ワーカーホリック
大豆
第1話 幡 和一の介護士
社会福祉法人麗亮会 特別養護老人ホーム「ひだまり」
ここへ入職して一ヶ月、今日が俺の夜勤デビューだ。
『おはようございます。』
15:34
俺は制服(と言っても緑色の芋ジャージだが)に着替え、事務所にてタイムカードを通す。
16時に始業し、翌9時までの長丁場だ。
『お疲れー。幡くん今日夜勤初?』
主任の寺井が声かけた。
書類の上でスマホを弄っていた様に見えたのは錯覚か。
寺井は一見ラガーマン風の体型だ。
が、威圧感はあるものの根は優しいと、他のスタッフの覚えもめでたい。
『そっす。』
もっと愛想良く出来ればいいのだが、如何せん馴染むのに時間を要する性格は、幼少期から33になった今も変わらない。
『頑張って。今日は神路リーダー一緒だから。』
そう言って、寺井は憚らずまたスマホに目を落とした。
錯覚ではなかったらしい。
俺は介護の専門学校を出、以来ずっとこの職に就いている。とは言え一つの職場に三年以上いたことはない。
現にこの施設で六つ目である。
であるからして、否応なしに業界内で「あそこはこうだった、ここはこう」と、自分の中で施設の比較が出来るようになる。
それにしてもこの主任と言う中間管理職の主業務がよく分からない。
それなりに権限もあり要所要所では頼れるものの、企業のような重点的なポストと言う意味合いは薄い。
十年前、俺がペーペーだった頃、先輩に聞かされた介護士の格言はこうだ。
「介護士やるなら出世はするな。キャリアアップしたけりゃ介護士としてじゃなく看護師資格をとれ。」
そう言われ「出世は」のくだりは遵守?しているものの、どうにも腰が重く看護師学校受験には踏み切れまま三十路を過ぎてしまった。
俺はエレベーターに乗り込み(因みにこの施設では職員はエレベーターの使用を禁じられている。法人理事長曰く、あくまで利用者と来訪者の為のエレベーターだそうだ。)二階へ向かった。
二階のワーカー室(スタッフルーム)に当日の割り振りが貼り出されている。
(げ、俺今日雲雀かぁ…。)
この様に直前になって自分の配属ユニットが分かるため、その日その日一喜一憂することとなる。
従来型と呼ばれる他床室型の施設ならこんなことはないのだが、ひだまりの様なユニット型と呼ばれる個室部屋を採用しているとなると「今日は最悪だ。」「今日はラッキーだ。」と、こうなる。
もっともユニット型にはじめて入職した俺は初耳だったのだが、先輩から聞いた話では「ほかのユニット型施設はスタッフは1つのユニットに一定期間固定だからね。」と言われ、背筋が寒くなったのを覚えている。
今日入る雲雀になんか固定されたら俺は一年持つ気がしない。
『おいっす。お疲れー!』
エレベーターの開閉音と共に神路のデカい声が響いた。
『お疲れ様です。今日よろしくお願いします。』
俺は慇懃に低頭した。
神路が割り振り表を見る俺と並ぶ。
『幡くん俺とペアか!二階は芝っちょか!』
ひだまりの造りは、一階が事務所、会議室、食堂、倉庫、応接間等になっており、二階が鶯、燕の二ユニット、三階が大瑠璃、雲雀、白鷺の三ユニットになっている。
三階の夜勤は二人で受け持ち、二階は一人で二ユニット見なければならない。
ユニット=定員10名だが、喜ばしい事に?満床率は8割そこそこなのでさほど苦痛ではない。
俺が過去いた施設ではある理由で夜勤者が確保出来ず30名近くを一人で見る事態もしばしばあった。
『今日はちょっと気を付けねーとなぁ…』
『あれ?見ちゃいました?』
『んー、さっき廊下の方でちらほら。』
俺は半信半疑だが、神路は「見える」人らしい。
ヤンキー上がりの様な不良中年を思わせる風体にはそぐわない体質である。
『色がなー…あんま良くなかったから、花ちゃんとかちょっと注意な。』
神路曰く、霊的なものは色で良し悪しがあるらしい。
黒に近い色がうろついている日は誰かに「迎え」が来るとのこと。
「花ちゃん」とは白鷺ユニットにいる91歳の女性利用者で、高齢に加え誤嚥性肺炎を頻発しており三階で唯一「リーチ」が掛かっている利用者となっている。
『幡くんだから安心だけど、一応食介気を付けて!』
神路に言われた。
事実ひだまりでは何度か未熟な介護士が食事介助を急ぐ余り、嚥下能力の低い利用者に食べ物を詰まらせ天国に送り届けているらしい。
酷い話に聞こえるが、良くある話である。
介護業界では(他職種もそうだろうが)残業代を認めている施設は全体の一割未満だ。
経験上「何か一つ業務を省く」「無理矢理急ぐ」「そもそも定時退勤は諦める」の選択肢から一つを選ばねばならない日がほぼ毎日である。
食事介助でミスをした介護士は俺個人としてもダメな介護士だとは思うが、一口に批難しきれない部分もある。
時間内に業務が詰まりすぎているからだ。
頑張って定時に上がりたいのは人情ではないか。
こんな時、ペアが神路のような「効率派」の介護士で本当に良かったと思う。
『終わんなかったから終わんなかったでいいんだから。食介三人も四人もいるのに飯なんか全員に全部食わそうとしたらそりゃー無理だよ。』
神路は年齢47で経験は20年になるらしいが、本当に『介護士』だと思う。
『芝っちょとかは「人権派」だから時間なんかお構いなしなんだろうけどさ。それやりだしたら仕事じゃなくてボランティアなわけよ。』
全く以てその通りだと思う。
俺達は介護と言う「仕事」に携わる只の一職業人だ。
利用者には悪いが、悪いのは制度だ。
俺等は必要以上のことはやれないしやりたくもない。
『幡くん、夜の松村さんの介助初か?』
『そっすね、あの人夜も面倒なんですか?』
『面倒なんてもんじゃねーよー!就寝時の介助なんか、あの人リウマチだからってさぁ、全身何カ所もエレキバン貼ってボルタレン塗ってシップ貼って…まぁまともにやったら一時間コースだから、良きところで切っちゃっていいよ。』
聞いただけで気が滅入った。
『はい。「一人にそんなに時間かけられないので」ってある程度の時間で切ります。』
俺は言った。
『幡くんも「介護士」だな。安心安心。』
神路は白鷺ユニットに消え、俺は雲雀ユニットへ向かった。
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