第16話

 それは、突如として眼前に現れた。――ように見えた。

 白い雪の中に浮かんだ黒。

 まばたきをした次の瞬間、それは、ハーディたちの前にいた。

 背の高さは、ハーディとそう変わらない。にも関わらず、飲み込まれそうなくらい、ハーディは彼女を巨大に感じた。


 黒い、花嫁。


 それが常冬の女王を初めて見た、ハーディの率直な感想だった。

 そして、その黒の女王の足元には――。

「ミンディ!」

 叫んでハーディは駆け出した。女王の眼前に立つ。ベール越しにちらりとのぞく薄桃色の唇は、真一文字に結ばれている。固く引き結ばれたそれは、綻ぶということを永遠に知らないような気がした。――が。


『――お前』

 

 ハーディの期待を裏切って、彼女はあっさりその声を発した。少し高飛車にも感じる、高い、落ち着いた声だった。ハーディは昔絵本で読んだ、氷の女王さまを思い出した。

『お前は、この少女の知り合いですか?』

「え? ――ああ、はい」

 驚いたことに、女王はたおやかなその手でミンディを抱きあげた。

『では、どうぞ』

 拍子抜けするくらいあっさりと、彼女をハーディに手渡した。そして、女王は言う。

『もうすぐ彼女は望み通り、安らかな死を迎えるでしょう』

 ハーディの顔から一気に血の気が引く。

「それって、どういう……」


「レティア!」

 

 三人ははっとした。

 黒いベールに覆われた顔が、声のした方向を向く。

『バルバザン』

「ようやく会えたな! この悪女め!」

(まったく、なんてタイミングで!)

 ハーディは口早に言った。

「女王様、ぼく、訊きたいことが――」

「黙れ!」

「そっちこそ、ちょっと黙ってて!」

 バルバザン以上に大きな声で、ハーディが叫んだ。

 ダーティは思わず呆気にとられた。親友がこんな大声を出すところを見たのは、これが初めてだった。

 あがってしまった息を整えながら、ハーディは尋ねる。

「どうしてミンディに安らかな死を?」

『先ほども言いました。彼女がそれを望んだからです』

 ハーディは懸命に自分を抑えて、尋ねる。

「なぜ、ミンディが安らかな死を望んでいるとお考えになったのですか?」

 今度は返事が簡単に返ってこなかった。


『……だから、スクラップ・ブックを読んだのでは?』

 

 ややあって返ってきた返事には、ためらいがある。

 ハーディは、ふと思った。

(……ひょっとして、何か誤解があるんじゃ――)

 考えている暇はなかった。バルバザンが再びわめきだした。

「おれにはわかっているぞ、レティア!」

 勝ち誇ったように、彼はスクラップ・ブックを頭上に振りかざす。

「このスクラップ・ブック! これが、貴様の弱点だろう!」

 常冬の女王は答えない。彼女はすっとバルバザンの前に白い手を差し伸べて言った。

『スクラップ・ブックを』

「ふん。やはりな。アンナの言った通りだ!」

 勝ち誇ったように、バルバザンは言った。

『スクラップ・ブックを』

 女王の言葉には答えず、バルバザンは言った。

「貴様を滅ぼすには簡単だが、その前に聞いておきたいことがある」

『何でしょう』

「なぜ、おれとアンナが築いた国を、おれの民たちを滅ぼした?!」

 ハーディはわずかながらに、この王様を見直した。

 傲慢で、人を人とも思わない男だが、最低限、王としての責任感は持っているらしい。

「復讐のつもりか? そうか? そうなんだな!」

「……」

 やっぱり、思い込みは激しいようだが。

「まあ、落ち着いて」

 マックが常冬の女王とバルバザンの間に立つ。

 ダーティはちょっと、マックを見直した。

(やっぱ大人だな。こういうときは、頼りになる)

