第26話 業火

逃げ場のない風が烈しく渦巻き、小聖堂が内側から悲鳴をあげる。

当然、その渦中にいるアサレラへも暴風は容赦なく襲いかかり、骨を砕かれるような痛みが全身に走る。

吹き荒れる風の唸り、軋む建物の音、盗賊たちの叫喚。それらが重なり合い、異様な歌のように反響する。

せめて視界を確保しようと、アサレラは顔の前で腕を交差させる。やっとの思いで瞼を押し上げると、緩んだ包帯が一本の白い帯となって宙へ舞い上がっていくのが見えた。


「フィロ! よせ……! もうやめるんだ!」


烈風の中心でその長い髪をなびかせるフィロは、アサレラの左手の甲でむき出しになった聖痕と同じ色の光を纏っている。

胸の底が妙に波立つ。見えない手がアサレラの足を捉え、もはや逃れることのできない運命の深淵へ引きずり込まれていくような、暗澹たる予感に背中が震える。


「……ロモロさん!」


内側でどんどん膨れ上がる不安をかき消すように、アサレラは叫びをあげた。フィロの名を呼び続けるロモロの肩が揺れる。


「いったい、なにがどうなってるんですか! これはあいつが……フィロが起こしてることなんですか!? まさかフィロは」


続くべき言葉がアサレラの喉元で形にならず消えていく。ロモロの眼差しに、なにかに怯えるような、なにかをためらうような光が浮かび上がったからだ。


「……すまない、アサレラ殿……! 今はフィロを止めなくては!」


確かにそうだ、と頷きを返しながら、アサレラはおのれの内へ沈んでいった言葉を探った。


――おれはさっき、なにを言いかけた? …………まさか……まさか、フィロは……。


「ひいぃ……ま、魔人だぁ!」

「ちくしょう、聖者のくせに魔人なんか連れてやがったのか!」

「バカ野郎! いいから逃げるんだよっ!」


腰を抜かしている盗賊二人が、残る一人に片手ずつ掴まれ引きずり起こされようとしているのが視界の端に映る。


「違う!」


風に乗って悲痛な叫びが不意打ちのように響き、アサレラははっとした。


「そんなはずはない! フィロが…………など、そんなはずは……」


その嘆きへの疑問を挟む余地もなく、アサレラは立ちすくむロモロの背へ叫んだ。


「ロモロさん! それよりフィロを止めないと……ロモロさん!」


白いマントのたなびく背中は、アサレラの声を拒絶するようにせぐくまっている。かけるべき言葉を失ったアサレラを嘲笑うように、風が耳元で唸りをあげる。

魔人――盗賊の放った言葉がアサレラの中へこだまする。

そうだ、これは赤魔術だ。聖剣レーゲングスの下に滅ぼすべき魔物、魔人、そして魔王が行使する魔術。癒やしの青魔術と対極をなす、破壊のための魔術だ。

なぜ、フィロがそれを。まさかミーシャと同じように魔人の依代とされているのだろうか。ミーシャの腹を食い破って現れた魔人シルフのおぞましい姿が脳裏を去来し、戦慄が身体を突き抜ける。


――けど、フィロは、そんな素振りは見せなかった、はずだ……今まで一度だって……。


本当にそうだろうか、と、内なる声がアサレラへ問いかける。

あのとき、ミーシャに降りかかった災厄を察することができなかったアサレラに、フィロの異変を察することなど、本当にできるだろうか。

どうするべきなのだろうか。答えを求めて左手を見下ろしても、聖痕はただ光を放つばかりだ。

もし本当に、フィロが魔人の依代とされていたとしたら。それを暴いてしまえば、魔人はフィロの腹を裂いて現れるのではないか。

そうなってしまえばアサレラにフィロを助けることはできない。聖剣の威光を以て魔人を退けても、青魔術の使い手はここにはいない。ミーシャが一命を取り留めたのは、エルマー王子がすぐに青魔術を行使したおかげだ。アサレラの思いは定まらず、寄せては返す波のようだ。

ごとん、と、なにかの落ちる重い音が、同じ場所を巡る思考を打ち切った。

アサレラの足下へ、左手に聖剣を掲げる女神像が転がってくる。蒼白く浮き上がる造作に埋め込まれた青い瞳と視線がかち合ったとき、内側で波打つ気持ちが急速に鎮まっていくのをアサレラは感じた。

今はとにかくフィロを止めよう、と、アサレラは前を見据えた。


「フィロ!」


ランタンにともる灯はすでに消え、夜闇を撹拌する激しい風の中で、アサレラの聖痕とフィロの髪が光を散らす。


「フィ……」


吹きすさぶ風の中心で、銀色の光にその端正な容貌を照らされるフィロは――笑っていた。

アサレラは気づいてしまった。

小聖堂の高い天井へ跳ね返っては響くこの音は、風ではなく、フィロの哄笑であると。

頭上で大きな音が轟く。アサレラは反射的に上を見た。暗雲の広がる空へ、色とりどりの光の欠片が美しくきらめいている。見上げるべき天蓋は吹き飛び、極彩色の光をほのかに落とすステンドグラスが砕け散ったのだ。


