異世界 三

 昔、自宅の風呂場で倒れたことがあった。熱いお湯に浸かったあと、湯船から出たところでバタンと倒れた。そのときと同じような感覚があった。体感的には一瞬で、ただ、実際には数分ほど時間が経っている感じ。人生のレア体験。


 湯上がりに母親へ伝えても、信じてもらえなかったけれども。


 今にして思えば、子は親の認知の外で色々経験しているんだなぁ、とか。


「姫様、姫様、人間が目を覚ましましたぞ」


「本当ですかっ!?」


 瞼の先に薄ぼんやりと白いものを感じた。


 目を開くとそれが明りだと気付いた。


「人間、怪我の具合は如何ですか?」


 どうやらベッドに寝かされているようだった。


 上半身を起こして周りの様子を確認する。


 するとベッド脇に角の生えた女の子がいた。


 トカゲたちにお姫様と呼ばれていた彼女である。腰下まで届くブロンドが特徴的な女の子だ。パッと見た感じ年齢は小学生くらい。目鼻立ちのしっかりとした顔立ちは、可愛らしさのなかにも芯の強さを感じる。


「痛むところはありますか?」


 問われて気付いた、お腹が痛いの治ってるじゃん。


 手でさわさわしても全然痛くない。


「私はこの城の主、コージマ・トリスメギストスです」


「あ、はい、自分は佐藤浩二っていいます」


 なんて今更な自己紹介。


 倒れる前までは武装したトカゲたちの存在や、予期せぬ騒動も手伝い、こちらも一杯一杯だった。名乗っている余裕なんてなかったよ。同時にこうして改めて眺めてみると、相手がとても可愛らしい女児であると気付いた。


「先程は身を挺してまで助けて下さり、ありがとうございました」


「いえ、お、お構いなく……」


「窮地を助けられたのです、まさか構わずにはいられません」


 少女の傍らには依然としてトカゲの化け物が付き添っている。


 下手に喋ったらまた槍を突きつけられそうで怖い。


 自ずと口数も少なくなるというもの。


「貴方に庇われていなければ、私は朽ちていたと聞きます」


「そうなんですか?」


「この身を助けて下さり、本当にありがとうございました」


 女の子は深々と頭を下げて、それはもう丁寧にお礼をしてくれた。


 こんな丁寧にお辞儀を受けたのは、生まれて初めてかもしれない。他人に感謝された経験が少ない身の上、どうして返事をしたものか躊躇してしまう。相手が可愛らしい女の子ともなれば尚のこと。


 すると彼女に追従して、野太い声が届けられた。


「人間よ、私からも礼を言わせてもらいたい」


「え?」


 声の聞こえてきた方に意識を向ける。


 お姫様の右斜め後ろに立ち控える形で、トカゲの化け物からのお言葉だ。どちらの個体であるか判別はつかない。ただ、鎧兜を身にまとい槍を手にした姿は、広間で見た彼らの一人と思われた。


 しかも、語る調子は一変して穏やかなもの。


「姫様を救って頂き、我ら国の民も非常に感謝している」


 また、部屋にはそうして語るトカゲの他に、白衣姿の猿人を思わせる化け物の姿も見受けられる。こちらはベッドの上で目覚めた当初、お姫様を呼び寄せるように声を上げていた人物でもある。


「いえ、それはどうも……」


「お前に対する失礼な態度を許し願いたい。このとおりだ」


 身の丈三メートル近い巨漢に頭を下げられて内心慌てる。


 お姫様に言われて嫌々と、みたいな雰囲気は感じられない。広間で見た彼らよりもだいぶ温和に思えた。しかしやはり、図体が図体なだけあって威圧感は拭えない。身動きに応じて金属製の鎧がガチャガチャと音を立てる様子も迫力だ。


「矢には上等な竜殺しの呪薬が塗られておった。成竜前の姫様があれを身に受けては、きっと無事では済まなかったじゃろう。姫様の健康を預かる儂としても、ぜひ礼を申し上げたく思う」


「竜殺し?」


「よくぞ姫様を助けてくれた」


「あ、はい……」


 白衣の猿人までもが頭を下げてみせた。


 痛い思いをした甲斐があったと感じる一方で、あまりにも畏まられて居心地が悪くも感じる。自身の拙い社会経験では、どうして応じたものか分からない。せいぜい頭を上げて下さいとお願いするくらいだろうか。


 しばらくして、お姫様からお返事があった。


「不敬かとは思いますが、これで私は貴方の存在を自分の中で確実なものとして位置づけることができました。人間、やはり貴方は私が知る人間とは、また異なる世界の人間なのでしょう」


