第14話

 常冬の女王は、常に冷たい微睡の中にある。

 氷晶石――氷の魔力を帯びた石でできた玉座は白い煙をあげ、肘掛けは置かれた指先を冷やす。ここには、およそ温もりというものが存在しない。

 

 レティア・モリガン。

 

 そう呼ばれていた頃の自分を思い出すことは、もはや難しい。

 ただ一つ覚えていることと言えば、自分には愛されるという才能が絶対的に欠けていると常々考えていたことだ。

 愛されるにも、才能がいる。

 それが、レティア・モリガンという二十一才でその生涯を閉じた女の、人生の総論であった。

 微睡む女王は、いつもの通り振り返りを行う。

 レティア・モリガンであった頃を。あの男との出会いを。

 そして“お父様”と会った時を。

 まず、レティア・モリガンはどのような少女であったか。

 容姿は格別美しくもなく、醜くもなかった。ただ、恰好はいつも汚く、不潔だった。

 父はもともと、ある貴族の館の護衛兵士だった。若い兵士の御多分にもれず、女を買い、その女が身ごもった。その子がレティアだ。だが、レティアが物心ついたとき、すでに母の姿は家になく、片腕なくした父は毎日、飲んだくれていた。父の口癖はこうだった。

『あの女に、自分の子かどうかもわからねえガキを押しつけられた』

 幼い頃のレティアは、なかなかがんばり屋さんだったように思う。

 どれだけ掃除をしてもきれいにならない家を掃き、モップをかけ、摘んできた花を飾ってみた。醜く茶色く変色して、枯れるまで。

 処女を失った年は覚えていない。七才の頃には、酒代の代わりに、酒屋の親父が体にやたらベタベタ触れてくるようになったので、もしかしたら、そのときかもしれない。

 その頃、少女は一人だったか?

 いや、レティアは一人ではなかった。

 バルバザンという、生まれつき自分につき従う聖霊がいた。

 では、いたいけな少女が幸せを求め、その幼い智慧で懸命に生きている間、彼は何をしていたか? 彼女をいかなる方法で助けていたのか。

 

 ――何も。

 

 彼は何もしなかった。

 彼はレティアを常に蔑み、常に軽蔑していた。

 レティアはどうしたか?

 自分の義務を果たさない、この聖霊をぶっただろうか? 罵倒しただろうか?

 

 どちらもしなかった。

 

 バルバザンがレティアを嫌っていても、レティアはバルバザンが好きだった。

 彼に、自分を好きになってもらいたかった。大事にしてもらいたかった。多くの人間がそうであるように、聖霊と心通い合わせ、信頼を得たかった。

 

 強くなろう。

 

 決意を固めたやせっぽちの十二才の女の子に、軍は過酷な場所だった。そこで、レティアはいいようにおもちゃにされた。かわいいお人形ではない。おもちゃだ。

 大きくなる体に反比例して、幼いころから抱いていた希望は萎んでいった。

 まず、恋をあきらめた。おもちゃは人間ではないから。

 次に、結婚をあきらめた。レティアをお嫁さんに欲しがる人はいないから。

 レティアの顔から、徐々に笑顔が減っていった。

 すっかり笑顔を失ったころに、レティアに一つの転機が起きた。

『サイトウ アンナ』の降臨である。

 聖霊たちは、こう噂した。

 彼女こそ、自分たちを人間のおつきという鎖から解き放ってくれる、奇跡の存在だと。一番熱心なのは、もちろん、バルバザンだった。

 レティアには、彼女が運命の少女なのかはわからない。

 だが、異世界からやって来たという少女は、不思議な服を着ていて、不思議なことをたくさん知っていた。そして、彼女は言った。人は、聖霊は、もう“名も無き聖霊王”に縛られなくてよいのだと。みんなが自由に生きてよいのだと。

 そんな彼女を、みんなは崇め奉り、そして、愛した。

 レティアは考えた。


 ――自由。

 

