第38話 再出発

見渡す限りどこまでも広がる砂漠は、以前ウルティアで見下ろした海にどことなく似ている。

遮るもののない一面の砂に、足元で影が長く伸びる。風が吹きつければ砂が白く巻き上がり、背後で防砂林がざわざわと揺れる。

定まらない地平線の果てに丸い月が見える。

フィロを助け出し、こうしてレヴィンの町を脱し、危機は去った。だというのに、アサレラの心は重かった。

ゲルツァーの行いは間違っていたし、フィロを魔人として処刑しようとしたことを許すことはできない。だが、レヴィン、いやマドンネンブラウ聖王国――もっと言えば世界のことを憂えての行動であったことは事実なのだ。

アサレラが魔王を討伐したとき、ゲルツァーはどうなるのだろうか。その処遇を決めるのはアサレラではなく、オトマー王やエルマーだろう。そう思いはしても、胸の底に重いものがわだかまる。


「…………とにかく。いつまでもここにとどまるわけにはいきません。サヴォナローラの王都――ラグナへ向かいましょう」


そう切り出したのはエルマーだ。

ロモロは暗い表情で頷き、リューディアは外套のフードを被った。常であればエルマーの言うことにいちいち反論するフィロも、このときばかりはなにも言わず月を見上げた。

レヴィンの遥か東にある王都ラグナへ、無事辿り着くことができるだろうか。

果てしなく広がる砂の海へ、アサレラは足を踏み出した。




一行のうちに砂漠越えの経験がある者はいない。ロモロとエルマーが必要なものの買い出しを終えていたこと、そして二人に砂漠を越えるための知識だけでも備わっていたのは不幸中の幸いだろう。

一歩進むたびに足が砂へ沈み込み、歩くことすらままならない。靴底に入り込んだ細かい砂粒がじゃりじゃり擦れる不快感を押し殺し、アサレラはひたすら歩き続けた。

やがて振り返ってもレヴィンの町影が見えなくなり、残照の名残もすっかり消えた頃、急激に冷え込みがきつくなった。汗が冷え、指先がかじかむ。砂漠は暑いものだと思っていたアサレラの身体は、思いがけない寒さに悲鳴を上げた。それは他の面々も同じだったようで、一行はしばしの休息を取ることになった。

おこした火を囲い、乾燥フルーツの欠片をもぐもぐ咀嚼していると、張り詰めていた心が少しほぐれていく気がする。


「砂漠は昼夜の寒暖差が激しいとは聞いていたが、まさかこれほどまでとはな……」


薬草茶を用意するロモロの顔色はどことなく蒼白い。砂漠の過酷な環境が堪えているのか、あるいは――フィロが処刑されそうになった絶望と怒りが深く刻み込まれたか。

無理もない。アサレラだって、フィロが魔人として連れて行かれたと聞かされたときの衝撃が、いまだに抜けきっていないのだから。


「前にどこかで聞いたんだけど。サヴォナローラって最近できた国なんだよな?」


渡された茶をみんなに回しながら、アサレラは重い空気を払拭するためにつとめて明るい声を出した。


「サヴォナローラが建国されたのは五十年ほど前ですね。建国者はウルティアの冒険者ジローラモ。もともとサヴォナローラは聖王国領だったのですが、五百年前に魔王の手で砂漠と化してからずっと手つかずだったのです」


それを察知したのか、答えるエルマーの声も不自然に弾む。


「…………サヴォナローラは聖王アサレラが聖剣を下された地だ。ウルティアの戦士くずれは未知の神秘を求めて砂漠へ繰り出し、やがて一つのオアシスを見つけそこに国を興した……らしい」


フィロが言う。


「神秘……というより、大半の冒険家は魔鉱石目当てですね」


「魔鉱石?」


アサレラの反芻に、エルマーはええ、と頷いた。


「魔王パトリスの魔術で砂漠となったサヴォナローラには、いまだに魔力の残滓が残されています。その魔力の結晶が魔鉱石と呼ばれる……まあ、宝石のようなものですね。先ほどゲルツァーが持っていたドーラストーンもその一つです」


