人生でいちばん美味しいおでん

天照てんてる

人生でいちばん美味しいおでん

 私には、そろそろ結婚を考えている彼がいる。けれど、最近は些細なことからくだらない喧嘩ばかりで、結婚してもいいものかと悩んでしまうような仲になっている。


 とある水曜日。仕事が休みになった私が有給休暇を取った彼の家に遊びに行くと、彼の姿がなかった。


――また競馬か。私は誰もいない彼の部屋で大きくため息をつく。


 付き合い始めの頃、興味を持ったふりをして付き合った競馬のことを思い出す。たしか東京大賞典とかいう大きなレースのある日で、私はキキという名前の馬の馬券を買って、当てた。それ以外に競馬のことはほとんど覚えていない。


 彼が馬券を当てた日は、よく安い居酒屋に飲みに行く。その店のお客さんは皆競馬が大好きなようで、私は異国に迷い込んだような気分になりながら、安くて美味しい料理を食べる。そんな日々のことは、嫌いではなかった。




 ***




 興味がないなりに、彼の言うことはよく覚えている。――好きなひとの言葉は、一字一句覚えていたいから。もちろん、無理だけれど。

 たしか、水曜日には大きなレースがあるのだ。

 だから今日彼は有給休暇を取っていて、家にいないのだ。


 そこまで察した私は、いつ帰ってくるともしれない彼の帰りを待ちながら、部屋の片付けや放り出してある衣類の洗濯、いつから溜め込んでいるのかわからない食器洗いなどに興じていた。




 ***




 21時を回った頃、酔っ払った彼が帰ってきた。どうやら馬券を当てたらしく、ひとりで飲んで帰ってきたようだった。

 私は『ひとりで飲んできた』ことに対して腹を立て、「どうして私を呼ばないの!?」と喧嘩をふっかけて、またくだらない口喧嘩を始めてしまった。


 ……1時間ほど言い争いを続けただろうか。酔っ払った彼の言い分に呆れ果てて言葉を失ってしまった私は、今日は帰ると言って、彼の家を出た。




 ***




 終電までにはまだ時間があった。仲直りしたいという気持ちもあった。

 自宅に帰るべきか、それとも彼にしぶしぶ謝罪して彼の家に戻るべきか。


 そんなことを考えながら、私は橋の上にぼーっと立っていた。


 すると、明らかに酔っ払った様子の見知らぬおじさまが声をかけてきた。


「お姉ちゃんどうしたの?」


 面倒だな、とは思ったが、気紛れを起こして私はおじさまの言葉に応じた。


「……彼と喧嘩しちゃって。帰りづらくて」

「なるほどね。お姉ちゃん、お酒は飲める?」

「えっ……はい、大好きです」

「ついておいで」


 なんだ、ナンパか、と私は思った。だが、彼と喧嘩中だし、タダ酒が飲めて愚痴が言えるならいいか、という気持ちでおじさまについていった。




 ***




 おじさまに案内された先は、お酒の種類が豊富なコンビニだった。おじさまは私に「好きなお酒を好きなだけ持っておいで」と言った。てっきり外で宴会でもするのかと思った私は、缶チューハイを3本とワンカップ酒を1本持ってレジへと向かった。


 レジに着くとおじさまはおでんを注文している最中だった。まさか、外でおでんを食べながら宴会をする気なのだろうか。少し不安になりながらもおじさまに会計を済ませてもらい、私とおじさまはコンビニを出た。




 ***




 コンビニを出たあと、おじさまはお酒の入った袋とおでんの入った袋を私に手渡し、言った。


「これ持って行って、彼と仲直りしなさい?」


 おじさまの優しい声を聞いた私は泣きそうになったが我慢して、お礼を言った。


「ありがとうございます。いつかお礼をしたいのでお名前を――」

「いいよ、このあたりでまた見かけたら声かけるからさ。じゃあね、気を付けて」

「えっ……あの、本当にありがとうございました!!」


 おじさまの後ろ姿は、どんどん遠ざかっていった。




 ***




 彼の家に戻り、ありのままを話した。

 彼は、おじさまはきっと今日のレースで万馬券を取ったんだろうと言い、ろくすっぽ相手にしてくれなかった。


 だが、私は今までの人生でいちばん美味しいおでんの味に酔いしれた――。

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