「バルバザン建国王、ちょっと落ち着いて――」

 マックの言葉を、常冬の女王が遮った。


『何のことでしょう?』


 やけになったような口調でもない。罪を感じている口調でもない。

 何を言われているかわからない――それを淡々と、こちらの神経を逆撫でするには十分な無関心さが表れた声で、女王は言った。

 マックの顔から血の気が引く。

 バルバザンは、激昂した。

「レティア、貴様!」

『国を滅ぼした? このわたくしが? 人々を幸福に導くべき、このわたくしが?』

「とぼけるな!」

 声が割れるほどに、バルバザンは叫んだ。まるで、悲鳴のような悲しい声だった。

「よくも……、よくも、おれとアンナの国を……。おれの民たちを……」

『――ああ』

 やっと思い出せた、そんな口調で女王は言った。

『もしかして、“夜明けの国”のことですか? そうか、お前とあの女があの国を作ったのでしたね』

「おれの愛した人を、あの女呼ばわりするな!」

 誰がどう見ても、バルバザンは無残な敗北者だった。そして、無情な勝利者は言う。

『わたくしは、わたくしの務めを果たしただけ。それが結果として国を滅ぼすことになったとて、それが何だと言うのでしょう?』

「お前には、心というものがないのか!」

 常冬の女王が首を傾げる。不思議そうに、彼女は言った。

『心? お前が心を言うのですか? レティアをあんな目に合わせたお前が?』

「あれは当然の罰だ! お前はおれの愛する人を! 人々が愛する国母の命を奪おうとしたんだぞ!」

 常冬の女王は、重ねて問う。

『では、あれは妥当な罰だったと? 土の中、体が朽ちようとも、骨になってもなお、夏の暑さに焼かれ、冬の寒さに凍え、死ぬこともできずに苦しんだ、あれが、妥当な罰だと?』

「ええ! それはやりすぎじゃ……」

 口を挟んだのはダーティだが、これには他の二人も賛成だった。

 ヒステリックに、バルバザンは叫ぶ。

「当たり前だ! この女一万人分の命より、アンナの命の方がずっと重い!」

 マックの顔が険しくなる。

 どうもこの男。史実でこれでもかというほど美辞麗句で讃えられているのとは違い、ずいぶん思いやりに欠けた男らしい。

 すっと、空気が冷えた。


『愚かなり。バルバザン』


 常冬の女王が纏う、空気が変わる。

 吹雪が、一重、また一重と辺りを取り巻いていく。

 常冬の女王が、雪のように白い指先を、すっとバルバザンに向けた。

『お前を裁くのは簡単。しかし、わたくしは仮にも“お父様”の娘。四大聖霊と呼ばれる身。我が心の赴くままにお前に罰を与えるのは、いささか不公平というもの。だから、お前にも弁解の余地を与えよう』

「おれを裁く? お前がか?」

 女王の手から、激しいブリザードが吹き荒れる。構える暇もなく、バルバザンは吹き飛ばされ、雪の上を転がった。

「ぐっ……」

『四大聖霊が一人、常冬の女王が問う。バルバザン。まずはお前が人々のために何を成したか、答えよ』

「おれは!」

 弾かれたように、バルバザンは顔を上げた。

「おれは、聖霊たちと人間を、互いの楔から解き放ち、自由にした! アンナとだ!」

『なるほど』

女王はゆっくりと言った。

 『それで、何が変わりましたか?』

「人間と聖霊は、互いに最良のパートナーを自分の意思で選べるようになった! 他ならぬ、自分の意思で、だ!」

『――それで、人々は幸せになれましたか?』

「なれたに決まっている! 事実、おれはお前の聖霊をやめて、清々したからな!」

『……なるほど』

 常冬の女王はうつむき、じっと考え込んでいるようだ。

 バルバザンが嘲るように笑った。

「どうした? あまりのことに、言葉も出ないか?」

 常冬の女王が、顔を上げた。

『――つまり、人間と聖霊の互いの自由選択。それがお前の成したことで、それによって聖霊と人間は互いに幸福になれたと?』

「そうだ!」


『――それは違います』

 

 刃のように鋭い言葉だった。

「……なに?」

『そもそも、お前は聖霊がどういうものか理解していますか?』

 高笑いが響いた。

「おれたちは、人間より高尚な存在! 人間を導くものだ!」

『違います』

 またも、否定。

 バルバザンの高笑いがやみ、笑顔が凍りついた。

『やはりわかっていない。お前はやはり、わかっていない。あと何千年たとうとも、やはりわからぬだろう』

 一手一手、白のキングは確実に追い詰められていく。

 半ばやけになったように、バルバザンは叫んだ。

「いいか、よく聞け!」

 半ばやけになったように、バルバザンは叫んだ。

「確かに、おれたちのしたことは、聖霊たちと人間の絆を断ち切ることになったかもしれない! だが、人間たちは、そこで初めて自分たちの足で立つということを知ったはずだ! 少なくとも、人間たちは救われた! おれたちは……、おれとアンナはまちがってない!」

