1.新米局員からの依頼

 ふっとベディは瞼を開ける。

 ソファからゆっくりと身体を起こし、身体に掛けられていたブランケットをそっと畳んでいき、それを足元に置いた。

 人形ドールであるベディは、睡眠をとる必要はない。しかし、起きている限りは魔力消費が起こり、ノエに負担をかけてしまう。そのため、ベディは睡眠という行動をとって、ノエの負担を少しでも軽減することに努めていた。

 彼が使っていた反対側のソファでは、小さく丸まって眠る彼の主人——ノエ・ブランジェットの姿があった。

 濃い色のソファの上で、彼女の真珠灰色パールグレーの髪や白い肌が、いつもよりも白みを増して輝く。そっと視線を落としていき、小さく上下している胸を見れば、彼女が呼吸していることが分かる。生きていることが分かる。

 ベディは小さく安堵の息を吐き出し、それからテーブルの上に置いている櫛とリボンで、自身の白銀の髪プラチナブロンドを結い上げた。

 出来る限り音を立てぬよう気を配りながら、簡易キッチンへ向かい、時間を確認すると共にティーポットやティーカップを用意し出す。

 まだノエを起こす時刻ではないが、彼女が起きてすぐに紅茶が飲めるようにと準備を進める。

 その時、こんこんと小さなノック音をベディの耳は拾った。ぴたりと手を止めて、聞き間違えではないかどうかを確認しに、扉の方へと向かっていく。

 ノエが眠っているので開けることは出来ないが、ぴたりと耳を扉に付けて、外の僅かな音を聞き取ろうと意識を集中させる。

 すると、タイミングを見計らったかのように、バンバンと強く扉が叩かれ、ベディは思わず身を引いた。


「っふあ、ぁに?」


 さすがに音も大きく、ノエは身体を起こして目の下を小さく擦っていた。


「おはようございます、ノエ」

「んん……。おぁよ。ん、なに、誰か、来たぁ?」


 まだ頭が起きていないようで、口調は柔らかくゆっくりとしたものだった。とろりと溶けたアイスブルーの双眸は、まだ焦点が定まっていない。


「アリステラ様でないことは確かですが、いかがしますか、ノエ」

「少し、時間を稼いで……。服だけでも、着替える……」

「はい、かしこまりました」


 ノエはのろのろと起き上がり、ゆっくりと着替えに向かった。その後ろ姿を見送ってから、ベディはそっと扉を開く。


「よっ…て、ベディか」

「おはようございます、フォルトゥナート様」


 扉の前に立っていたのは、大きな紙袋を片手に持って、快活な笑顔を見せるフォルトゥナート。

 そして傍には、大きな丸縁眼鏡と三つ編みの黒髪が特徴的な少女が、小刻みに身体を震わせながら立っている。ベディは彼女の方を向いて、静かに一礼した。


「おはようございます。先日以来ですね、ベアトリクス・ローライン様」

「お、おあひょうございましゅ……」


 ベディに名を呼ばれ、ベアトリクスは肩を跳ねさせながらも、ペコペコと頭を下げた。


「でさ、ノエ、いるか?」

「はい。ですが、ノエは今は着替え中ですので、もう少々お待ちください」

「あー、悪いことしたなあ」

「ノエは怒っていませんでしたから、お気になさらずとも良いかと思いますよ」


 そう話していると、ベディの服の裾が小さく引かれる。


「いいよ、もう。大丈夫」

「はい。……良いとのことですので、どうぞ、中に」


 ベディは、フォルトゥナートとベアトリクスを部屋の中へと招き入れた。

 部屋の中を欠伸をしながら歩くノエは、いつもに比べるとやや乱れた服装と髪型で、客人を出迎えた。

 ぼふっとソファに半身を預け、気怠そうにフォルトゥナートとベアトリクスへ視線を向ける。


「お久しぶり、フォルに……ええと、ローライン情報員で合ってる、かな?」


 小さく微笑みながら首を傾げる様子は、普段彼女が纏っているものよりも随分と柔らかな印象を与える。ノエの寝起きの頭は、着替えという動作だけでは、まだ完全には覚めていないようだった。