「すべて燃え尽きてしまえばいい……!」


響く声に視線を戻したアサレラは、無邪気で残酷な幼子のように笑い声をあげるフィロの指先で、赤い炎が産声をあげるのを見た。

ほうほうの体で逃げ出そうとしていた盗賊たちが、噴き上がった炎に呑まれた。いくつもの断末魔が炎の燃えさかる音にかき消される。熱を帯びた風が押し寄せる。たじろぐアサレラのブーツへ、なにかの燃滓が薄く積もって、すぐに流れていった。

アサレラの脳裏で鮮明に描き出されるのは、焼け落ちていくセイレムの惨状だ。

家屋、草木や畑、そして人。炎がすべてを包み込んでいく凄惨な光景が、今もなおアサレラの胸底に焼き付いて離れない。

一歩、一歩、銀色の髪を陽炎のように揺らめかし、フィロがこちらへ近づいてくる。


「恐ろしいか、この、オレが」


動けずにいるアサレラの背を冷たい汗が伝う。

フィロの周囲を巡る炎がうねる。あのときと同じように、すべてを焼き尽くそうとしているかのように。


「すべて燃えて……なにもかもが灰燼となれば、失ったものを取り戻す必要もない。復讐も……なにもかも」


間近に見上げるフィロの右目へ、一瞬、赤い光がちらついた。

アサレラの首へ、火炎を生み出した白い指先が絡みついて締め上げる。


「……すべて、…………燃え尽きてしまえばいい……」


呼吸が苦しい。心臓が破裂しそうに膨れ上がっていく。

あの夜アサレラは、爛れ死んだ養母の傍らで父が炎の中へ消えるのを、為す術なく目の前で見ていた。復讐のために握った剣を振るうことなく死ぬのかと、憎悪と屈辱に苛まれながら生きてきた意味はなんだったのかと、絶望の中で終わりを待つしかなかった。

だが今、アサレラは死を待つばかりの無力な人間ではなかった。

アサレラは聖痕の輝く左手で聖剣の柄を握り、空いた右手でフィロの手を引き剥がそうともがいた。


「フィロ! それは本当に……きみが望んでることなのか!?」


炎よりも強く風よりも激しく、アサレラは声を張り上げた。

アサレラはフィロのことを知らない。フィロもアサレラのことをほとんど知らないだろう。たった数日のあいだ行動をともにしただけなのだから当然だ。

だがアサレラは知っている。フィロは肉親を愛し、肉親に愛されている。そんな人間が世界を呪い、世界に呪われるはずもない――おのれと違って。

だからこそ、焼け落ちた故郷から今この場所まで旅路をともにしたフィロへ、ほんのわずかでも、おのれの声が届けばと、そう思わずにはいられない。


「フィロ、きみの中には、魔――」


一瞬の浮遊感の後、右肩に重い衝撃が走った。

フィロの放った魔術に吹き飛ばされ、身体をしたたかに打ち付けたのだ。そう悟ったときにはもう遅く、フィロの突き出した右手には新たな炎が赤く燃え上がっている。


「やはり……そうか。…………バカな話だ。失ったものは……二度と戻ってはこない」


急いで身を起こそうとするアサレラへ、炎のように揺らぎ、それでいて冷酷な眼差しが注いだ。


「…………終わりだ。今度こそ」


アサレラの視界の端で、白いものがひらめいた。


「フィロ……! もういいんだ、もう、やめてくれ!」

「ロモロさ……!」


自身の手へ炎が燃え移るのにもかまわず、ロモロはフィロの手を握り続けた。


「オレは、これ以上おまえの手が汚れるのを見たくないのだ!」


そのとき、フィロの髪を覆っていた銀色の光が、ふっと消えた。


「……………………あ…………親父?」


冷えた風が吹き抜ける。あの炎が消えたことを、アサレラは目で見ずとも察知した。

辺りに漂うのはまっすぐにのぼる白い煙と、のしかかる重い沈黙だけだった。

ふいに、フィロの身体がふらりと傾いた。


「あ……フィロ!」

「だいじょうぶ。眠っているだけだ……」


息子を抱きとめたロモロが、慈愛とも疲労ともつかない微笑を浮かべた。

アサレラが言葉を探していると、青い陰りを帯びる光が天から降り注いだ。空を覆っていた雲が流れ、月が姿を現わしたのだ。

月の光に照らされるフィロの寝顔はひどく無防備で、なにもかも一夜の夢だったのではないか、という思いがアサレラの胸を去来した。

だが、無残な姿となって残された小聖堂と痛む右肩、そして脈動するように光を放ち続ける聖痕が、現実であることを如実に伝えていた。

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