第27話 秘密

音という音が消えてしまったのかと思うほどに静まり返るクルトの町を、アサレラとロモロは進んでいた。

今にも崩れ落ちそうな小聖堂で夜を明かすのは危険だと主張するアサレラへ、ロモロは黙って頷き、眠ってしまったフィロを背負ったのだった。


聖痕の輝きが消え失せたアサレラの手元で、ランタンの灯りが暖かに燃える。先を進むロモロの両手が塞がっているため、その進む先を照らすようにしながら、アサレラは背負われているフィロを見る。ロモロの歩みに合わせて波打つ髪へ月明かりが注ぎ、薄紫色が蒼白い翳りを帯びている。


壊れかけた建物を通り過ぎるたび、アサレラの胸はわずかに痛む。この地で日々を営んでいた人は、もうどこにもいないのだ。

もし、死んでしまったクルトの住人に会いたいと願う人がいるのならば、その人は今、なにを思って過ごしているだろう。


「すまなかった、アサレラ殿」


ロモロがそう切り出したのは、ひらけた場所へ腰を落ち着けようとした矢先だった。

なんのことだ。少し考え、アサレラは、ああ、と右肩へ手をやった。


「おれは平気です。それよりロモロさんこそ、火傷とかは」


まだ痛みは残っているものの、幸い利き腕ではないので、剣を握るのにはさほど困らないだろう。


「そうではなくて……いや、それもあるのだが」


ロモロが言い淀む気配が伝わってくる。アサレラは言葉を促すことはせず、その場に座り込んだ。

ひゅう、と風が通り抜ける。渦巻く火炎で熱を持った身体に、夜の冷気はかえって心地よい。


「………………フィロのことだ」


ロモロは自らの傍らへ寝かせたフィロへ視線を落とした。つられるようにアサレラもフィロを見下ろす。銀色の光を纏い、破壊の衝動へ身を委ねるように炎を生み出していたあの恐ろしい姿の面影はすでに消えている。月光の下に白く浮かび上がる寝顔は穏やかだ。


「わたしたちは……いや、わたしは……、アサレラ殿に、隠していたことがあるのだ」


ふ、とアサレラはロモロへ視線を戻した。


「フィロは、…………フィロには…………」


ロモロは躊躇うように幾度か息を詰まらせ、それから、意を決したようにアサレラの目をまっすぐ見た。


「…………フィロには……魔力がある」


魔力。その言葉をアサレラは胸の中で繰り返した。


「魔術を使うための力の源、ってことですか?」

「…………そうだ。魔力は生得的な素質だ。持つか持たざるかを選ぶことはできない。持つ者が捨てることも……持たざる者が得ることも」


ではフィロは、生まれながらにして魔術を行使するための力――すなわち魔力を持っているのか。

けど、とアサレラは慎重に疑問を重ねた。


「……おれ、赤魔術を使う人間は初めて見ました。青魔術……は、何回か見たことあったけど」

「それはそうだろう。魔王が復活した今となっては……、赤魔術の使い手は、魔王の配下たる魔人として扱われるのだからな」


一瞬静寂が落ちて、アサレラは衝撃のまま立ち上がった。


「それって……! 赤魔術を使える人間は魔人として討伐されるってことですか!?」


張り上げた声が、人のいない町へ反響し、夜の空気を揺らす。


「青魔術は人を救うための魔術。赤魔術は人を傷つけるための魔術。魔王パトリスは、元々はとても優秀な赤魔術士だったそうだ。イーリス人でありながら、ローゼンハイムの魔術学院への留学を許されるほどにな。だが……その力で世界を破滅させようと目論んだ。五百年前も、そして……今も」


なにかを低く抑えるようにロモロが言う。

足がわずかに震えていることに気がつき、アサレラはのろのろと腰を下ろした。


「赤魔術士は人ではない、いつか力に魅入られ、魔に目覚める……そう思われている。赤魔術が使えると知れれば、まともに生きてはいけない。だからわたしは……」


言葉が出ない。唇を開いて、閉じて、また開く、そういうことをアサレラは何度か繰り返した。


「…………そ、そんな……だって、魔力があるかないか、それが生まれつきで決まるなら、……どうしたって、変えられないのに」


アサレラがやっとの思いであげた声は掠れていた。

特定の性質を生まれ持った人間が魔に属する者として同じ人間によって排除される、そのようなことがあってよいはずがない。


「魔人シルフは……魔王の眷属だと自分で言った。あいつは人間じゃなかった……でも、もし……もしおれの前に、赤魔術を使う人間が現れていたら、おれは……」


人を斬るのが恐ろしいわけではない。完全に割り切っているといえば嘘になるが、剣を握った理由を思い返しては、その躊躇いごと斬り捨ててきた。

だというのに、胸につかえるこの感情はなんなのだろう。


「みんな不安なのだ。魔物が現れても聖剣の使い手は見つからなかった。魔王が国を一つ滅ぼしても聖王家は聖剣を抜けなかった。ほんの少しの安心がほしいのは……誰だって同じだ」


