第3話 葛藤

 あれから1週間が過ぎた。

 部下たちは今日も張り切って仕事に励んでいる。

 活気溢れる職場はいいものだ。なんとなく沈みがちな私の気分まで引き上げてくれそうな気がする。


 昨日、残業を終えて早川さんと一緒に駅に向かって歩いた。

 駅が見えてきた時、珍しく早川さんから食事に誘われて二人で駅前のダイニングバーに入った。グラスワインを飲みながら食事をしていると早川さんがため息をついた。


「彼とお互いをわかり合うのは難しいかも知れません」


 そう言って早川さんはグラスのワインを飲み干した。


 早川さんの話によると、二課の飲み会の後の休日に婚約者の彼と話し合ったそうだ。

 結婚後も今の仕事を続けると彼女が言うと、仕事をするにしても今より拘束時間の短い仕事を自宅の近くでしてくれと彼は言ったらしい。今の仕事が好きだからどうしても続けたいと早川さんが言うと、彼はため息をついて首を横に振った。


『残業や休日出勤の多い今の職場では仕事と家庭を両立させるなんて無理だろう』


 将来子どもができたら仕事より子どもを優先できるのかとか、親戚付き合いの多い彼の家では嫁が仕事を理由に付き合いを断ることは許されないとか、かなり具体的な話が飛び出したそうだ。

『結婚は当人同士ではなく家同士のものだ』という考えを浮き彫りにされ、それがあまりにも現実的過ぎてそんな未来を想像すると胃が痛くなったと早川さんは言った。


「彼の家はかなり封建的な考え方をするみたいで、嫁は働いて当たり前だけど何よりも優先すべきは家なんだそうです。夫や子どものために嫁は自分を犠牲にするものだって」


 結婚してから相手の家の考え方に辟易するなんて、世間ではよくある話だ。

 男女平等と言いながら、ちっとも平等じゃない。結婚すると女は、家のために働き夫に尽くして当たり前の『嫁』という生き物になるとでも思われているのだろう。


「こんなことを聞いていいのかわからないんですけど……篠宮課長は家同士の考え方の違いでもめたりはしなかったんですか?」

「私?そうだねぇ……」


 私の家も光の家も両親ともにあまり濃い親戚付き合いはなく、元々二人とも大学を卒業したら実家を出て一人暮らしをする予定だったから、結婚すると言っても反対はされなかった。一人暮らしよりその方が安心だとか、二人の方が経済的だとさえ言っていた。

 仕事に関しても新入社員の給料では共働きじゃないと生活していけないから、家庭に入れとかパートに出ろなんてことは一度も言われなかった。


「大学卒業してすぐ結婚したからね。決まった就職先に勤めるのが当たり前だと私たちも両親も思ってたよ。両家とも濃い親戚付き合いはなかったし、仕事とか親戚付き合いに関してはもめなかった」

「うらやましい……。家によって考え方がまったく違うんですね」


 あちらの親ともめたことは一度もなかったけど、当人同士の問題でたった5年で離婚した。

 それだけだ。


「私は彼のことが好きだから結婚しようって思ったんです。彼の家と結婚したいわけじゃないのに……」

「じゃあ結婚するのやめる?早川さんのこと大事にしてくれて仕事に理解を示してくれる人は、きっと他にいると思うよ」


 少々意地悪な言い方をした。もちろんわざとだ。

 このまま納得できない考え方をすべて飲み込んで結婚したって、早川さんはきっと幸せにはなれないだろう。

 何年か経って子どもができて、家事と育児に追われながら家計を支えるために選んだ仕事をして。

 家庭を持つ幸せをそこに見出だせるのなら、今の仕事を辞めて彼の家に嫁ぐのは間違いじゃないと思う。それもきっと女性にとっての幸せには違いない。だけど早川さん自身が今の仕事を辞めることや相手の家の考え方に納得して嫁がないと、きっとこの先ずっと後悔してつらい思いをするだろう。


 早川さんは黙って何かを考えている。

 私だって上司として早川さんには仕事を続けて欲しい。けれど女性としては、相手が誰であれ彼女に幸せな結婚をして欲しい。


「篠宮課長……結婚って甘くないですね。私は結婚に対する考えが甘かったみたいです」

「そんなもんでしょ。初めての経験なんだから、始まってみないとわからないことはいっぱいあるよ。私たちはもっと甘かったからね」


 光と肩を寄せ合って結婚情報紙をめくりながら式場を選んだことや、結婚式前の衣装合わせでウェディングドレスを初めて着た時に二人とも感極まって泣きそうになったことを思い出した。その先には二人で歩く明るい道が続いていると信じてやまなかった。

