
――神様。どうか彼女を守って。
●転生初日
「わしもそなたの幸せを願い続けることができた」
レビはタカラを見上げてそっとつぶやいた。
辛さも悲しさも受け入れて、彼女はここに立っている。
全ては、ふたりの別れとなるこの日を笑顔で迎えるためだ。
「神様」
彼女たちは同じ時間を過ごして、いつしか似ていた。
そう。最後に祈る言葉まで、同じだった。
愛は、記憶の中で見下ろす 杞優 橙佳 @prorevo128
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