第39話 九死に一生

日のあるうちは遮るもののない日射しが容赦なく降り注ぎ、日が沈めば日中の暑さが嘘のようにきつく冷え込む。そしてまた日が昇れば、夜の冷気を消し去るように太陽が照りつける。

風が吹き付ければ舞い上がった砂が視界を塞ぎ、時には目も開けられないほどの砂嵐となる。

そしてなによりの問題は水だ。

行商隊とともに王都ラグナへ向かうはずだった一行には最低限の備えしかない。計画的に飲まなければ、ラグナへ着く前に水が尽きてしまう。かといって水分補給をしなければ生命に直結する。

サヴォナローラの広大な砂漠を越える旅路は、アサレラの思っていたよりも遥かに過酷だった。


「なあ……、王都ラグナって、もうすぐ?」


一行が砂漠を進み始めてから四日目となる昼、いつも明朗なリューディアも、さすがに疲れを見せている。

夜にできるだけ足を進め、昼は交代で睡眠を取る。夜間に行動したほうが水の消費を抑えられるはずだというエルマーの意見を取り入れ、これから休憩に入るべく支度をしているところである。


「……いいえ、まだ先は長いです。ここからですと、あと七割……といったところでしょうか」


答えるエルマーもまた、疲労が色濃い。戦いの中に身を置いていたアサレラ、旅慣れているであろうフィロとロモロ、そして厳しい修行を乗り越えたリューディアと違い、エルマーはずっと王宮で暮らしてきた。王子として暑さも寒さも飢えも戦いも無縁だったであろうエルマーが、これまで一度も弱音を吐いていないだけでもたいしたものだ。


「…………まだ半分もいってないのか……」


アサレラは辟易として空を見上げた。

この強烈な熱と光をもたらす空が、少しでも翳ってくれないだろうか。

そう思いはしても、澄み切った青い空には一片の雲も見当たらなかった。


 


それからいくつかの昼と夜を越えた今、一行の疲労はいよいよ極限に達しようとしていた。

いつも無口なフィロは輪にかけて寡黙で、初めのうちはそれなりに話していたリューディアも今はほとんど口を利かない。小休止のたびに空と地図を見比べながらあれこれ話し合っているロモロとエルマーは、その二人よりも明らかに疲弊している。昨晩、砂嵐をやり過ごすために一日分の水と食糧を余分に消費してしまったのも大きい。

重い身体を引きずるように進むアサレラもまた、いよいよ限界が近かった。

少し欠け始めた月が砂漠を照らし、稜線をなだらかに浮かび上がらせる。

おのれの選択は果たして正しかったのだろうか。

フィロを救出した直後は気が動転して、ゲルツァーの言葉に後押しされるように砂漠へ足を踏み入れ、そのままなし崩しに王都ラグナへ向かった。だが一度聖王都ドナウへ戻り、オトマー王に救援を頼むべきだったかもしれない。エルマーやゲルツァーの言葉を信じるならば、オトマー王は魔術士を排除しようとはしていないはずなのだから。

しかし、今となってはもう遅い。ここまで来てしまった以上、今からドナウへ戻ることはできない。


――おれが、もっと早く決断してれば……!


アサレラは聖剣の柄を握った。

コートニーからの凄惨な仕打ち、それを顧みないロビン。故郷を飛び出した幼い身に降り注いだ数多の災難。そして燃え上がるセイレム村。それらからアサレラを守っていたのは、かつてトラヴィス王が言ったように、左手に浮かぶ聖痕だったのかもしれない。

だが、他の仲間たちは?

彼らの下にも、聖痕の守護は降るのだろうか。

このまま誰一人欠けることなく王都ラグナへたどり着けるのだろうか。


――本当に、これでよかったんだろうか……。


自問を繰り返す胸の内に答えはなくても、アサレラは同じことを考えずにはいられなかった。

頭上に散らばる無数の星、その中には青く輝く青狼星もある。

この青い光の先に、アサレラたちの行くべき道があるのだろうか――。


「…………アサレラっ!」


飛んできたエルマーの声にはっとする。

目の前にいたのは巨大なサソリの魔物だ。黒い甲殻に月光が反射し、掲げた尾が青白く光る。

反射的に飛び退こうとして、やわらかな砂に右足を取られる。ぐらり、と身体が後ろへ傾く。踏み支えるために力を込めた左足が砂へ沈む。

サソリが尾を振り上げる。

やられる、と思ったそのとき、横合いから続けざまに飛んできた矢が、固い甲殻を繋ぐ関節を正確に撃ち抜いた。

サソリは尾を振り上げたまま硬直した。アサレラはその隙に体勢を立て直し、サソリの尾を斬り落とした。

青い体液が噴き上がる。

のけぞったサソリの腹部に剣を突き立てる。サソリは体液を撒き散らしてぴくぴくと痙攣し、そのまま動かなくなった。斬り落とされた尾だけが、いまだ生きているかのようにうごめいている。