 若かったな、二人とも。

 一緒にいられたらそれだけで幸せだったんだ。それ以上の幸せなんてないって思ってたはずなのにな。


「離婚した私の意見なんて参考にはならないかも知れないけどね。二人が同じ方向を見てるうちは、いろいろわからないなりに頑張ってうまくやってたと思う」

「うまくいかなくなった理由って……」

「私は仕事に没頭し過ぎて相手が弱ってることに気付けなかったから見切りつけられたけど……早川さんならうまく両立できるかも知れないし、もう一度よく考えてみたら?」


 食事を終えて店を出る前に、彼ともう一度話し合ってみますと早川さんは言った。

 二人がどんな答を出すのかはわからないけれど、二人にとって少しでも良い方向に向かえばいいなと思う。




 3時を過ぎた頃、少し手が空いたのでひと休みしようと、小銭入れとタバコを持って自販機コーナーへ足を運んだ。自販機の前では飲料メーカーの若い男性が自販機の扉を開けて中を覗き込んでいる。

 故障かな?別の自販機まで買いに行こうか。

 だけど熱いコーヒーの入ったカップを持って喫煙室まで歩くのは面倒だ。すぐに使えるようになるなら、少しくらいは待てるんだけど。


「すみません、もう終わりますんで少しお待ちください」


 背後で立ち尽くして自販機の方を見ている私の存在に気付いたのか、その男性は背を向けたままで私に声を掛けた。


「はーい……」


 どことなく聞き覚えのある声だ。若い男性の声なんて似たようなもんか?


「どうぞ。お待たせしてすみませんでした」


 その人がにこやかな笑顔でクルリと振り返った。


「ありがと……う……」


 その人の顔を見た途端頭が真っ白になり、手に持っていた小銭入れとタバコケースを床に落としてしまった。ファスナーが開いていた小銭入れからバラバラと小銭が飛び散る。


「大丈夫ですか?」


 声を掛けられ我に返った私は、それを拾うふりをしてしゃがんでうつむき、咄嗟に顔を隠した。


「大丈夫です……」


 どうしてここに光がいるんだろう?私に気付いていないってことは他人の空似?

 とにかく早くこの場を立ち去りたい……っていうか、むしろ立ち去って欲しい。

 拾い集めた小銭をうつむいたまま小銭入れにしまっていると、手のひらに乗せて小銭を差し出された。


「はい、向こうの方にも転がってましたよ」

「あ……ありがとう……」


 しゃがんでうつむいたまま小銭を受け取る。

 髪を短くしてあの頃と見た目が多少変わったとは言え、こんな近くにいて会話をしていても気付かないんだな。このまま私に気付かず立ち去ってくれたらいいのに。


「あと、これも」

「……これ?」


 他に何を落としただろうと思わず顔を上げると、タバコケースを差し出した光が私の顔をじっと見た。


「……瑞希?」


 気付かれてしまった……。

 どうしよう、気まずい。あんな形で離婚した相手なんて、光だって本当は顔も見たくないはずだ。その証拠に離婚して諸々のことが片付いた後は一度も連絡を取っていない。

 お互い話すことなんてないだろうから、他人のふりをしよう。

『違います』としらを切ろうとした瞬間。


「おぅ篠宮、サボってばっかいないで仕事しろよ!」


 無駄にデカイ男が、無駄にデカイ声で無駄な言葉を私に向かって言い放った。

 門倉め!!最悪のタイミングだ!!

 小銭入れを握りしめて怒りに肩を震わせている私に気付かないのか、門倉は涼しい顔をして自販機に小銭を入れている。

 光は私の手にタバコケースを握らせて、もう一度私の顔をじっと見た。


「篠宮……瑞希だよね?」


 さすがにもう言い逃れることはできなさそうだ。私は観念してうなずいた。


「……元気だった?」

「……うん」


 ぎこちない会話をしている私たちを横目に、門倉は不思議そうな顔をしてコーヒーを飲んでいる。

 門倉、頼むからあっち行って!


「ここ、瑞希の勤め先だったんだな。知らなかった」

「……うん」


 転職も転勤も私は一度もしていないのに、光は私の勤め先の名前さえ知らなかったようだ。これでも一時は妻だったのに。


「今、ここの飲料メーカーに勤めてて……今週からこの会社の担当になったんだ」

「……うん」


 そんな偶然ってあるの?!

 無駄に顔を合わせたくないから、これからは出来るだけ自販機には近付かないようにしよう。


「瑞希……」


 さっきからなんとか平静を装っていたけれど、いい加減もう限界だ。息がうまくできなくて胸が苦しくて、心臓が壊れるんじゃないかと思うほど激しい動悸がしている。これ以上は耐えられそうにない。

