第六章 マリオネットの糸
薄紫色に染まった天蓋へ火の粉が舞い上がる。
エルシーの身体を包む金色の炎が火柱となって立ちのぼる。
白い花が紙屑のように焼えても、金色の花は炎へ共鳴するように光を放つ。次々に湧出する光がその強さを増し、辺りは強烈な光に呑まれる。
目がくらみ、視界が霞む。アルドリドは反射的に額へ手をかざした。
「見よ。光が生まれる」
雨粒が落ちるのにも似た声が響き、アルドリドは目を凝らす。
強烈な光の中に、ぼんやりと白く、翼を持つ人影が浮かび上がる。
「エルシー!」
人影へ向かってアルドリドは腕を伸ばした。華奢な肩に触れた右手へ灼熱の炎が移り、アルドリドは激痛に顔を歪ませた。
「悲しまないで、アルドリド。あたし……はじめて天使として役に立てるんだもの」
これほど長くともに過ごしても、エルシーがおのれを卑下する思いを、アルドリドは消し去ることはできなかった。
せめて今、この瞬間だけでも、エルシーの心を穿つ穴を埋めてやりたい。長いあいだ積もり続けた願いが吹き上がり、心臓が破裂しそうに痛む。エルシーの肩を掴む手にはすでに感覚がない。
それでもアルドリドは手を離すことはせず、喉を振り絞った。
「エルシー! たとえ天使の力がなくたって、ぼくはきみを――」
そのとき、風に吹かれて火が散じるように、ふっと光が消えた。
辺り一面を覆う光も、天蓋を焦がさんばかりに立ちのぼる火も、エルシーの肩を抱くアルドリドの右手へ焼けつく激しい痛みも、嘘のように消え去っていた。
アルドリドははっとしてエルシーの顔を覗き込んだ。
「エルシー、無事か!?」
「え、ええ……でもどうして……」
エルシーの生存を確認し、アルドリドは張り詰めていた心がほどけていくのを感じた。
立ち上がろうとするエルシーの身体を支え、アルドリドは視線を上げる。そこには確かに、光輝くきざはしが天へ至るほどに長く続いている。
その傍らには、金色の髪を長くなびかせるフィービーの姿があった。
「なにを呆けている。女神とやらのところへ行くのではないのか?」
冷たく叩きつけられたフィービーの言葉と、戸惑うようなエルシーの沈黙から、アルドリドはその真意を読み取った。
「…………フィービー。……ありがとう」
そして、きざはしを架けたのが誰であるかということも。
「誤解するなよ。おれは、きさまらのくだらない茶番をこれ以上見たくないだけだ」
ふんと鼻を鳴らし、フィービーは大股で光のきざはしをのぼっていった。
金髪に覆われた背中を見つめ、アルドリドは言った。
「ぼくたちも、行こう」
「ええ」
エルシーを促し、殿をつとめる心づもりでいたアルドリドは、おのれの背後に白い影が佇むのを見咎めた。
「…………もしかして、あなたも来るのか?」
「ああ」
エルシーを犠牲にする提案をした彼女に対して、思うところがまったくないと言えば嘘になる。
「あなたは……えっと、なんて呼べばいいのかな」
だが当のエルシーが気にしていないようなので、アルドリドも水に流すべきかもしれない。そもそも彼女がアルドリドの夢に現れなければ、アルドリドは今も打開策を孤独に模索していただろう。
――運命の糸を断ち切る者よ、また会おう。
そう、今思えば、この言葉こそが運命を変えたのだと、アルドリドは思う。
「わたしに名はない。好きなように呼んでくれてかまわない」
「そう言われても……アルドリド、どうする?」
アルドリドは足下に視線を落とした。
月桂樹へ導く白い花はすっかり燃え尽き、露わになった土が一筋の線を描いている。
「…………ローライン」
「では、わたしはこれよりローラインと名乗ろう」
彼女――ローラインは頷き、その白い手できざはしを示した。
「さあ行こう。この世界をあるべき姿へ正すために」
▽▽▽
光の透き通るきざはしの強固さを確かめるように、一段、また一段と、アルドリドは踏みしめながらのぼっていく。
アルドリドは足を止め、きざはしの下を覗き込むように首をひねった。
「ずいぶん高いところまで来たな……」
すでに地上は遠く、遥か眼下に金色が霞んで見える。
「アルドリド、落ちたら危ないわよ」
「そうだな……エルシーは飛べるからいいよな」
ふと、アルドリドは背後を振り返った。