「いやあ、あぶねえとこだったな。アサレラ、だいじょうぶか?」


戦っているあいだに髪紐が千切れてしまったのだろう、いつもは二つに括られている金髪をなびかせたリューディアがやって来て、放った矢を回収し始める。


「あ……ああ。ごめん、助かっ……」


「アサレラ……!」


蒼白な顔色のエルマーがこちらへ駆け寄ってくる。静けさを取り戻した砂漠に砂埃が立ち上がった。


「戦いの最中に呆けるなんて、なにを考えているのですか、あなたは……!」


「ご……ごめん」


事実であるだけに、なにも言い返せない。

こちらを見上げるエルマーの瞳が揺らいで、すぐさま伏せられる。


「あなたがいなければこの旅は成り立たないのですよ! もう少し自覚を……」


「…………わめくな」


乾ききった砂漠に一粒の雨が落ちるように、フィロの声が妙に響き渡る。


「ですが! アサレラが、し……死ぬところだったんですよ……!」


「……死ななかったんだからいいだろう。終わったことをいつまでも騒ぎ立てるな」


「あ、あなたはっ……!」


アサレラは慌てて二人のあいだに割り込んだ。


「待て! エルマーの言うとおり、おれが悪いんだ……おれがちゃんとしてなかったから……」


「……エルマー殿、余計な体力を消耗する行為は控えるべきだな。アサレラ殿、わかっているなら今後は気をつけてくれ。それからフィロ、相手をわざと怒らせるような言い方はよせ」