 ベディは日常茶飯事にこの様子のノエを見ているが、フォルトゥナートやベアトリクスにとっては初対面の出来事だろう。

 現に今、フォルトゥナートは衝撃に口を開け、ベアトリクスは顔を真っ赤にして今にも倒れそうになっている。


「ノエ、はしたないですよ」

「んー……。まだ、眠いんだよ。何時?」

「十一時前です。簡単な昼食と紅茶をご用意しますね。お二人も、どうぞおかけになってお待ちください」

「あぁ、それならこれ。食ってくれよ」


 フォルトゥナートはそう言って、ベディに紙袋を手渡した。彼はそれを受け取り、中身を見る。

 中には、ドライフルーツの入ったパンに十字の切れ込みが入っている、独特な見た目をした小さめのパンがいくつか入っていた。菓子パンの一種であるホットクロスバンズだ。


「イギリス飯は好きじゃねぇけど、パンはまぁ食べられる方だからな。ちょっとしたお裾分けに持ってくる途中で、この子と会ったんだよ」

「ま、前もそうでしたけど、その、た、たしゅけてくだしゃって、その、ありがとうございましたっ!」

「いいっての。俺様もノエに用事あったんだからさ。気にすんなよ」


 けらけらと笑うフォルトゥナートに、ベディは静かに頭を下げる。


「ありがとうございます、早速ご用意します」

「俺様はいいよ。さっき食ったから。紅茶だけもらうけどな」

「し、失礼しますっ」


 ベディは簡易キッチンの方へ向かい、すぐに紅茶の準備をし始め、フォルトゥナートとベアトリクスはソファの方へと歩いて行った。

 フォルトゥナートはくつくつと笑いながら、夢の世界へ舟を漕ぎそうになっているノエの頬を、ぐにぐにと無遠慮に触っていた。彼女は抵抗することなく、眉間に皺を寄せて唸っている。

 ベアトリクスは、ただただその二人の戯れを見て、口元を両手で押さえていた。


「ノエ、そろそろ起きてください」

「んー……、ふわぁ」

「ベアトリクス様がいらっしゃっているということは、依頼関係でしょう。しっかりとした頭で聞くべきだと思いますよ」


 トースターでホットクロスバンズを焼き、ティーポットから三人分のティーカップへ琥珀色の液体を注いでいく。

 熱々のものを用意して、テーブルの上へそれらを並べていく。

 フォルトゥナートもノエから離れ、ベアトリクスの横に腰を下ろした。

 ノエは、ゆっくりとティーカップに手を伸ばし、そっとそれに口を付ける。

 それから、ベディはトースターで温めたパンを、皿に盛りつけてテーブルの中心に置く。


「フォルトゥナート様が持ってきてくださったホットクロスバンズです」

「う、んん。ありがとう、フォル」

「いいってことだ。前の時の礼も兼ねてんだからよ」

「………お礼にって、君達とアフタヌーン・ティーをしたように思うんだけど」

「いいじゃんよ。お前もヴィンスも、難しく考えすぎなんだっての」


 ノエは、もくもくとパンを口に運んで紅茶を飲む。そのうち段々と頭の方が起きてきたのか、ふいっと視線をベアトリクスの方へ動かした。


「ごめんね、だらしないところを見せて」

「ひっ、いえ!大丈夫です!全然問題なんかないです!」

「ふふ、優しいね。ありがとう。……それで、用件があるから来たんだよね?」


 ノエが問いかけると、ベアトリクスはこくこくと何度も頭を下げる。


「そう、そうなんです。依頼、です!」


 そういう彼女に、ノエは首を傾げる。


「……依頼って、君が。その、自分に?」


 ノエの複雑な身の上事情から、仕事の依頼は基本的に情報員であるアリステラが運ぶことになっている。アリステラ以外の情報員がノエとの接触を図ること自体が、ノエにとっては珍しい事態だった。

 ベアトリクスは少しだけ視線を彷徨わせ、それからノエと視線を合わせる。


「その、うぇ、ウェルズリー様は、た、たひ、退局、されました。ににに、二週間ほど前に」

「は?」


 ノエは思わず頓狂な声を出し、パンに伸ばしていた手を止めた。


「……ノエ、そのようなお話はアリステラ様から伺ってなかったのですか?」

「聞いてないよ。……けどまぁ、元々情報員として勤めてる方がおかしかったから。もう居る必要がないと思って辞めたんだと思う」


 アリステラは、十席会合グランド・ローグに連ねる名家の令嬢だ。そもそも情報員の職に就いていたことがおかしなことであった。

 ノエにそのことを伝えなかったのは、恐らく故意であろう。

 おどおどしているベアトリクスに視線を向け、ノエは小さく口元を綻ばせる。


「ごめんね。自分のところに依頼を運ぶの、嫌だったろう。次からは、自分で必要な時に」

「いやっ!……嫌じゃ、なかった、です」


 ベアトリクスの言葉にノエはきょとんと目を丸くし、それからくすくすと口元に手を当てて声を出して笑う。

 ノエの様子に、ベアトリクスはかっと頬を真っ赤に染める。


「面白い子だね、君。自分のこと、知らないわけじゃないだろうにさ。まぁ、えと、それで仕事の内容を教えてくれるかな?」

「は、はひっ」


 ベアトリクスはすぐに持ってきていた鞄から、いくつかの資料を取り出して、邪魔にならない場所にそれらを置いた。

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