2.ノエ・ブランジェット
ノエは枕を抱いたまま、ぼんやりとしている。どうやらまだ寝惚けているらしい、とベディは感じ取った。
彼女は、寝起きが少々──どちらかと言えばかなり──悪いのだ。
「へぇ、寝惚けててこれだけの精度かぁ、流石だね!」
女はゆっくりと壁の方へ歩いて行き、壁に突き刺さった
女の投げた銀符。ノエの放った黒い糸。一体どちらの威力が凄かったのか。その痕は、小指の爪先がはまってしまうほど凹んでいる。
女は更に目を近づけてから、ノエへ陽気な声を掛ける。
「うん、向こう側までは貫通してないね!いやー、向こうの部屋の人の迷惑にならなくてよかったー。流石、ノエだねぇ」
「……自分の実力じゃない。君が中途半端にしか魔力を流さなかったからだろ。完全に流してたら、貫通だ」
「あはは、バレてたか。でも、ここは元々私が使ってた部屋なんだしさ。思い出を簡単に壊せない質なんだよね、私」
「……よく言うよ」
ぐしぐしと目を擦りながら、ノエはアイスブルーの瞳で女の背中を睨む。
その視線を浴びている彼女は、からからと楽し気に笑いながら、壁から抜いた銀符をしまい込んだ。
ノエは大きく溜息を吐き出して、二人の言い合いを呆然と見ていたベディへ目を向ける。
そして、ふわりと微笑む。
それは、ベディが抱いていた目の前の女に対する警戒心を、いとも容易く溶かしてしまう。
「おはよう、ベディ」
「………おはようございます、ノエ。良い夢は見られましたか?」
「どうだろう。あまり覚えてないなぁ」
ベディへ楽し気に笑いかけるノエに、ついベディも
そんな二人の様子を、女はしばらく観察するように眺めてから口を開いた。
「ねーぇ、ノエ。私を除け者にしないでさぁ、そこの
「姉?」
「義理の、が付くけど」
きっぱりと彼女は訂正すると、女は揶揄うようにひゅうっと口笛を吹いて、ソファに勢いよく腰を下ろした。
ノエはがしがしと
「ベディ、この人はこの局の情報課に属してる魔術師で、
ノエの淡々とした説明に、ベディは目を白黒させてアリステラを見る。
魔術協会には、協会の統括権利を持つことを定められた十の家がある。彼らは、
それらの家には「席」という、他の家とは一線を引く地位が与えられており、目の前の彼女はまさしく、その「席」を持つ家柄の令嬢なのだ。
更に言えば、仕えている主の義姉に当たる人物。
さぁ、と頭から血が引いていくのを感じ、ベディはすぐに頭を下げた。
「さ、先程は、た、大変失礼なことを……!申し訳ありません」
「仕方ないよ。だって君は知らなかったんだからさ。気にすることないさ。それに当主様って言ったって、まだ継いで一年目の新人さんだからね、私」
「こういう人だから、いちいち頭を下げなくて良いよ、気にしなくていいから」
ノエは抱いていた枕をソファに置き、簡易キッチンの方へ歩いて行く。
「あ、ご用意されるのでしたら私が」
「いいよ、自分でやる。ベディ、君はその外套を脱いで、お皿とフォークを用意して、紙袋の中身を盛りつけてね」
「え、あ、中身を、お分かりなのですか?」
「大好きな食べ物の匂いなら、見なくたって分かるよ。自分の為に買ってきてくれたんだろう?ありがとう」
にこっとノエはベディへ笑いかけ、彼女はティーカップやティーポットを用意し始める。
ベディはノエに言われた通り、外套を脱いでコート掛けに掛け、小さな食器棚からちょうど良いサイズ感の白い皿を取り出し、紙袋から一切れのアップルパイを取り出す。それを綺麗に盛り付け、テーブルの上に置いた。
「なんだ、ノエはアップルパイが好きなのかい?言ってくれれば、優しいお姉ちゃんはいくらでも買ってきてあげるのにー」
「要らない。自分は、アリスにそこまで頼るつもりはないから。あと、義理を付けてって言ってるでしょ」
ノエはきっぱりとした口調で、アリステラの申し出を断った。
