4.ホワイトチャペル地区へ

 深夜十二時前。ノエとベディはホワイトチャペルへ向かうため、準備をし始めた。

 ノエは、魔力回復用の魔法薬や銀符ぎんふ、簡単な救急道具をウエスト・バッグに詰める。一方のベディは、銀製の剣を腰に差した。


「ベディ、機関義手マシーン・アームの具合は?」

「問題ありません」


 ベディはそう言って、自身の右腕を撫でる。黒い皮手袋の下には、歯車と蒸気機関、そして魔銀ミスリルで造られた白銀に輝く義手がある。

 人形ドールという作り物であるにも関わらず、ベディの片一方の腕は特殊な義手が嵌められていた。


「分かった。不具合があったらすぐに言って」

「はい」


 そして二人はそれぞれの外套を身に纏い、部屋から出る。

 出てすぐに、ノエは外套のフードを深くかぶった。それから昇降機リフトを使い、二人はロビーへと降りる。

 ロビーは昼間とは違い、魔術師や使い魔達だけが歩いている。任務へ赴く者やウェストミンスター地区の巡回警備に行く者など、彼らの目的は人それぞれだ。

 ノエは、フードの先を引っ張り、更に顔を隠すようにして、玄関の方へと歩いて行く。


「ノエ?」

「……あまり、人にバレるのは嫌だから」


 ノエはベディに聞こえるほどの声でそう言い、二人は時計塔取締局から出た。


 出てまず、ノエは街を走っている乗合馬車オムニバスを止め、ホワイトチャペル地区へ行ってくれるように求めた。だが、御者は難色を示す。

 ロンドンの魔窟、あるいは貧困と犯罪の巣窟と呼ばれるホワイトチャペル地区は、夜が更けるとその牙を更に鋭くし、無知な人間をいとも容易く喰い殺すような場所へと変貌する。

 男だろうが女だろうが、関係ない。

 重機関兵装ヘヴィー・アーマーを着用している警官であっても、この地区に踏み入れば容易に身ぐるみを剥かれ、臓器売買や人身売買に掛けられると噂される超危険地帯。

 ただでさえ、夜は異形の動きが活発になる。御者がこの時間まで馬車を走らせているのは、深夜料金だと金を吊り上げて荒稼ぎする為だ。決して自ら死地に赴くことではない。

 御者が首を縦に振らないのを見て、ノエは彼の提示している金額の倍を支払うと告げる。すると、御者の目の色はがらりと変わり、馬車のドアを開けて二人を中へ誘った。


「大丈夫なんでしょうか」

「問題ないよ。もしこの馬車が襲われたら、自分達で助けるだけだ」


 蒸気馬スチーム・ホースが白い蒸気を勢いよく吐き出し、地面を駆ける。左右に振る大きな揺れに、ベディはびくっと肩を震わせる。

 愛馬に乗って草原を駆けていた時とは違う揺れだった。ベディの反応にノエは目を丸くして、それから、くすりと顎に手を当てて笑う。


「慣れなよ。ここの移動手段はほぼ馬車だけだからね」

「わ、分かってます。その……、文明の発展を感じるというか。私の生きていた時代には無かったものですから」

「あぁ、成程ね。……今の君も乗れるのかな?」

「さぁ、やってみないと何とも。この身体にどれだけ過去の記録が染みついているのかは不明ですし」


 ベディはそう呟いて、己の胸の中心に手を当てた。鼓動とは異なる霊核コアの稼働音が、手の平を伝わって行く。

 馬を使って戦場を駆けていた頃とは、全く違う音だった。


「……とにかく、早く心臓泥棒ハート・スナッチャーを見つけよう」

「はい」


 ノエの言葉に、ベディはこくりと頷いた。


 蒸気馬スチーム・ホースの登場以後、馬車の移動速度は劇的に上がった。

 この馬を使った馬車であれば、魔術協会の施設があるランべス地区からホワイトチャペル地区の距離であれば、二十数分程で着く距離になった。

 ホワイトチャペル地区付近で御者に下ろされ、そこから二人は徒歩で向かう。

 特に会話を交わすことなく、ちょうどホワイトチャペル地区の境目辺りへと辿り着いた。

 この地区は、政府の推し進める帝都新都市開発の手が入っていない為、他の地区の建物より背が低く、境目が分かりやすくなっている。


 ロンドンにおいて、異形の姿が確認され出した数百年ほど前から、慣習的に夜間の外出は自粛されている。

 夜は静かで、外に明かりはなく、夜道を歩く人がいないのが普通だ。

 しかし、ここの地区に住む住人は『異形など怖くない。襲われても構わない』と言わんばかりに、人々は刹那の欲望に満ちた夜の街を闊歩する。

 開かれた酒場パブを渡り歩き、泥酔したまま路上に寝転がる男。見目麗しい売春婦は外に立って、性欲盛んな年頃の男を淫らに誘惑し誘う。賭け事に興じる人の、歓声と絶望の声があちこちで響く。暗く細い路地裏では、掏摸スリや麻薬の売人、人身売買人などが目を光らせてカモを狙う。