「私も初めは人間が我々の盾となるなど、自分の目が信じられなかった。しかし、これで先の姫様の言葉にも納得がいく。お前は我々が知るこの世界とは、また別の世界からやって来た人間なのだな」


「そうですか……?」


「私は貴方に助けられて、それを強く理解することができました」


 何やら語りだした少女とトカゲの人。


 とりあえず話題を他に移して対応しよう。


「あの、ところで自分の怪我って、どうなったんでしょうか?」


 矢はかなり深く刺さっていた。これはもしかしたら助からないかもな、とかなんとか素人目にも感じられた。けれど、こうして起き上がった感じ全然痛くない。シャツを捲っても傷跡さえ見つけられない。


 彼女たちが治療してくれたのだろうとは想像がつく。


 しかし、あまりにも完璧すぎて逆に怖い。


「おぬしの怪我は、シルフやウンディーネ、エルフたちの魔法で治療を行った。幸い召喚の儀に備えて、近くに控えの者たちがおったので、大事には至らずにすんだのじゃ。見ての通り跡も残ってないじゃろう?」


「魔法?」


「この城でも指折りの術者が治療に当たったからのう。病後も具合はだいぶいいじゃろう? 今のように擦って痛みがないようなら、もう普通に動いても構わん。中身もちゃんと治っているはずじゃ」


 猿人は妙に人懐っこい笑みを浮かべて答えた。


 柔和な性格を感じさせる面持ちである。


「魔力に関して言うなれば、我々は人間に大きく勝るからのぉ」


 生憎、その魔法や魔力という単語に混乱しております。けれど、ちゃんと治療してくれたのだということは理解できた。痛みが全くないのだから、きっと嘘は言っていないだろう。まずはその点に安堵を覚えた。


「城内に忍び込んだ敵についても、皆の努力によって無事に打ち倒すことができました。勿論、召喚の儀に利用していた姿見も無事です。今度は確実に元の世界へ帰れることをお約束します」


「あ、それはどうもです」


 お姫様の言ったこと、めっちゃ心配していた。


 姿見が割れてたらどうしようって。


「本来ならば、感謝の意を込めて宴を開きたく思います」


「え?」


「ですが昨今の我々には、それだけの余裕がありません。そこで代わりといっては不躾かもしれませんが、こちらを貴方に贈りたく考えています。どうか受け取ってはもらませんか?」


 言葉と共にお姫様の腕が動いた。


 ベッド脇に設けられたサイドデスクの卓上から、何やら岩にガラス片がびっしりとこびり付いたような物体を抱き上げる。そして、こちらに向かいズズイと差し出してきた。彼女の両手で一抱えほどの代物だ。


 視界の隅にあったそれは、てっきり置物か何かだと思っていた。


「あの、なんですか? これ」


「人間たちの間ではダイヤモンドと呼ばれている宝石の原石です」


「え……」


「渦中においてはどのような宝も食料に勝りません。この城には残る蓄えは侘しく、また町の周囲は人間の軍によって囲われています。このような形での謝礼となってしまい申し訳ありませんが、どうか収めて頂けませんか?」


「いえいえいえ、そんな大層なもの頂けませんっ……!」


「これでは足りませんか?」


「むしろ十分です! お腹いっぱいです!」


「では受け取って下さい」


「…………」


 有無を言わさぬ先方の面持ちに観念して、両腕を差し出す。


 それは想像した以上にずっしりと重たくて、あわやシーツの上に取り落としそうになった。とてもじゃないけれど持っていられない。まるでお米の詰まった袋でも抱えているような気分である。


「あの、シーツの上に置いてもいいですか?」


「はい、構いません」


「……すみません」


 いきなりダイヤだと言われてもしっくりとこない。見た感じ博物館のお土産コーナーで売られている、巨大な水晶の原石のようだ。自宅に持ち帰ったところで、誰もこれがダイヤだとは信じないだろう。


「でも、本当にいいんですか?」


「姫様はこの国を率いて下さる古竜にあらせられる。その命を身を挺して救ったのだから、謝礼としては当然だろう。姫様の御身に代えられるものなど、この世を幾ら探しても存在しないのだからな」


「このまま宝物庫に眠らせておいたところで、いずれは攻め入ってきた人間たちに奪われてしまうことでしょう。それなら貴方に役立ててもらった方が、我々としても気持ちよく過ごすことができます」