アリステラは、その態度を楽し気に笑って受け入れている。
彼女の方が、ノエよりも家格や年齢も上だ。だが、アリステラもノエも、それらを気にした様子もなかった。
どういう関係性なのか、ベディはとても気になった。
アップルパイを用意し終えると、ベディの仕事はなくなってしまった。簡易キッチンは二人で立つとぎゅうぎゅうであるので、彼は渋々ソファに座った。
「……本当、人間みたいに動くんだねぇ、君」
アリステラはしみじみとした声でそう言い、ベディへ笑いかける。
「おかしいでしょうか」
「現代だとおかしいね。今、人形師達が操る
ふむふむと一人納得している彼女に、ベディはただただ苦手意識しか持てない。彼にとって、目の前の彼女はあまりにも掴み所がなかった。
くすくすと楽しげに笑いながらも、その腹の奥底では虎視眈々と何かを狙っている。そんな雰囲気を感じる。
「アリス、あまりベディを困らせないで」
ベディが困っているのを感じ取ったノエが、アリステラに忠告しながらトレイを運んで来た。
「分かってるよ。お、私の分も用意してくれたんだなぁ。ノエは優しいねぇ、……好きだよ?」
「止めて」
ノエはラブ・コールを送るアリステラを間髪入れずに突っぱね、カチャカチャとティーカップを置いて行く。それは、ベディの前にも置かれた。
「え、ノエ」
「君にも飲んで欲しいと思ったから。あ、シロップとミルクは用意しているから」
ノエはそう言って、とろりとしたシロップと白色のミルクの小瓶をテーブルの上に置いた。
「ま、前にも言いましたが、じゅ、従者と主が食を共にするなど……」
「自分も前に言ったけど、自分が気にしないから、構わないと思うけど?」
「いいじゃない!
ノエとアリステラの二人が説き伏せるので、ベディは礼を言っておずおずとティーカップを受け取り、シロップとミルクを少量加える。ふわりと甘い香りが鼻を撫でた。
ノエは特製のミルクティーを一口飲み、ベディの買って来たアップルパイをフォークで一口サイズに切って食す。
その表情が年相応にパッと輝くのを見て、ベディは胸の内が温かくなるのを感じながら、自身もまたノエの用意したミルクティーを飲んだ。
ノエは再び紅茶を飲み、目の前でのんびりくつろぎ始めているアリステラへ訊ねる。
「で、魔術道具も持たず従者も付けずに、自分の部屋に何の用?」
「まるで用事がないと来ちゃ駄目みたいに言うじゃん」
ブーブーと唇を尖らせるアリステラに、ノエは冷たい態度だった。
「自分を気に掛ける暇があるなら、ウェルズリーの魔術研究に勤しむでしょ、お
「うーん、まぁ、それは否定しないかな」
皮肉めいたノエの言葉に、アリステラは小さく笑いながら頷く。
「私は、情報員としての仕事をしに来ただけだよ。すなわち、ノエ・ブランジェット。君へ任務を言い渡しに来ただけ」
アリステラはそう言って、自身の豊満な胸の谷間に手をやり、そこからくるくると丸められた書状のようなものを取り出す。
ノエは眉を寄せて、アリステラを睨んだ。
「……嫌味?嫌がらせ?」
アリステラは書状を開きながら、ノエに目を向ける。正しくは、アリステラに比べると明らかに断崖絶壁としか言えない、彼女の胸元に。
ふふん、とアリステラは鼻を鳴らした。
「さぁ?ノエの好きに受け取ってよ」
「………任務内容は」
これ以上突っ込むと面倒になる、とノエは予見し、アリステラに任務内容を告げるよう促した。
アリステラは癖付いた紙を反対方向に丸め直して、ある程度真っ直ぐになった書状を、ぽんとテーブルに置いた。
そして、一番濃い字体で書かれている題名部分の文字をなぞった。
「最近巷で騒がれてる、ホワイトチャペル地区の
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