 その傍らにはアヘン窟がいくつも建っており、アヘン独特の匂いが、そこから周辺へと薄らと噴き出している。

 まさに、犯罪のマーケットである。


「ここを、通るんですか?」


 ベディは、遠目からでも分かる他とは違う空気感に圧倒されつつ、ノエへ問いかける。彼女は首を振って、人気ひとけのない路地道へと歩いて行く。

 二人の入った路地裏の壁には、まるで人間の毛細血管のように縦横無尽に張り巡らされた、大小様々な蒸気用配管パイプがある。

 ここだけでは無い。ロンドンにある建物の壁には、全て蒸気用配管パイプが設置されている。これらは全て、地下の超大型演算機械デウス・エクス・マキナから送られてくるエネルギーを通す為のものだ。

 ノエはこんこんと鉄のパイプを叩いてから、ベディと視線を合わせた。


「屋根伝いに、地区全体の巡回をする。ベディ、これ登れそう?」

「問題ありません」


 ノエの問いかけに、ベディはすぐに頷く。

 そして彼女の軽い身体を抱き上げ、トンッと地面を蹴って跳躍する。

 人形ドールの身体は、常人よりも遥かに身体能力が高い。

 ベディは次々とパイプを蹴って上を目指し、ものの数分で屋根瓦の上に着地した。

 そっとノエを屋根の上に下ろす。

 屋根の上は、各家々から噴き出される蒸気が大気へと分散するためか、路地よりも幾分か蒸気霧は薄らいでいる。


「ありがとう」

「いえ、これくらいは出来て当然です。足元、気を付けてください」

「君もね。よし、それじゃあ行こう」


 ノエは腰の吊りランプの明かりを点け、かつかつとブーツ音を鳴らしながら、屋根の上を器用に歩いて行く。ベディもその後ろへ続いた。

 彼女の言う通り、ガス灯で明るい場所はポツポツと点在しているだけで、ほとんどは蒸気と闇に同化していた。

 巡回は滞りなく進んで行く。


「ベディ」

「はい」


 一体何棟の屋根を渡り歩いたか。数えるのを止め、さっぱり分からなくなっていた時だった。

 ノエがいっとう低い声でベディを呼び、動かし続けていた足を止めた。ベディも、ピタリと制止する。


 彼女も気付いた。彼も気付いている。


 暗い暗い闇の中。白い蒸気と霧が立ち上る中。

 何者かが一人、立っていた。

 ノエの持つ明かりでは、その人影がある場所までは照らせない。

 この時間帯に、屋根へ上がる人間など居るだろうか。


「……こんばんは。自分は、時計塔取締局所属、ノエ・ブランジェットという。君は、魔術師か何か?」


 ノエはそう名乗りながら、人影の方へゆっくりと近付いて行く。

 その人物は下に向けていた顔を上げ、身体を二人の方へ向けた。そして、弾丸の如く屋根の上を駆けて、あらかじめ手にしていた剣を、勢いよく振るった。

 ベディはすぐにノエと人影の間に割って入り、腰の鞘から剣を抜くと、その刃を受け止めた。


「ッ!」


 ベディがグッと足を踏み込んで押し込めば、相手側の姿がよく見えるようになる。

 無表情の男だった。

 平凡な顔立ちをした、二十代ほどの男。赤茶けたボサボサの髪が、風によって更に掻き混ぜられている。

このロンドンに居ながら外套を羽織っていない所は気になったものの、それ以外にめぼしい特徴は掴めない。

 ただ、光のない昏い瞳が、ベディの目をじいっと覗き込んでいた。

 眉を寄せたベディは、男の腹部を狙って鋭く蹴り、一旦間合いを取った。


「ベディ、それの相手を任せていい?あれの目が向いていた先が気になる」

「分かりました。ですが、もし危険であれば戻ってきて下さい」

「うん。……君も、気を付けて」


 二人は簡素な会話を交わし、ノエは屋根に上がった時とは逆に、壁のパイプを次から次へ飛び移って下へと降りていった。

 それを見送りながら、ベディはムクリと起き上がって構えを取った男の方へ向ける。

 先程のは、ただの人間の蹴りではない。人形ドールの蹴りだ。

 人間であれば骨の一本を折るほどの重い蹴りであるはずなのだが、男の表情は変わらなかった。

 まるで、痛みなど感じていないようだった。

 その様子に、ベディは違和感を抱えつつ相手を見る。


 無だ。


 ベディは、ふうと短く息を吐き出して、剣の切っ先を彼の方へ真っ直ぐに向けた。


「……貴方が、心臓泥棒ハート・スナッチャーですか?」


 男は問いかけに答えない。再び走り出す。

 言葉による説得は不能とベディは判断し、意識モードを変える。


「…すみません。貴方に恨みは無いのですが、……斬らせていただきます」


 そして、再び二つの刃は激しい火花を散らしてぶつかり合った。

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