「魔……フィービー、休まなくて平気か?」
「人間の分際で、おれを見くびっているのか」
当初はフィービーを先頭に、エルシー、アルドリド、ローラインと続いていたのが、今ではアルドリドとエルシーが並び、その後ろにローライン、そしてフィービーとなっている。しかもローラインとフィービーのあいだには、だいぶ距離が空いている。
「見くびってはいない。体力に劣る者を気遣うのは当然だろう」
妖精が人間に比べ耐久面に劣ることは明白であり、人間が魔力を具えていないのと同じことだ。
「妖精に人間並の持久力が備わっていれば、有史以降、魔術の行使できない人間に後れを取ることはなかっただろう」
「人間と妖精のいいとこどりってわけにはいかなかったわね」
エルシーとローラインも歩みを止め、フィービーを待った。
「さっきから聞いていれば、きさまら、好き勝手なことを……いいか、おれはきさまらを信用していない。だから距離を置いているのだ。暢気に背中を晒せるきさまらと一緒にするな」
真っ先にきざはしをのぼった者が言うことではない、とアルドリドは思ったが、胸の内にとどめた。
「神を殺したら次はきさまらの番だ。よく覚えておけ」
「…………それだけ話せるなら問題なさそうだな」
少なくとも今は、フィービーを警戒する必要はない。そう判断し踵を返したアルドリドは、ローラインがじっとこちらを見ているのに気がついた。
「…………なにが言いたい」
「感謝する。本来であれば、きみたちの手をわずらわせることはなかった」
静寂の中へ、ローラインの声が雨音のように蕭条と響く。
「わたしはクローティアに力を奪われ、そのせいできみたちに干渉するのにもずいぶん時間がかかってしまった。黙示録が本来の力を発揮できれば、世界はその歪みを感知される前に、あるべき姿に戻っただろう」
思いがけず訪れた沈黙を打ち破ったのはフィービーだった。
「つまりおれたちは、きさまの無能の後始末をさせられている、というわけだな?」
「そうとも言う。しかしわたしは自らの意志で力を放棄したわけではない。フィービー王子、きみが好きで神の力を得たわけではないように」
舌打ち一つを残し、フィービーは口を閉ざした。
「フィービー王子は神の力を持つが神ではない。天使の力は完全ではない。案外、両者が協力してちょうどよかったのかもしれない」
「一つ訊きたいんだけど…………ローラインは、どうしてあたしの力が足りないってわかったの?」
何事にも揺らがなかったローラインの白い瞳に影が落ちるのを、アルドリドははじめて見た。
「毛髪は種族の性質を現わす。土からつくられた人間は茶、風から生まれた妖精は緑、海底で生まれた水棲は青。雷霆を司る神は金。炎から生まれる天使の毛髪は本来、赤であるはず。しかしきみは白混じりだ」
不意にフィービーが歩き出し、エルシーを追い抜きざま、冷ややかな笑みを向けた。
「おれが助力してやらなければきさまは野垂れ死にだ。感謝するんだな」
「あなただって、一人できざはしを架けられたかわからないでしょ!」
エルシーがその背へ尖声を投げつけた。
「だいたい、アルドリドが許しても、あたしはあなたを許したわけじゃないからね!」
「いつ、おれがきさまの許しを乞うた? 敵に哀れにすがるのはどこかの王子様だけで十分だ」
「な、なんですって」
「よせエルシー。…………彼の所業はともかくとして、きみを助けてもらったことには感謝している」
歩みを再開しながら、アルドリドはおのれのしてきたことを思い返す。
エルシーはすべてを知るはずもないが、繰り返される時間の中でアルドリドが行ったことだって、決して褒められたものではない。
自責の念が激しく迫り、アルドリドの胸を軋ませる。すべてが終わった後、なにもかもを白状すべきだろうか。
「勘違いしないように言っておいてやる」
ふと気がつけば、フィービーは焼け付くような視線でアルドリドを見据えていた。
「あの男……モイラがおれの力を制御していなければ、たかが人間などに、ああもたやすく殺されてはやらなかった」
朝から昼、そして夜へと移り変わるように、空の色がその濃さを増していく。