「そういうことなら、あの、どうもです」


「はい、そう言ってもらえると私も嬉しいです」


 正直に言うと、もらったところで対応に困る。


 こんな大きなダイヤ、どうして扱ったものだろうか。


 けれど、突っ返せるような雰囲気でもない。


 致し方なく持ち帰ることを決めた。


 そうこうしていると、部屋の外から声が聞こえてきた。


「姫様ぁ、姫様ぁ! 大変でございますっ!」


 直後にバンと大きな音を立てて、部屋のドアが開かれる。


 筋骨隆々の化け物が部屋に入ってきた。


 五メートル近い大男だ。隆起した筋肉はボディービルダーさながら。肩幅も身の丈に相応に幅広なもの。また、その手には成人男性よりも大きな、ビッグサイズの斧が握られている。すぐ近くに立ったトカゲの人が可愛く思えるぞ。


「大変です姫様! 城の食料庫に火をつけられましたっ!」


 耳が痛いほどの声量で筋肉お化けが吼えた。


 図体が大きい分だけ、声も大きいように思われる。


「なんと、それは本当ですかっ!?」


「居合わせた者たちで、現在も消化にあたってはいるのですが、既に半分が灰となっております! 加えまして、なにぶん燃えやすいものが多い場所ですから、鎮火にはしばらく時間がかかりそうです」


 お姫様はこの世の終わりを見たかのように愕然と呟いた。


 つい今し方までの穏やかに思えた雰囲気が嘘のようだ。


「……忍び込んだ人間は処分したのですか?」


「はい、それは問題ありません」


「そうですか……ですが、食料庫が失われたとなるとこれは……」


「姫様……」


 肩を落とした少女を慰めるように、トカゲの人が声も小さく呟いた。


 どうやらかなり深刻な問題らしい。


「このままでは篭城することも叶いませんね……」


「ともかく人を集めて消火を急ぎましょう」


 トカゲの人が慌てた様子で部屋の外へと駆け出していく。


「自分もお手伝い致しますっ!」


 その後をすぐに筋肉お化けも追った。ズシンズシンとその巨体に似合わぬ俊敏な動きで医務室を後にする。二人はすぐに建物の影に隠れて見えなくなった。部屋に残されたのは自分と猿人、そして、意気消沈したお姫様である。


「…………」


 彼女は視線を床に落として、ただ、呆然としていた。


 気を滅入らせているのは猿人も同様だ。


 二人とも何を言うでもなく黙って俯いている。


 一方で部屋の外からは、喧騒の広がる気配が感じられた。こうして室内にいても、外で飛び交う怒声が鮮明に聞こえてくる。食料庫の火災を受けて、この城の人たちが右往左往しているのだろう。


「あのぉ……」


「人間、貴方を面倒に巻き込んでしまいすみませんでした」


「いえ、自分は大丈夫ですんで」


「これから城は慌ただしくなります。貴方が人間ということで、無条件に敵意を向ける者たちも出てくることでしょう。なので今すぐにでも、鏡を通じて自身の世界に戻るべきだと思います」


 自身が寝かされていた医務室にはドアが二つある。


 一つは今しがたにも開かれた廊下に通じるドア。


 それとは別のもう一つを指し示してお姫様は言った。


「姿見はこちらの部屋に用意してあります」


「あ、はい……」


 少女の指示に従いベッドから起き上がる。


 両手にダイヤの原石だという鉱物を抱えての移動。


 部屋を移るとすぐに、目当ての姿見は見つかった。


 通された一室の中央に設けられていた。


「見送りが少なくて申し訳ありませんが、どうか許してください」


「いえ、とんでもない」


 受け答えをするお姫様の姿は弱々しい。


 まるで床に伏した病人のようだ。


「そ、それじゃあ自分はこれで……」


「はい、どうもありがとうございました」


 恭しく頭を下げてくれた少女と猿人。


 二人に軽く会釈をして、姿見の鏡面に身体を触れさせる。


 シャツの生地が鏡面へゆるりと吸い込まれる感覚。


 次の瞬間には視界が暗転する。


 目の前が真っ暗になった。


 それと同時に足元に浮遊感が訪れる。


 今度は転ばないようにと足腰を踏ん張らせる。両手に重量のある荷物を持っているので、めっちゃ緊張する。絶対に体勢を崩さないようにと、立つべき地面が分からぬまま、必死に身を直立させようと意識する。


「っ……」


 すると数秒の後、足の裏に固い感触が戻った。


 エレベータが指定階に辿り着いたときの感覚を数倍にしたような、問答無用で全身のぐらつく感覚に危うく倒れそうになった。けれど今回は、なんとか踏ん張って持ちこたえることができた。


 そして、気づけばいつの間にやら屋根裏部屋に立っている。


 僅か数秒の出来事だった。


「…………」


 息を吸い込むと、鼻と口から埃っぽい空気が入ってきた。


 どう見ても我が家の屋根裏部屋である。


 寝ぼけていたんじゃないか、なんて思わないでもない。


「……お土産、めっちゃ重いな」


 ただ、両手にはたしかに巨大なダイヤの原石が抱かれていた。

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