『聖霊は人間のために尽くすもの。その言い分は一理ある。認めよう』

「なら……!」

『しかし、やはりお前はまちがっている』

 黒のクィーンは、白のキングを容赦なく、突き殺した。

『少なくとも、あの冬の飢饉で命を落としたあの少女が、一人ぼっちで死んでいくことを望んでいたとは、わたくしには思えません』

 バルバザンの顔が凍りつく。

『あの時、お前は何をしていましたか?』

「自然のことだ! おれたちには、どうしようもない!」

 バルバザンは叫んだ。

「仕方がない! みんな食えなかった!」

『それは言いわけです。あの女との永遠とやらに絵の中で酔いしれていたお前は、重税と飢饉にあえぐ民に何もしてやらなかった。容赦なく民を追い立てる王を諌めることも』

 バルバザンに指を突きつけ、女王は言う。

『あの少女は親に見捨てられて死んだ。そして、その親にそうさせたのは、あの女の末裔。あの少女を見捨てたのは、お前と、あの女に他なりません』

 ハーディは確信する。常冬の女王の天秤が、罪の方に傾き切ったことを。


『――愚かなり、ベルバザン』

 

 抑揚も、感情もない声で、女王は咎人の罪をつまびらかにしていく。

『お前は人々と聖霊に自由を与えたつもりになって、自らの同胞たちの存在意義を消し去った。人間から聖霊というよすがを取り上げた。――お前とあの女の、ひとりよがりな考えで』

「違う! それは違う!」

『お前には、昔から何も見えてはいない。あの女の本性も、その偽りも』

 初めて、女王の感情が動いた。怒りに満ち満ちた声で、女王は言った。

『お前のような愚かな聖霊がいるから“お父様”の悲しみが増すのだ』

「黙れえええ!」

(! いかん!)

 マックが、前に出る。

 ハーディは見た。

 レティア・モリガンのスクラップ・ブック。その表紙が不吉に波打つのを。

 そして、バルバザンの懐からハーディの売ったスクラップ・ブックが飛び出すのを。

 本が重なる。一つになる。黒い本が、青く輝いた。


『……愚かな』

 

 ハーディは感じた。肉体的に、ではない。心の底に忍び寄って、魂すら凍てつくような寒さを。「ハーディ!」、グラッセの力強い声、そして、肩をつかむ力強い手。


『次の刹那に乞う』


 常冬の女王は、詠唱を急がなかった。

『そして、あまねき広がりに乞う。永劫を望む者、疲れた者、明日を望まぬ者、我が懐に来たれ。冷たく白くしなやかな手が青い眠りを誘うだろう』

『護りの時に乞う! 命の火、我に味方せよ! 我の命をそびやかす者、何人たりともその侵入を許すな!』

 グラッセの詠唱が聴こえる。吹雪く雪で、何も見えない。

『穏やかなる氷神、とこしえの安らぎ』

『上がれ炎柱、築け炎壁!』

 二人の声が、重なった。


『蒼の眠り、ブルー・ピース』

『ファイア・ウォール!』


 次の瞬間、視界のホワイトアウトがさらに弾けた。爆発する、青の閃光。

「ハーディ!」

 親友の体が、懸命に自分をかばっている。それでも、殴るような風がハーディの顔に、体に吹きつける。音のない世界。その中で、ただ、風だけが。

 時間にすれば、ほんの一瞬だったのだろう。

 視界が晴れてきた。誰か立っている。

「マック……?」

問いかけは、すぐ別の言葉に変わった。

「グラッセ!」

 人に戻った彼の膝が、がくんと折れた。

 二人は急いで彼に駆け寄る。金色の髪の少年の顔には、まるで血の気がない。

 多分、防御魔術で魔力を使いすぎたのだろう。“さまよう者”にとって、魔力は血液にも等しいと聞いたことがある。

「……ハーディ」

 苦しそうに、彼は言った。

「なに?」

「召喚大全を、持っているかい?」

「持ってるけど」

「エリーを、召喚んで……」

 それだけ言うと、グラッセの体はみるみる縮んでいった。あっという間にウサギの姿に戻ってしまったグラッセは、ダーティの手の中でぐったりとしている。

 ダーティとハーディは互いに顔を見合わせる。

(エリーを召喚してって言われても……)

 前方を見る。マックは無事なのか。無事なら、エリーを召喚したときの言いわけを考えておかなければならないが。

雪煙が晴れてくる。


「あ!」


 二人は同時に大声をあげる。

 バルバザンとマックは、青い氷柱の中で凍りついていた。

 愕然とした顔のバルバザン。その彼に覆い被さっている、マック。

「マック! おい、マック!」

 氷漬けの二人は、ぴくりとも動かない。

「い、生きてるのかな……」

 誰にも答えようがないことを、思わず呟いてしまう。

 ダーティは手の中のグラッセに目をやった。彼は、ぐったりしたままだ。

 そして、ハーディの腕の中には、ミンディ。

 ハーディは凛とした声で言った。


「『ゼロ 黒を纏う者』」

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