アサレラは聖剣の柄を握った。

これが今、アサレラの手元にあるのは、アサレラがかつての聖王と同じ要素を持ち合わせていたからこそだ。銀色の髪、そして左手の聖痕。

アサレラが聖者として見出されたのと同じように、魔王との共通点を持つ人々は魔に連なる者と見なされているのだ。


「フィロには魔力がある。途方もないほど強大な魔力だ。…………オレたちは故郷を追われた」

「!」


アサレラははっと目を瞠った。


「どこへ行っても結果はいつも同じだった。わたしの力が足りなかったばかりに……息子にはつらい思いをさせてしまった」


どんどん俯いていくロモロの顔に暗い影が落ちる。


「だからわたしは、フィロに……せめてもの償いをしたかったのだ」

「ロモロさん…………」


もうロモロの表情は窺えない。

アサレラは今度こそ言葉を失った。

帰る場所を失ったのはアサレラも同じだ。だが、自らの意志で捨てるのと、追放されるのとでは意味が違う。彼らはあてどない旅路の中で、二人だけの安息の地を捜していたのだろうか。


わずかに視線を動かせば、眠ったままのフィロがアサレラの目に映る。

瓦礫を赤く染める夕日の下で佇むフィロの後ろ姿が、アサレラの脳裏によみがえる。

もしフィロが、魔物を撃退するために魔術を行使していたとしたら。ともにカタニアまで行こうと、アサレラは本当にそう言えただろうか。


「…………でも、おれは……よかったと思います」


ふ、とロモロが顔を上げる。


「…………よかった、とは?」


青緑色の瞳に濃い影の落ちるさまはフィロとよく似ていて、やはりこの二人は親子なのだとアサレラは思った。


「だって魔人の依代にされてたとしたら、助かるとも限らないじゃないですか。ミーシャはなんとか生きてたけど、絶対に助けられるってわけじゃないし」


アサレラは動悸の静まらない心臓を押さえ、つとめて明るい声を出した。


「そうじゃないなら、まだいいのかなって……なんて、楽天的すぎるかもしれないけど」

「すまなかった……アサレラ殿」


目に影を落としながら、それでもロモロはかすかに微笑を浮かべた。アサレラは慌てて手を振った。

「あ、謝られたって困ります。ロモロさんのせいじゃないし……あ、もちろんフィロのせいでもないけど……」


それに、と、アサレラはおのれの左手へ視線を落とした。


「おれにだって……隠してることはありますよ。おれは、……ほんとは、おれを生んだ女を殺すために剣を取ったんです」


ロモロが息を呑む気配がする。


「ほんとは父親や養母も殺したかったんですけど。あいつらは故郷と一緒に滅んだから……だから、アデリスを探し出して、そして……いつかこの手でと思ってた」

「…………そうか。……アサレラ殿も、つらい思いをしてきたのだな…………」


アサレラは視線をあげた。

ロモロの眼差しはもう、影を宿してはいなかった。穏やかで労るようなそれに、アサレラはかぶりを振った。


「おれは別に……つらかったわけじゃ。おれは屈辱を晴らしたかっただけで……たぶん、ロモロさんとフィロのほうが大変だったと思いますよ」

「苦しみは人と比べるものではないよ。それに……わたしなら、たった一人ではここまで来られなかっただろう。キミはよく頑張ったな」


やわらかな響きでもたらされたその言葉は、思いがけない強さでアサレラの心を揺さぶった。

熱いなにかが胸の底からこみ上げてきて、今まで積み上げてきたものがばらばらに打ち砕かれそうになる。

喉元までせり上がってきたものを飲み下し、アサレラが口にしたのはまったく別の言葉だった。


「で……でも、なんでフィロの髪の色が変わったんだろ?」


さすがにこの話の転じかたは無理がある、と我ながら呆れたが、ロモロはふむ、と考え込む素振りを見せた。


「それは……わからない。魔力の影響でフィロが我を失うことは何度かあったが、あんなふうに……髪の色が変わることは、今までなかった。少なくともわたしは見ていない」

「そうなんですか……」


アサレラはおのれの前髪をつまみ上げた。月の光に照らされ、銀色に輝いている。


「おれとなにか関係あるのかな。それとも聖剣の力が」

「アサレラ殿」


アサレラの声を遮るように、ロモロが硬い声をあげた。


「魔王討伐の旅が終わっても、フィロに会いに来てやってはくれないか。……できれば友人として」


友人、という言葉がアサレラの胸の内を波立たせる。


「…………フィロは、おれにそう思われて迷惑じゃないですかね?」

「こういうのは、相手がどう思うかより、自分がどう思うかのほうが大切だとわたしは思う。それに言っただろう、フィロはキミのことを気に入っているようだ、と」

「そうですね……おれ、友だちっていたことないから、友だちがどういうものかわかんないけど」


なにかが少し違えれば、アサレラはフィロを魔人として切り捨てていたかもしれない。

だが今、アサレラがフィロに抱く感情は、決して敵意や恐怖などではない。


「今日はもう休もう。明日の朝から剣術の稽古を始めよう。わたしたちがともにいられる時間は、そう長くはないからな」

「は……はい!」


返した言葉は思いのほか弾み、アサレラは少し恥ずかしくなる。

ふいにロモロがこちらをじっと見つめた。


「そういえばアサレラ殿、あの女性は友人ではないのか? ほら、キミに手紙を書いたあの神官の……」

「神官って、……ミーシャですか? あいつは……友だちでは……ないですね」


アサレラがミーシャに抱く感情はフィロに対するものとは異なるものだ。決して嫌いというわけではないが、友情や親愛の類いではない。ミーシャからしても、せいぜい知り合い止まりだろう。


「そうか、すまなかった。野暮なことを訊いてしまったな」

「野暮……?」


どういう意味だろうか。わけがわからず、アサレラは首をかしげた。

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