 自由とは何だろう。

 聖霊にとって、自分が護りたい人間を選ぶことは、本当に自由なのだろうか。

 聖霊の導きなしに、人間はどうやってよい生き方を学ぶのだろう。

 しかし、レティアは考えるのをすぐにやめた。

『選択の自由による、人間と聖霊の真の平等と平和』

 みんながそれを夢見、実現に力を貸している以上、レティアもそうしなければならない気がした。そして、その夢の実現は、バルバザンとの永遠の別れを意味していた。バルバザンはあっさり自分のもとを去り、アンナの聖霊になり、国が建つと彼女の夫となった。

 レティアは何も得ることなく、一介の兵として職を得ることも許されず、やがて物乞いとなった。人々に簡単に足蹴にされ、犬のように追い払われる、苦労していた幼いころより、さらに惨めな生活だった。

 

 寒い冬だった。

 死は目前に迫っていた。

 

 レティアは、そのとき初めて人を憎んだ。

 自分を愛してくれなかった父、捨てた母。

 自分に、理由なき悪意をぶつけ続けたバルバザン。

 ゴミの中から拾った錆びついた刃を握りしめた彼女は、王宮深くへと入り込んだ。

 

 そこで――見てしまったのだ。


「――お前は!」

 焦る、というよりは鬼気迫る光妃の顔。そそくさと逃げ出す、若い男。

 ――そこから先のことは、よく覚えていない。

 部屋へ押しかけてきた兵たち。バルバザン。あれよあれよという間に、生き埋めにされて。不思議なことに、レティアの命はそこで終わらなかった。よくは覚えてないが、多分、終わらなかった。目は見えないのに、音は聞こえたし、痛みは感じた。


 ああ、お願いだから、土の上で跳ねないで!

 ああ、暑い。誰か、水をちょうだい!

 ああ、寒い! 誰か、毛布をかけてちょうだい……。


 土の上の人たちは、みな笑っていた。

 レティアが痛みでうめき声をあげるたびに、笑っていた。

 一日、一週間、一年……。

 まだ、終わらない。

 二年、三年……。

 まだ、まだ。

 雑草が根を伸ばすと、体中にそれが食い込んだ。

 虫が容赦なく、自分の骨をかじっていった。

 痛くてたまらないのに、動くことはおろか、身を捩ることさえできなかった。

 十年、二十年、三十年。

 まだ、まだ、まだ、まだ!

 それは、唐突に訪れた。

 レティアは今までにない、激しい痛みを全身に感じた。


 痛い、痛い、痛い、痛い‼


 ――気がつけば、痛みは止んでいた。

 いつの間にか、レティアは裸で冷たい雪の上に座り込んでいた。

 埋められたときと同じく、地上は冬だった。

 抱いていた復讐心は、とうに消えていた。

 空を見上げれば、降ってくる雪、雪、雪。

 残酷なほどの白に、レティアは夢を見る。

 この白に埋もれ、冷たい死に染まりゆく自分を。

 そして、思う。

 本当はわかっていた。

 自分は一生幸せになれないと。誰にも愛されないと。だから――。

 自分はいつだって、安らかに、そして、速やかに死んでいきたかったのだということを。

 レティアは、真っ白な雪の上にゆっくりと倒れて行った。

 絶え間なく降り積もる雪は柔らかい。そして、温かい。


 ――ああ。



 レティアの唇に笑みが浮かんだ。

 右の頬に霜が張る。唇がみるみるその色を失っていく。レティアの全身を、青い死がしずしずと、しかし驚くほどの速さで覆っていく。そのとき、レティアの腕をぐいと引くものがあった。

 

 死は狡猾で、臆病だ。

 

 すべての生き物を生からこちらに引き寄せようとするくせに、生があわてて駆け戻ってくるやいなや、さっと手を引く。まるで、いたずらをした猫が、そのいたずらをごまかすかのように。

 ――そして、彼はやって来た。



 常冬の女王は、ふと、まぶたを開けた。

 懐かしい気配がする。近づいてくる。それも、二つも。

 常冬の女王は立ち上がり、玉座を後にした。


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