僕の、頭の中の女の子をめぐる冒険。

七瀬夏扉@ななせなつひ

第1話 僕は、よくお手伝いでシンクの掃除をするんだ。

「私が、あなたの特別な女の子になってあげる。

 私のかわいい――マウス」


 僕の頭の中には、知らない女の子がいる。

 その女の子は、いつも僕に話しかけて――いつも僕を呼んでいる。


 まるで、僕をどこかに連れて行こうとするみたいに。


 僕を、特別な冒険に誘うみたいに。

 僕はいずれ冒険に出なければ行けない。

 そんな予感を感じていた。


 僕の頭の中にいる、知らない女の子に会いに行くために。

 名前も知らない。

 顔もわからない。

 もちろん今どこにいて、何をしているのかさえ不明な――


 そんな女の子に会いに行くために。


 1


「まーくん、嫌なことがあったら、すぐにお母さんに知らせなきゃダメよ? 今の時代、嫌なことなんてすぐに忘れてしまったほうが良いんだから。つまらない過去に囚われていては、立派な大人になんてなれないのよ?」

 

 これが、お母さんの――母の口癖。

 母はことあるたびに、そう厳しく言いつけた。

 

 でも、僕は母のその言葉にどうしてか納得ができなかった。

 なんとなく、それは違うんじゃないかって思っていた。


 嫌なことを忘れてしまうよりも、それをかてにして前に進んでいったほうが健全で有意義な気がしていたし――過去に囚われるんじゃなくて、過去を乗り越えたほうが、より立派な大人になれる気がしたんだ。

 

 それに、中学生になっても何でもかんでも母に相談するなんて、少し情けないというか、マザコンっぽくてかっこ悪い気がした。僕の母は過保護というか、少し息子離れできていない気がしていて――僕は、そんな母から距離を置きたい年頃でもあった。

 

 だから、僕は母に何でも知らせたり、相談をしたりするのは止めようって考えた。


 それに母に相談すると、僕の記憶はいつも『消去』されてしまう。

 僕は、それが少しだけ嫌だった。

 

 物心ついた頃――おそらく小学生の頃から、僕の記憶は虫に食われたような穴がたくさんあった。別に、それで生活に支障があるわけじゃないんだけど、なんとなく気味が悪かったし、失った記憶の分だけ損をしているような気持になるから、できれば記憶の消去をしてほしくなかった。

 

 だけど記憶を消去されると、記憶を消される前の感情だったり気持ちだったりもきれいさっぱり消えてしまうから、そのことに対して怒りを覚えたり、悲しい気持ちになったりは不思議としない。どちらかといえばさっぱりするし、心地よい気分にさえなる。

 

 なんていうか、お風呂から上がった後みたいな、あんな感じ。あるいは、シンクの汚れを掃除した後みたいな感じ。僕は、よくお手伝いでシンクの掃除をするんだ。


「記憶を消去するってどんな感じなんだ? 俺はまだ一度もやったことないんだよな」


 転校した新しい中学校のクラスメイトが、自己紹介の後そんなふうに訊いてきた。転校して一週間くらいはお決まりの質問攻めが続くけれど、僕は転校することには慣れていたので、そんなに気にもならなかった。

 

 転校は三回目だ。たぶん。


「うーん? 普通だよ。基本的には、ただ忘れるだけ」

 

 僕はなるべく愛想よくふるまって、丁寧に説明をした。


「なんて言うか、忘れていることすら忘れてるって感じかな? 記憶を消したことなんて気にもしない感じ? 僕の家はお母さんが過保護ですぐに記憶を消しちゃうから――ああ、記憶を消したんだなって分かるけど」

「じゃー、つらいこととか何も覚えてないんだ? いーなー。俺なんて、嫌ことたくさん覚えてるぜ。昨日も兄貴と喧嘩してぶん殴られたし、お父さんが勉強しろってガミガミ言ってくる。記憶を消したいぜ」

「うーん、良いのかなあ? それに、それくらいの記憶なら消す必要ないと思うよ」

 

 僕は、少しだけ困りながらそんなふうに言った。


「じゃー、お前にはどんな嫌なことが起きたっていうんだよ? 兄貴に殴られるとすごく痛いんだぜ? なんてったって、歳が三つも離れているんだからな。それに、お父さんは怒るとすごく怖いんだ。世界で一番怖いって言っても過言じゃないぜ」

「そんなこと言われても、僕もどんな記憶を消去したのかは知らないし。それを知ったら消す意味ないじゃないか?」

「そりゃそうだ」

 

 僕の反論に言葉が詰まった同級生は、しぶしぶと僕の机を去っていった。


「『記憶消去』の内容を聞くなんて失礼だし、デリカシーのかけらもないし――ナンセンスだわ」

 

 すると、僕の隣から不機嫌な声が届いた。

 隣の席の佐伯さんだった。


「別に悪気があったわけじゃないだろうし、気にしてないからいいよ」

 

 僕がなだめるように言うと、佐伯さんは「ふん」と鼻をならして眉間にしわを寄せた。肩先で整えた黒い傘みたいな髪の毛が怒りを表すようにふるふると揺れている。

 彼女は、切れ長の目をさらに細めて僕を見る。まるで睨みつけるみたいに。


「いいえ。これは、デリカシーとかナンセンスだけの問題じゃないの。『記憶消去』は国際的に認められた医療技術だし、今の社会では欠かすことのできない精神的ケアなのよ? それには周りの理解が必要だし、記憶消去者へのサポートが重要なのよ。記憶消去者が術後に不安なく日々を送れるようにするためには、なるべく『記憶消去』について触れないようにするのが一番なんだから」

 

 佐伯さんは一息にそう言い切ってしまうと、むきになってしまったことを恥ずかしがるように頬を赤らめた。

 僕は、少しだけ嬉しい気持ちなった。


「佐伯さん、ありがとう」

「別に、あなたのためだけに言ったんじゃないから。これは、全ての記憶消去者にとって大切なことなんだから」

「でも、ありがとう」

 

 僕は、佐伯さんにお礼を言った。

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