第4話 追憶
光と再会してから10日が過ぎた。連絡しようかどうしようかと悩んでいるうちに、あっという間に時間が過ぎていく。
光が自販機の点検や補充に来る日なんてもちろん知らないし、社内で顔を合わせることもなかった。
昨日の昼休みに廊下で門倉と顔を合わせた時、まだ連絡していないのかと聞かれ、していないと答えると、早いとこ腹くくれよと言われた。
言うのは簡単だけど、それには勇気がいる。思いきって電話してみようと名刺を用意しても、スマホを握りしめたままあきらめたことも何度かあった。
このままなかったことにしてしまおうか。どうせ光は私の今の携帯電話の番号を知らないし、社内で顔を合わせないようにすれば今までとなんの変化もない。逃げてるみたいでちょっと情けないけれど、そうするのが一番いいような気がする。
うん、そうしよう。
光とは会わないことに決めて、名刺を引き出しの中にしまい込んだ。
昼休みが終わる10分前、門倉がコーヒーを配達に来た。
「篠宮課長ー、コーヒーお持ちしましたー」
頼んでもいないのに、どんな風の吹き回しなんだろう?差し出されたカップをおそるおそる受け取る。
「法外な料金取ったりしない?」
「コーヒーはおごってやるから今日は晩飯付き合え」
「それは別にいいけど……」
わざわざそれを言うためにコーヒー持ってきたの?何か企んでるとか?
とりあえずコーヒーは飲みたいと思ってたからいただいておこう。
7時過ぎに仕事を終えて門倉にメールを送ると、終わるまでもう少し時間がかかりそうだからいつもの居酒屋に先に行っててくれと返信があった。
先に行ってろなんて珍しい。
お腹も空いているし、先に行って何か軽くつまみながらビールでも飲んで待つことにした。
いつもの居酒屋で席に案内され、生ビールとスモークサーモンのサラダと鶏の唐揚げを注文した。
タバコに火をつけて間もなくビールが運ばれて来て、お通しの枝豆を食べながらビールを飲んだ。一人で居酒屋に来ることなんて滅多にないけど、これはこれで悪くないな。
昔は居酒屋どころかファーストフード店でさえ一人では入れなかった。いつも誰かと一緒で、どうでもいいことを長々と話し込んでいた。
光と付き合っている時もファミレスやファーストフード店で遅くまで長居したっけ。次の日もまた会えるのに離れがたくて、そろそろ帰ろうかと言いながらなかなか席を立つことが出来なかった。
若かったな。あの頃は光と一緒にいることが私にとってのすべてだった。
だから結婚したはずなのに、一緒に暮らしていることで安心してしまったのか、仕事に打ち込むようになってからは二人の時間をあまり大事にしなかったように思う。
結婚しても本当の意味では夫婦になれなかった。
大事なのは形じゃなくお互いの気持ちだったんだ。こんなこと、今になって気付いても遅すぎる。
小さくため息をついてタバコに口をつけた。
門倉が言うように、私も光のことはもう終わらせるべきなんだと思う。それなのにふとした瞬間にまだ光を思い出して懐かしんでしまうのはどうしてだろう?
まさかまだ光のことが好きだとか?……いやいや、それはない。それはないはずだけど。
私も光もお互いが初めてまともに付き合った人だった。それ以前にもちょっとした付き合いはあったけど、一緒に下校したりグループで遊びに行ったりする程度で、本気で好きになって男女の関係になったのはお互い初めてだった。
何もかもが初めての相手だから余計に忘れられないのかな?
私は光と別れてから誰とも付き合っていない。
思いきって新たな恋に踏み出してみる?……と言ってもそんな相手はいないから、ヘタしたら光が私の最初で最後の人になるのかも。まだ32歳なのにそれではあまりにも寂しい気がする。
恋ってどうやってするんだっけ?そんなことさえ忘れてしまった。
ビールを飲みながら、光との恋の始まりはどんな感じだったかなと考える。
……どんな?
一目見てビビッと来た!とか?この人こそ運命の人だと思った!とか?