穏やかな物言いだが、反論を許さない響きだった。

三人は一斉に押し黙り、それからぼそぼそと口を開いた。


「……そ、そう……ですね。気をつけます……」


「………………わかった」


「……。ロモロのおっしゃるとおりですね。確かに軽率でした。……すみません」


いたたまれず視線を動かすと、リューディアが南東をじっと見つめたまま動かないことに気がついた。


「……リューディア? どうかしたのか?」


月を見ているのだろうか。それにしてはずいぶんと下のほうを見つめているような気がする。


「あそこ、人がいる」


「えっ!?」


その言葉に、四人はリューディアの見ている方向へ一斉に目を向けた。


「…………。なにも見えませんが……?」


そこには月に照らされて浮かび上がる砂漠の稜線と、その上に散らばる星々があるばかりだ。


「リューディア殿は弓使いだからな。目がいいのだろう」


「……それでリューディア、何人くらいいるんだ?」


「見た感じ一人だな。あとコブのついた……馬かな? が二頭いて、一頭はでっけえ荷物背負ってる」


「駱駝ですね。……行商隊の一員でしょうか。なぜ一人でいるのでしょう……?」


「砂嵐に巻き込まれてはぐれたか、魔物や盗賊に襲われて一人生き残ったか。あるいは……」


「……行商隊を殺した盗賊、か」


もし行商隊であれば、食糧や水を融通してもらえるかもしれない。盗賊であっても、一人であれば問題はない。だが盗賊に仲間がいた場合は……。


「あ、あっちもあたしらに気づいたっぽいな。こっちに来てるみたいだぜ。どうする?」


しばらくすると、リューディアの言うように、コブのある馬――駱駝を二頭引き連れた人間が一人、こちらへ近づいてきているのをぼんやりと目視できるようになった。

行商隊か盗賊か。どのみち接触は避けられないようだ。


「わたしが行こう。安全が確認できたら合図をする」


外套を翻し、ロモロがそちらへ向かう。フィロがちらりとこちらを見て、ロモロを追って歩き始めた。


「あ、フィロ……」


「……まあ、だいじょうぶでしょう。ロモロもいますし」


それから少ししてロモロの動きが止まり、フィロも足を止める。例の人間となにか話をしているようだ。

息を潜めてじっと見守っていると、ロモロがこちらを振り返って片手を上げた。


「……だいじょうぶだったみたいだな」


張り詰めていた緊張の糸が緩む。


「では行きましょうか」


エルマーが先に行き、アサレラとリューディアがそれに続く。

ロモロと向かい合っているのは若い女性だ。擦り切れた外套を纏い、黒い髪をひとつにまとめている。

近づいてくるアサレラたちに気がついたのだろう、女性がこちらを見る。

途端、その顔が恐怖に引き攣った。


「ひッ……ま、魔人……!」


「え!?」


剣を構え、周囲に視線を巡らせる。

だが、敵意どころか、生き物の気配すら感じられない。

そのとき、視界の端でなにかがきらりと光った。

女性が湾曲した刀を抜き、エルマーへ剣の先を突き付けたのだ。


「み……、みんなの仇……!」


アサレラたちは、誰一人動かなかった。

彼女の気迫に気圧されたわけではない。

エルマーを睨む青い瞳には怒りが宿っているが、底には隠しきれない恐れがあった。腰が引けているために突き付けた切っ先は震え、狙いがまるで定まっていない。

彼女に人を斬れないことは明白だった。

剣先を向けられているエルマーでさえ、そう感じていただろう。


「…………魔人じゃない。こいつはエルマー、マドンネンブラウの王子だ」


フィロの言葉に、女性が目を瞠る。


「お、王子様……?」


「ええ、ぼくはエルマー。こちらはアサレラ、聖剣レーゲングスの継承者です」


エルマーが振り返る。アサレラは頷いて、外套のフードを外した。


「聖者様……! ああ、よかった……あたし、助かったのね……」


アサレラの銀髪を見て確信したのだろう、女性は今度こそ安堵したように笑った。震える手から剣が落ちる。


「あたしはデシレー、行商隊の一員よ。あたしたち、青い髪に金色の目をした魔人に襲われたの。みんな殺されて、あたしだけなんとか逃げられたんだけど……」


聖王国の王子様だなんて知らなくてごめんなさい、とデシレーが頭を下げる。


「いえ……あなたがご無事でなによりです」


デシレーの剣を手渡してやりながら微笑するエルマーの背後で、アサレラはばくばくと拍動する心臓を押さえた。


――青い髪に金色の目? ……まさか、ジョンズワートなのか……!?


また次に巡り会うことがあれば、わたしの知ることを再び話しましょう。

そう言い残して消えた魔人ジョンズワートが、このサヴォナローラにいるのか。それとも、魔王によって他の魔人が生み出されたのだろうか。


「見たところ貴殿は戦うのが不得手なようだ。どうだろう、わたしたちが護衛する代わりに水と食糧を分けていただけないだろうか」


「あら、いいの? こちらこそ助かるわ。聖王都に向かうところだったのよ」


一行は顔を見合わせた。


「ラグナへ向かうわけにはいきませんか? こちらの都合で申し訳ないのですが、ぼくたちはレヴィンへは行けないのです」


「……どうして? ここからならレヴィンのほうが近いわ」


「それは……」


不穏な空気が漂い始める。

デシレーを斬って、荷物だけ奪う。

そんな邪悪なひらめきが、アサレラの内へ暗雲のように立ちこめ始める。

デシレーの流した血は砂漠を少しばかり汚し、やがて砂の下に沈むだろう。先ほどのサソリと同じように。もし遺体が発見されても、まさか聖者一行に斬り殺されたとは思われないはずだ。魔物か魔人、あるいは盗賊の仕業だと判断されるだろう。

いや、さすがにそんなことはできない。アサレラは聖剣の柄に手を添え、ため息をついた。額を押さえ、それから周囲を見渡す。

怪訝そうなデシレーに、どうにか交渉を続けるロモロとエルマー。デシレーを睨むフィロ、黙って見守るリューディア。

そのとき、アサレラの中にひとつの考えが浮かんだ。

うまくいくかはわからない。だが、やらなければこの状況を打開することはできない。

リューディアの肩に手を置いて、耳元に顔を寄せてささやく。


「……リューディア。今からなにもしゃべるな。おれの話に合わせて首を縦か横に振れ」


「ん? ……よくわかんねえけど、わかった」


「で、無表情で、なんか悲しそうで影がある感じの顔をしてくれ」


「無表情で悲しくて暗い……ってどんな感じ?」


「えっと、そうだな……フィロみたいな」


「こうか?」


すっとリューディアの表情が消え、伏せられた紫色の瞳に陰が落ちる。そこには明朗快活な戦士の面影はなく、悲しみにひしがれる少女の姿があった。


「それでいい。じゃあ、行くぞ……」


リューディアの背をそっと押し、アサレラはデシレーの前へ進み出た。


「レヴィンの魔人審問のことを知ってるか?」


五人の視線が一斉にアサレラへ向けられる。


「ええ。それがどうかしたのかしら?」


「一度嫌疑がかけられれば最後、魔人じゃない者であっても、魔人として処刑されることも?」


「……ええ」


アサレラは視線を落としながら、つとめて悲しげに声を震わせる。


「この子の兄は冤罪で処刑されたんだ」


はっとデシレーが息を呑む。


「……アサレラ? なにを……」


エルマーを目で制しながら、アサレラは疲労で鈍る頭を必死に働かせる。


「この子まで危なかったところを、おれと王子が助けたんだ。おれたちはラグナに向かうところだったから」


「そのとおり。わたしと息子は、聖者殿と王子に雇われた護衛だ」


いち早くアサレラの意図を察したらしく、ロモロが取りなした。


「追っ手がかかってたから、早くレヴィンを出なくちゃいけなかったんだ。だからあまり準備ができなくて……」


「……そうだったの。……ごめんなさい。そういう事情なら、ラグナへ行きましょう」


幼い少女に降りかかった災難に同情したのだろう、デシレーはうっすらと涙の浮かぶ青い目でリューディアをしばし見つめ、それから二頭の駱駝を率いて先を進み始めた。

一行は心得たように黙って顔を見合わせ、それからデシレーの後に続いて歩き始める。

言葉はなくとも、五人ともが同じ思いを抱いているだろうとアサレラは確信していた。


――嘘が見破られなくてよかった……!


「……行くぞ」


心から安堵のため息をついたアサレラの肩を叩いたのはフィロだった。月の光を受ける薄紫の髪が、天上の星のように美しく輝く。


「ああ、行こう」


かすかに微笑むフィロに頷きを返しながら、アサレラは再びフードをかぶった。

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