第七章 第六幕
「ずっとここにいたのか?」
喫煙所でモニターを眺めていたアレツの背中に、ジラザは口髭を撫でながらそんな言葉を投げかけた。その口には太い葉巻を咥えている。
「まったくよぉ、一服しようと思わなかったら、見つけられなかったぜ」
ジラザは口元に咥えた葉巻に火をつけながら、傍らのベンチに腰掛け、薄い笑みを浮かべてアレツに語りかけた。だが、当のアレツはジラザの方を振り向かずに、モニターを眺めたまま呟く。
「今日はルティカちゃん、随分調子がいいみたいですね?」
「ああ、あいつがプロになってもうすぐ一年だが、今日程負けられねぇレースも無ぇからな……」
深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出し、ジラザもモニターに目を移す。
「何せ、ガイゼルの為だもんな……。ったく、もっと早く切羽詰まれってんだよ……」
愚痴るように呟くジラザではあったが、その口ぶりはどこか微笑ましい事を語るような、優しいものだった。
そこでアレツはモニターから視線を外し、振り向いてジラザの目を見て尋ねた。
「私が今日来ていると、どうして分かったんですか?」
「へっ、まぁなんとなくだよ。今日のレースは、お前なら必ず見に来てるだろうって、そんな気がしてただけだ。なのに、どんだけ探し歩いても見つかりゃしねぇ。まさかタバコなんざ吸わねぇお前が、客席じゃなく、こんな所でレースを見てたとはなぁ」
「そうですね、一応チケットはスタッフさんから頂いていたのですが、どうも観客席に行く気になれなくて……」
モニターの中では、ルティカとバラクアが12番リングの手前でまた一つ順位を上げていた。
現在、五位。
「まぁ分かるぜ。フレイク杯は、お前らにとって、思い出深いレースだもんな。今でもよく覚えてるぜ。ラスト一周での、お前とガイゼルの一騎打ち、いい勝負だった」
昔を回顧するかのように、ジラザは目を瞑る。
「ガイゼルの野郎が勝って、あいつはB級に上がった。そんで、お前はうちの厩舎を辞めて、ナーゼルに鞍替えした。暫くしてから、ガイゼルはテレアに求婚をして、うちの厩舎は安泰したって訳だ……」
深く煙を吸い込み、短くなった葉巻を灰皿に押しつけて、ジラザは愉快そうに笑った。
「ずっとライバルでやってたおめぇらの事だ。どうせ、このレースで何か賭けてたんじゃねぇのか?」
ジラザの言葉に、アレツは肯定も否定もせず、再びモニターに視線を戻した。
一位のベートが20番リングを潜り抜け、三周目に突入した。
ルティカ達は未だ五位のまま、16番リングを潜り抜けていく所だ。
「ルティカちゃん、どんどんテレアさんに似ていきますね」
「ああ……、中身は俺が育ててる所為か、とてもお淑やかとは言えなくなっちまったけどな。見た目はもう、あいつにそっくりだよ」
懐からもう一本葉巻を取り出すと、ジラザはそれを手に持ったまま、火を点けずに続ける。
「不思議だよな。ルティカがこうやって鴻鵠士になってんのも、こんな風にレースに出てるのも、不思議でしょうがねぇよ……」
「ジラザさん……」
二人の間に、暫し沈黙が流れる。
それを嫌うように、ジラザは手に持っていた葉巻を口に咥えて、火をつけた。紫煙を燻らせながら、アレツに向けて、おめぇも吸うか、と問いかける。
「いえ、遠慮しておきます」
「そうか……」
「ところで、ジラザさん。本当に、引退を考えてらっしゃるんですか?」
「またその話か……」
「何度でも言わせてもらいますよ。貴方は優秀な調教士だ。その腕を必要としている鴻鵠や鴻鵠士が、まだまだ沢山います。それなのに……」
「いいんだよ……。俺はもう、そう言うのは面倒なんだよ。ルティカが鴻鵠士やりてぇって言うから、老いぼれなりに最後の仕事だと思ってやってんだよ」
「じゃあ、どうして弟子なんて取ってるんですか? 貴方なら、自分で弟子を取らなくたって、他に紹介出来る調教士なんてそれこそ星の数ほどいるでしょう? 未練があるからなんじゃないですか?」
「華瑠の事か? さぁてなぁ、まぁあれも気まぐれだよ。俺が居なくなっても、ルティカの尻を拭ってやれる後進が居た方が、気が楽だと思っただけだ……」
「ジラザさん!」
思わず口調の熱くなるアレツに、ジラザは普段は見せないような穏やかな微笑みを浮かべた。
その表情に、思わずアレツは言葉を詰まらせる。
「悪ぃな。おめぇには心配ばっかりかけさせちまってよ……」
「いえ、そんな事は……」
「おめぇの世界チャンピオン二連覇もちゃんと祝ってねぇしな。近い内にまた来いや。ルティカも喜ぶだろうよ」
「……はい、そうですね。お邪魔させて頂きます」
その言葉を満足そうに聞き、ジラザは吸いかけの葉巻を灰皿で揉み消すと、ゆっくり腰をあげた。
「さてと、そんじゃあ、お前の顔も見れたし、俺も上で観戦するかな。アレツ、おめぇも来ねぇか?」
「いえ、私は、遠慮させてもらいます」
「そうか、まぁ、そうだな……」
ジラザは再びアレツの顔を見据え、そしてニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「何ですか?」
「老けたな、おめぇも」
「当たり前ですよ、って言うか、それはお互い様じゃないですか」
アレツは、そう言って笑みを返す。
「それもそうだな。まぁ、今日のルティカの勝利を祈っててくれや。んじゃあ、またな」
ジラザはアレツに背中を向け、観客席へと続く階段を上って行った。
アレツは暫しジラザの背中を目で追いかけていたが、その目線を再びモニターに移した。
レースはルティカとバラクアが、すぐ前にいた5番選手と小競り合いをしながら、同時に20番リングを潜り抜けたところだった。
アレツの目がその向こうの、遠く上空に映る雲の動きを捉える。
そうして現シャン=ナーゼル世界チャンピオンは、自分の考えを口に出さぬまま、無人のモニタースペースを後にした。
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