一口茶を飲んでから、エルマーはため息をこぼした。


「もっとも、魔鉱石を発見できる冒険家はまれです。多くの冒険家はなにも得られない。そこで堅実な職を見つけられる者はいいのですが、そうでなければ……」


「…………盗賊、か」


ぱち、と火の粉が爆ぜて、フィロの頬が赤く照らし出される。


「野盗となった彼らが行商隊や旅人を襲うことが国際問題となっているのです。以前は聖王国から討伐隊を派遣していましたが、今は魔物への対処や主要都市の警護に人員を割かざるを得ません。ぼくたちがラグナへ行くまでに、野盗と遭遇しなければいいのですが」


「……そいつらも食料と水は持ってるんだよな?」


思わずそう呟いたアサレラへ、右隣からエルマーの視線が突き刺さる。


「アサレラ。……まさか、彼らから追い剥ぎをしようなどと考えていませんよね?」


「お、思ってるわけないだろ。おれだって、自分の立場ぐらいわかってるさ」


「……なら、いいのですが」


これまでの生き方を思えば、清廉潔白な振る舞いを求められるのは窮屈で仕方ない。だが、目的――魔王を倒し、魔術士が普通に生きられるようにする――のためには仕方がない。

ふと視線を転じたアサレラは、リューディアが俯いたまま、じっと動かないことに気がついた。


「リューディア、具合が悪いのか?」


そういえば、リューディアは先ほどから一言も喋っていない。それどころか、回された乾燥フルーツにも薬草茶にも手を付けていないようだった。

砂漠の旅の中では、水の不足は生命に直結する。ロモロやエルマーが何度も念押ししたことだ。胃が受け付けないのかもしれないがとりあえず茶だけでも飲め、とアサレラが言おうとした、そのとき。


「あの、さ」


てのひらの乾燥フルーツを見つめたまま、リューディアがぽつりと言う。


「…………。フィロは、……魔術士なんだろ?」


すっかり弛緩していた空気が一瞬で張り詰めた。


「……どういうことですか、リューディア」


エルマーが怪訝そうに眉を寄せる。


「…………まだ疑っているのか。オレは……人間だ」


「そうだリューディア殿、先ほどわかっただろう。フィロは魔人などではない」


答えるフィロとロモロの声が警戒に尖る。二人の見た目の印象はさほど似ていないが、こうして剣呑な陰を帯びるとよく似て――いや、そんなことを考えている場合じゃない。


「リューディア、フィロは、その」


「ん? いや、そうじゃねえって。フィロは、魔術を使える人間なんだろ?」


ところが混乱を引き起こした張本人は、いたって平然とした様子で乾燥フルーツを口へ放り込んだ。


「…………あの光。何年も前、どっかで見たような気がするって言ったけど……思い出した。あれは……、あれは、あたしの兄貴が使った魔術の光だ」


思いもよらない言葉に、アサレラは思わず腰を浮かした。


「ちょ、ちょっと待て。きみの兄さんは魔術を使ったのか!?」


「うん。四歳になるちょっと前のことだから、思い出すのに時間かかっちゃったけどな」


薬草茶を飲んだリューディアが、ふう、とひと息ついた。


「兄貴と一緒に、森にキノコを採りに行ったんだ。そしたら魔物の群れと遭って……死にそうになったとき、兄貴の指がぴかって光って、雷みたいなのが落ちた。……気づいたら魔物は一匹もいなかった」