「もっとも、あんな男の制御下にあったこのおれを、きさまが辱めたいというのなら、止めはしないがな?」
アルドリドの答えを待たず、フィービーは早足できざはしをのぼっていった。
アルドリドが呼びかけようとしたそのとき、永久に続くかと思われたきざはしが不意に途切れた。
光のきざはしが導く終着点は、深い闇の立ちこめる空間だった。
「ここが……神の領域だというのか?」
どこまでも広がる闇は、あのエルフェイム城と同じように禍々しい。
静寂の闇の中に、ぼんやりと金色が浮かび上がる。
「クローティア」
ローラインがその名を呼べば、雲が割れて細い月の現れた真夜半のように、闇がかすかに薄まる。長い金髪を垂らして座り込む女性が、女神クローティアその人なのだろう。
「ようやく……この日が来たのですね」
クローティアが視線を上げる。顔を覆う黄金の長い髪が、幕を引くように払われる。
白皙の頬に整った顔立ち、そしてなにより、光そのもののように輝く金色の長い髪は、フィービーとよく似ている。
「やっと逢えた…………」
うっすらと涙の浮かんだ金色の双眸は、ただ愛しさを宿してフィービーだけを映している。
「…………クローティア様……」
「女神クローティア、神の領域へ無断で足を踏み入れたことは申し訳ない。だが、わたしたちはあなたに訊かなければならないことがある」
アルドリドとエルシーの呼びかけにも反応を示さず、クローティアはふらつく足取りでフィービーへ近づいた。
「フィー、神たるわたくしなら、あなたを救ってあげられるわ」
強烈な光がひらめき、一瞬、すべてを透明に浮き上がらせた。
「その名で……おれを呼ぶな!」
フィービーが雷の魔術を行使したのだ、と気がついたときには遅く、フィービーはクローティアに掴みかかっていた。
「クズが……! 殺してやる!」
「待てフィービー! まだ女神から話を訊いていない!」
必死にフィービーを引き剥がしながら、アルドリドは叫びを上げた。
「女神クローティア! あなたはなぜエルシーの声に答えなかった! なぜ時間を戻してまでフィービーを勝たせようとしたんだ!」
クローティアはフィービーへ向けていた慈愛の瞳から一転、恐ろしく怜悧な眼差しでアルドリドを見た。
「アルドリド、神剣アトロフォスを持つ者よ。おまえは自分の国のことばかりで、フィービーの苦痛には気づこうともしませんでしたね」
「…………わたしは、ハインラインの王子だ。王家の者が国のことを考えるのは当然のことだ」
「なぜ、その思いを少しでもフィーへ向けられなかったのです。おまえがフィーを手にかけなければ、わたくしも時間遡行という禁忌に手を染めずにすんだものを」
「ふざけるな」
アルドリドが反論するよりも早く、フィービーが低く呻いた。
「高いところから惨めなおれたちを見下ろすのはさぞ気持ちがよかっただろうな?」
顔は見えなくても怒りに満ちたその声で、フィービーが今、なにを思っているのかが手に取るようにわかる。
「フィー、そうではないわ! わたくしは」
「まったく理解ができない」
白い衣服の裾が眼前ではためく。ローラインがクローティアとのあいだに割って入ったのだ。
「クローティア、おまえの行いによって、フィービー王子のような境遇の人間を海底へ沈めたかもしれない。そうは思わないのか」
「それでもわたくしは、他でもないフィーを守りたいと、そう思ったのです!」
「混血ゆえに定住できず、人間からも妖精からも親子ともども迫害され、次第に父親に疎まれ、力の暴走で父親を殺し、モイラに力を制御され魔王として祭り上げられた少年への憐憫の涙を流し、そのために多くの大地と生命を沈没させてもか」
淡々と紡がれるその言葉に、アルドリドは驚きに全身を打たれた。
「まさか……大洪水は、神がフィービーのために起こしたのか!?」
「そうだ。クローティアの涙が雨となり、世界の大部分が沈下した。きみが黙示録で見たとおり」
「きさまっ……! よくもくだらないことを言ってくれたものだな!」
激昂したフィービーがアルドリドの腕を振り払い、ローラインへ詰め寄った。
「わたしは事実を述べているにすぎない」
ローラインは平然と言い放った。思わぬ形で過去の傷を抉り出されたフィービーには目もくれず、あくまで冷淡に事実を列挙する。