いや、そんなんじゃなかったな。
初めて会ったのは大学のサークルだったし、知り合ってすぐに付き合い出したわけでもない。サークル仲間と一緒に過ごして行くなかでなんとなく気になり始めて、お互いを意識するようになった。
初めて二人だけで会ったのは知り合ってから2年近く経ってからだった。
サークル仲間と一緒に観たい映画があると話した後、帰り際に呼び止められて『今度の土曜日、二人で観に行かない?』と誘われた。それからサークル以外のことで連絡を取り合うようになり、二人で出掛ける機会が増えて気が付けば隣にいたとか、そんな感じ。
好きだとか付き合おうとかハッキリした言葉もなく二人でいることが2か月ほど続くと、なんとなくモヤッとし始めた。
私と光は付き合ってると言ってもいいのかな、とか。彼氏いるの?って誰かに聞かれた時はどう答えればいいのかな、とか。
その頃には私は光のことを好きになっていたから、光もそう思ってくれているのか、もしかしたらただの気の合う女友達くらいにしか思われてなかったりして……と不安だったけれど、ハッキリと聞く勇気がなかった。
そんなある日、サークルでOBの先輩を数人交えた飲み会が開かれた。
私の隣に座ったその先輩はお酒が入るとやけに馴れ馴れしく距離を詰めてきて、程よく酔いが回ると次第に口説き文句を連発し始めた。だけど先輩だからあまり無下にはできないし、席を立つこともできず愛想笑いを浮かべて耐えていた。
『瑞希ちゃんかわいいね。マジで俺と付き合おうよ』
先輩がそう言って私の肩を強引に抱き寄せた時、突然光がすごい勢いで立ち上がり、先輩から私を奪うようにして抱き寄せた。
『触らないでください!!瑞希は俺の大事な彼女ですから!』
光はそう捨て台詞を残し、私の手を引いて店を飛び出した。好きだとか付き合おうとかなんにも言わなかったくせに、勝手に彼女にされてることには驚いたけど、やっとハッキリ『彼女』だと言ってくれたことが嬉しかった。
その後、ちゃんと言ってくれたっけ。
『瑞希が好きなんだ。俺の彼女になって下さい』
あの時の少し緊張した真剣な光の顔を今でも覚えている。
嬉しくて何も言えず黙ってうなずいた私を、光はおずおずとぎこちない手付きで抱きしめた。照れくさくてくすぐったくて、でも温かくて嬉しくて、お互いが同じ気持ちだとわかっただけで舞い上がるような気持ちだった。
初々しかったな、二人とも。帰り道で、ものすごくドキドキしながら手を繋いだ。
それから少しずつお互いを知って距離を縮めた。何もかもが初めてで、ゆっくり時間をかけて触れ合うことを覚えて、目の前のハードルをひとつずつ二人で乗り越えて行くような、そんな感じだった。
ずっと手を繋いで二人で歩いて行けると信じていたのに、気付かないうちに別々の道を歩いていて、振り返った時にはもうお互いの姿は見えなくなっていた。
あんなに愛し合っていたはずなのに、ずっと一緒にいようと何度も約束したはずなのに、いつの間に私たちは手を離してしまったんだろう?
ビールのおかわりを頼んでタバコに火をつけた。
それにしても遅いな、門倉のやつ。晩飯付き合えって言ったのは門倉なのに。
ここに来てからもう1時間近く経っている。頼んでいた料理もほとんど食べてしまったし、ビールのおかわりを飲み終わる頃までに来なかったら帰ることにしよう。
店員からビールのおかわりを受け取り、タバコに口をつけた。流れていく煙を眺めながらタバコを片手にビールを飲んでいると、店の引き戸が開いて新しい客が入ってくるのが視界の端に映った。
門倉かな?そう思って入り口の方に顔を向けた。
店の外の暖簾をくぐって入ってくる人の顔を見た瞬間、口に含んでいたビールを吹き出しそうになり、絶句して口元を拭った。
なんで光がここに?誰かとの待ち合わせ?
光は店の入り口でキョロキョロと店内を見回している。気付かれないように慌てて下を向いた。
どうか私に気付きませんように。その祈りも虚しく、光は私の席に近付いてきて正面に立った。
「瑞希、ここ座っていい?」
いやいや、そこは門倉が座る席だから!
「あの……人と待ち合わせしてるから……」
絞り出すようにそう答えると、光は勝手に椅子に座った。待ち合わせしてるからって言ったのに!
「門倉さん……だよね?」
「えっ……なんで……?」
「俺が頼んだんだ。瑞希に会わせて欲しいって。連絡してって名刺渡しても全然連絡くれなかったから」
「えぇっ……」
そんなの聞いてない!!
門倉め、いつの間に光と連絡先の交換なんて……!
光が右手を挙げて店員を呼び止めると同時に、ジャケットのポケットの中でスマホが鳴った。画面には門倉からの着信が表示されている。
「ごめん……ちょっと電話……」
「ああ、うん」
急いで席を立ち店の外へ飛び出して電話に出た。
「ちょっと門倉!!どういうこと?!」
「おぉ、元旦那と無事に再会できたか」
電話の向こうで門倉はのんきに笑っている。
「無事にじゃないよ!なんでこんな勝手なことするの?!私、会いたいなんて一言も言ってない!!」
「だからだよ。このままだと篠宮は一生逃げ続けるんだろ?」
うっ……図星だ……。
「……そんなことない」
「嘘つけ」
「ちゃんと連絡するつもりだった」
「だったら手間が省けてちょうどいいじゃん。いつまでも四の五の言ってないで、いい加減腹くくれよ」
腹くくれって言われても、まずは心の準備ってもんがあるでしょうが!
「門倉が晩飯付き合えって言ったから待ってたのに……騙された」
「俺じゃなくてあいつの晩飯に付き合えって俺は言ったつもり」
「そんなの聞いてないってば!」
「往生際悪いな。とにかく覚悟決めて腹わって話せ」
この間までは一緒に禊をしていたはずなのに、自分が元妻とのことを吹っ切れた途端、なんで急にこんな試練を与えるの?
私だけがどんどん取り残されて一人になってしまいそうで、急に不安になる。
「……私は門倉ほど強くない」
不安な気持ちが思わず口からこぼれ落ちた。
オイルライターの蓋を開け閉めする金属音が微かに耳に響いた。
「しょうがないな。どうしても無理なら呼べよ。すぐに駆け付けるから」
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