あのときはなにが起きてんのかわかんなかったけど、と、リューディアが視線を北へ向ける。まるで、遠いローゼンハイムの地を眺めるように。


「今ならわかる。あれは魔術だったんだ。……それからすぐ、母ちゃんは兄貴を連れてローゼンハイムに向かった」


リューディアのよく通る高い声が途切れると、重い沈黙が降りる。

おそらくリューディアの母は、息子が魔人として処刑されないために、ローゼンハイムへ旅立ったのだろう。だが、なぜリューディアを一人置いていったのだろうか。


「…………そうでしたか。……リューディアのお母様が、お兄様だけを連れてローゼンハイムへ発った理由がわかりましたね」


天蓋を埋め尽くす満点の星々、そのさざめきが聞こえてきそうなほどの静寂を破ったのはエルマーだった。


「……どういうことだ?」


「ローゼンハイムへ行くには、ニーチェから渡航するか、今の僕たちのようにサヴォナローラの砂漠を越えるか。船旅の中で魔術を使えることが露呈した場合、下手をすれば家族もろとも海へ投げ捨てられるかもしれません。だからといって、幼い娘を連れて女性一人で砂漠を越えるのは無謀でしょう」


アサレラの問いに答えたエルマーが、少しばかり疲れたようなため息をこぼした。


「……そういうことか。じゃあ……リューディアの母親は、リューディアを守るために?」


おそらく、と頷いたエルマーが、フィロへ視線を転じた。


「ではフィロは……」


アサレラははっとしてフィロを見た。

フィロは、なんと答えるのだろうか。アサレラは固唾を呑んでフィロの答えを待った。


「………………そうだ」


そう答えるフィロの、赤い炎の揺らめきを映し出す瞳に翳りはなかった。


「……エルマー殿、リューディア殿、フィロは……」


「ロモロ、フィロ。ぼくもあなたがたに協力します」


立ち上がりかかったロモロの言葉を遮って、エルマーがきっぱりと言い切った。


「ぼくはローゼンハイム公国のかたがたと交流がありましたから、魔術士がぼくたちとなんら変わりのない、ふつうの人間であることを知っています。それはフィロ、あなたも同じです」


まあ、少しばかり無愛想で口が悪いですが、と苦笑するエルマーの隣で、さっとリューディアが手を上げる。


「あたしも!」


腹の底の算段や後ろ暗い企てなどない、朗らかな笑顔だった。


「兄貴は魔術であたしを助けてくれた。だったら、魔術だって悪いもんじゃねえ。兄貴と母ちゃんのために、あたしも頑張るよ!」


ロモロが立ち上がる。

砂が立ち、わずかな風に乗ってどこかへ流れていく。


「…………ありがとう、エルマー殿、リューディア殿。それにアサレラ殿。わたしも、その誠意に応えよう」


フィロはためらうように目を伏せたが、やがて決然と視線を上げた。


「………………。ありがとう……」


よかった、と胸をなで下ろしたアサレラへ、エルマーがにっこり笑いかけた。


「アサレラ、あなたの本当の目的がわかりましたよ」


「えっ?」


「ほら、城へ来たとき、魔術士についていろいろ訊いてきたでしょう。魔術士のことをどう思っているのかとか、同行者の願いを叶えてほしいとか。魔術とは縁遠いコーデリア人のあなたがあんなことを言うなんて、妙だとは思っていましたが」


フィロのためだったのですね、とからかうでもない微笑を向けられ、アサレラはなんとなく気恥ずかしくなった。


「い、いや、おれは……別に」


夜が深まり、冴えた空気はいよいよ冷たさを増してきている。だというのに顔がいやに熱くなり、アサレラは視線を逸らした。

銀の砂をばらまいたかのような星々の遥か上、ひときわ輝く青い星がある。その星へ向かって、アサレラは手を伸ばした。


「青狼星……」


星の名前など知らないアサレラが唯一その名を知る、冬の到来を告げる星。いつどこで聞いたのかも覚えてはいないが、アサレラはあの青い光を見上げるたびに、冬が来ることを知ったものだった。

天を指すアサレラの指先に、星の青白い光がともる。

砂漠を越えて、王都ラグナへたどり着けるだろうか。

聳え立つラ・ロッサ山脈を突破し、ローゼンハイム公国の地を踏むことができるだろうか。

そして、魔王を討伐し、世界を覆う暗雲を払うことができるだろうか。

あの青い光が、この旅路の吉兆となればいい。

アサレラはそう願わずにはいられなかった。

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