「クローティアはフィービー王子の運命を変えようとした。モイラの存在を抹消したり、フィービー王子が生まれてすぐリャナンを殺したり、それでもこの戦争が起きるのを避けられなかった。クローティアよ、おまえが地上に干渉するならせめて、フィービー王子を廃するべきだった」
「愛する者を救おうとすることの、なにがいけないのですか! わがしもべよ、おまえならわかってくれますね」
突然クローティアから視線を向けられ、あまりの衝撃に呆然と立ち尽くしていたエルシーはたじろいだ。
「わ、わかりません! たった一人のために大地を沈めて、そのうえ時間を巻き戻してまで……!」
「わたくしにとってフィーは特別なの。神の使いたるおまえも、一人の人間へ特別な肩入れをしているではありませんか」
「あ、アルドリドは……生まれたときからずっと一緒だったんだもの。クローティア様があたしの声を聴いてくれないときだって、アルドリドはそばにいてくれたわ!」
「そうですね、フィーもわたくしを救ってくれました。暗闇で孤独に世界を監視しているわたくしに光を与えてくれました。だからわたくしもフィーを救いたい、そう思ったのです」
愛しいものを見つめるように語るクローティアの顔から、ふいに表情が抜け落ちた。
「そのために……愚かな妖精は必要ないわ」
ぞっとするほど冷ややかな声だった。今や女神クローティアにとって、フィービー以外の生物は取るに足らない塵も同然なのだろうか。
ローラインが白色の目を眇める。
「世界の行く末を見守る神の本質は博愛であるべき。しかし今のおまえは偏愛を抱き、ただ一人の声しか聴こうとしない」
「世界の監視役をわたくし一人に押しつけたおまえがそれを言うのですか!」
「わたしは世界そのものではない。わたしはおまえの生み出した世界のひずみから生まれた。歪んだ世界をあるべき姿へ正す、そのためだけに」
「歪んだ世界ですって? 可哀想な少年を虐げ、実の父親が子を遠ざけ、同族に反人間の機運を高める旗印として利用されるのが、正しい世界なのですか!」
クローティアは濡れた瞳でフィービーを掬い上げるように見上げた。
「わたくしはリャナンのような間違いはしません。なにがあろうとフィーを愛するわ」
フィービーの容赦のない鋭利な視線がクローティアを射貫く。
「このおれが、上澄みを掬っただけの浅い同情を欲しているとでも思ったか?」
叩きつけるように放たれたフィービーの声は、神への明確な拒絶だった。
「アルドリド! 不本意極まりないが、きさまに手を貸してやる」
女神クローティアがいる限り、アルドリドの敗北は覆らない。ハインライン王国の民も妖精たちもまもなく滅びを迎え、この歪んだ世界はただフィービーを生かすためだけの箱庭と成り果てるだろう。
ならば、とアルドリドは剣を抜いた。
かつて妖精を滅ぼすために授けられたというアトロフォスは、翳ることなく眩い白光を放っている。
「愚かな――わたくしの創造物たるおまえたちが、わたくしに勝てると思うのですか?」
「おれはおれの意志で生き、おれの意志で死ぬ。きさまの都合のいいお人形になってやる筋合いはない」
ゆらり、と、クローティアが立ち上がる。どこまでも続く闇が水面のように揺らいで、アルドリドを呑み込もうとうごめく。
戦慄で背筋が震え、足が竦む。ここで負ければ、ハインラインの未来は永遠に閉ざされるだろう。
だが、神であるクローティア相手に勝利を収めることはできるのだろうか。恐怖を隠した剣先がわずかに震える。
「アルドリド! ほ、ほんとに……クローティア様と戦う……の?」
そばへ寄ってきたエルシーが、不安げに瞳を揺らしアルドリドを見つめる。
張り詰めた不安が不思議と少しずつ緩むのを感じ、アルドリドはエルシーへ微笑を返した。
「わたしは、わたしを信じてついてきてくれた者たちに報いなければならない。そのためにも、わたしは――神のさだめた運命を断ち切ってみせる!」
クローティアへ突きつけた剣先がぶれることなく研ぎ澄まされるのを悟り、アルドリドの胸は奮然と燃えた。
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