愛の式場
柄針
第一部 “愛の式場“は開かれる
第1回 たった一つの愛のために(前編)
世界は、愛に溢れている。だからこそ、愛に恵まれぬ者は、貪欲に愛を求める――。
ピピピピピと電子アラームが寝室に鳴り響く。僕はそのアラームを合図に目を覚まし、ベッドから起き上がる。カーテンからは朝日が射し込み、暗い部屋の中を薄っすらと照らす。僕はカーテンを開けて部屋を明るくすると、隣で寝ていた”彼女”を起こす。
「ほら真央、もう朝だよ。今日は社内の顔合わせの日だろう? 初勤務から遅刻は良くないんじゃないか?」
僕の言葉を聞いた真央は、ゆっくりと目を開け、虚ろな瞳で僕を見つめる。太陽の光で照らされる寝ぼけた真央は、非常に可愛らしかった。思わず見惚れていると、真央はだんだん意識がはっきりしてきたらしく、青ざめていった。
「っえ”正樹”、今って何時?」
「今は七時半だよ、寝坊助さん」
「七時半~⁉ もうほぼ遅刻じゃない! 急がないと!」
真央はそう言うと、慌ててベッドから飛び出し、スーツに着替えてリビングから玄関の外へと駆け抜けていった。と思うと、再び玄関から真央は戻って来た。
「真央、また何か忘れ物でも……っ!」
一瞬の事だった。真央は僕に抱きつき、軽くキスをしてきた。一瞬の事で状況を処理できていない僕を見て、真央は意地悪そうに笑った。そして小さな声で呟く。
「『おはよう』のキスと『行ってきます』のキス……ね?」
真央はそのまま駆け足で玄関の方まで行き、扉を開ける直前にこちらに振り返る。「行ってきます!」と笑顔で手を振って。そして扉を開けると、今度こそ真央は会社へと向かって行った。
「……まったく」
僕は小さく微笑み、寝間着から私服へと着替え始めた。
僕は、仕事で家から出る必要はない。僕の仕事はパソコンを開き、仕事の同僚達と資料を共有して進めていくことで終了する。いわば、在宅勤務だ。決して、自宅警備員などではないよ。そんな事をすれば、真央に迷惑が掛かるからね。これから一生を共にする人なんだ。迷惑など掛けられない。
僕と真央の出会いは、進学先の大学だ。僕は大学の為に上京し、今あるバイトの貯金で少しは遣り繰りできるようなマンションを借りた。そして、そのマンションから日々、大学へ通っていたんだ。
ちなみに上京した理由は、早く両親の元から離れたかったからだ。何故なら、僕は両親にずっと、居ない者扱いされていたからだ。僕の両親は昔に離婚していて、僕は父親に引き取られたんだ。その時から、「離婚の原因はお前だ」と父親に言われ続けた。でも、実際の原因は父親の金遣いの荒さ。だから、本当は僕のせいじゃ無かった。けれど、幼い頃の僕はその言葉を真に受け取り、自身を責め続けた。
そしていつしか、僕は離婚の本当の原因を知った。それは、意外な形でだった。実は、父親は離婚後も多額の借金を抱えていた。そして、それを引き金に僕は父親の目を盗んで、色々と探った。そうして見つけたのは、離婚前から来ている借金の返済通知だった。僕はそんな父親の金遣いの荒さを見て、離婚の原因を悟ったのだった。
けれど、今思えば、僕は本当に両親から嫌われていたのかもしれない。だって、何故母親は僕を引き取らなかったのだろう。引き取ってくれていれば、少なくともこんな恵まれぬ寂しい生活はしなかったはずだ。もしかしたら、僕には本当は兄弟がいて、母親はそっちを引き取ったのかもしれない。いや、推測は止そう。だが、いずれにせよ、僕は両親から微塵も愛されていなかったのかもしれない。
だから、僕は上京を決意した。
上京して、お金を稼いで、父親みたいな暮らしはしない、と。愛が溢れるこの世界で、絶対に愛を見つけるんだって。そんな夢を抱いて。
話を戻そう。僕は進学先の大学で、真央と出会った。初めて会ったのは、ある日の講義中。真央はその日の講義に遅刻し、偶然「ごめんね」と僕の隣に座った。そしてこの日、さらに偶然にも、真央は教科書を忘れてきていたのだった。お察しの通り、僕は真央に教科書を見せ、共に授業を受けた。
これが、奇跡的な初めての出会い。何故奇跡なのかというと、真央はクラスでは人気者で、到底僕の様な人が近寄れる様な人では無かったからだ。だけど、別に僕はボッチだった訳じゃないぞ。それなりに友達は居たし、楽しく学校生活は送っていた。けれど、真央とは遠い存在だとこの時は思っていたんだ。
そう、この時は。
講義が終わると、真央は拝む様に僕に向かって土下座をした。
「ありがとう! ほんっとうにありがとう!」
「っえ⁉ あ、頭を上げてよ真央さん!」
「え? 真央さんじゃなくて、真央でいいよ?」
そう、初めから真央は別に僕とは遠い存在なんかじゃなかったんだ。実は、性格も似た者同士だったんだ。それは、この日以降ゆっくりと話をしていくことで分かった。そして、一緒に居る事が徐々に楽しくなり、僕らは自然と惹かれあっていった。それだけじゃない。真央は僕を受け止めてくれたんだ。
真央は、僕の暗い過去を受け止めてくれたんだ。僕が、言葉と態度だけで押し殺してきた過去を。
「それは君のせいじゃない。君は、本当は愛されるべき存在なんだよ。誰にも愛してもらえないんなら、私が愛してあげる。信じられないなら、私の目を見てごらん?」
僕は、その時救われたんだ。全てを乗り越えた様に装っていた僕の固い殻を、彼女がこの時、初めて溶かしてくれたんだ。そうして、僕は生まれて初めて、愛を感じた。温かく、いつまでも浸っていたい、この感覚を。
それから、僕らは付き合い始めた。僕は、このたった一つの愛を守るために、何でもしようと、この時誓った。その証拠に、僕は大学を卒業する時に、真央にプロポーズをした。「結婚しよう。いつまでも、死ぬ時まで、一緒にいよう」って。
だから、僕は真央に迷惑を掛ける訳にはいかないんだ。まだ、婚約中っていうのもあるけど、一番の理由は、これからずっと一緒に暮らすパートナーだからだ。
「懐かしいな。思えば、今まであっという間だったな」
僕は過去を噛み締めながら、パソコンを開いた。そこには仕事の同僚から配られた資料と、メッセージがあった。
『よう正樹。元気にしてるか?』
「元気ですよ。今日も真央が寝坊しそうになってて、大変だったんですよ」
……既読が付いた。だが、返信は数十分してから届いた。
『そうか……なぁ、正樹。もう止めにしないか?』
意味が分からない。一体どうしたというのだろう。
「すみません、何をですか?」
『……真央の事だよ』
「真央が、何ですか?」
…………既読が付いた。さらに数十分して、返信が来た。
――真央は、もうお前の所にいないだろ?
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