 いっそ逃げ出してしまおうと後退りしかけた時。


「篠宮、田村がおまえのこと探してたぞ」


 門倉がコーヒーを飲みながら私に声を掛けた。


「えっ?!ああ、ありがとう!!行かなきゃ、じゃあね!」

「あっ、瑞希……」


 私は門倉の出した助け船に乗っかって、光の顔も見ずに慌ててその場を離れた。

 田村くんは早川さんと一緒にオリオン社に行っている。きっと門倉は私がその場を離れたかったことをなんとなく察して嘘をついたんだ。

 まったくあの男はタイミングがいいのか悪いのか。あいつ誰だとか何話してたんだとか、後でいろいろ聞かれるんだろうな。



 二課のオフィスに戻って数分後、門倉がコーヒーを持って現れた。


「篠宮課長、ホットコーヒーお持ちしましたー」

「いつから一課の課長はコーヒーの配達始めたの?」

「さっきコーヒー飲み損ねたんじゃないかと思ってさ。俺めっちゃ優しいだろ」

「ちょっと腹立つけど……ありがとう……」


 カップを受け取りコーヒーを一口飲み込むと、門倉はニヤリと笑った。イヤな予感しかしない。


「飲んだな。コーヒー代は今日の晩飯でいいぞ」

「えっ、お金取るの?!」


 ケチ!!ちょっといい奴だと思ったのに!


「冗談だ。コーヒーはおごってやるから晩飯付き合え。どうせいつものだろ」

「……まぁ」

「じゃあ終わったら連絡しろよ」


 門倉は言いたいことだけ言うとさっさと出ていった。

 みんなは私と門倉が同期で昔同じ部署にいたことを知っているから、こんなことがあっても変な勘繰りはしない。本当によくできた部下たちだ。



 その日の夜、いつもの居酒屋に足を運んだ私と門倉は、いつも通りビールと適当な料理を注文して、乾杯もなくビールを飲みながら食事をした。ある程度お腹が満たされると、門倉は生ビールのおかわりを二つ注文した。

 そこまでは本当にいつも通りだった。違ったのはここからだ。


「……で?昼間のあれが篠宮の元旦那か?」

「うん……」


 門倉はオイルライターでタバコに火をつけて煙を吐き出すと、スーツの内ポケットから取り出した一枚の名刺を私に差し出した。


「勝山 光……って……。えっ、なんで門倉が?!」


 名刺にはあの自販機の飲料メーカーの社名と光の名前、その下の方の余白には携帯電話の番号が手書きで書き添えられていた。見覚えのある懐かしい光の文字だ。

 まじまじと名刺を眺めていると、門倉がオイルライターの蓋を何度も開け閉めしてカチャカチャと音を鳴らした。これは門倉が何か考え事をしている時の癖みたいなものだ。

 私が顔を上げると門倉はライターの蓋を閉めてテーブルの上に置いた。


「篠宮がいなくなった後、少し話した」

「えっ……何を?!」

「話したってほどでもないか。知り合いかって聞かれたから隣の課の同期だって答えたら、名刺渡してくれって頼まれた。会って話したいことがあるから連絡くれってさ」

「会って話したいこと?」


 離婚についてはすべて話はついてるはずだけど。

 それにもう5年も前のことだし、今更話すことなんてあったっけ?ビールを飲みながら考えたけれど、私には思い当たる節が見当たらない。


「なんで急にそんなこと……」

「さぁな。俺もそこまでは聞いてない」


 光が何を話したいのかはまったく見当がつかないけれど、話をするために会いたいとは思えない。


「話だけなら電話でもいいかな。会うのはやっぱりちょっと……」

「なんで?会えばいいじゃん」


 門倉は事も無げにそう言うけれど、私は光と会うつもりはない。


「だって……。昼間のあれを見てたならわかるでしょ?」

「俺は篠宮が禊を終わらせるいい機会だと思うけどな」

「……どういう意味?」

「俺の予想では、今のままだと篠宮の禊は一生終わらないと思う。離婚するにはそれだけの理由があったはずなのに、時間が経つにつれて篠宮は元旦那にどんどん縛られていってる気がするんだ」


 そう言われると確かにそうなのかも知れない。

 離婚してすぐの頃は心の中で、妻の留守中に浮気相手を連れ込んだ光をこれでもかと言うほど責めたし、ノコノコ上がり込んだ浮気相手のことも散々なじった。だけど門倉と禊をするようになってからは、仕事に夢中で光を気遣えなかった自分ばかりを責めている気がする。そして光と過ごした幸せだった頃のことを思い出しては泣いた。

 もしかして私は光との間に起こったイヤな部分をなかったことにするために、本当に好きだったことや幸せだった頃のことばかりを思い出して、光を美化しようとしてるんじゃないか。

 確かに光のことは本当に好きだった。けれどもう過去のことだ。いい加減光へのいろいろな想いは断ち切らないといけないのかも知れない。


「確かに門倉の言う通りかもね。私ちょっと美化してたかも」

「篠宮は元旦那に対して今も罪悪感があるからな。そんな風に思い出して引きずられてるとさ、自分はまだ相手を好きなのかもとか錯覚することってあるだろ?」


 ……あるのかな?

 私にはよくわからないけど、もしかしたら門倉にもそんなことがあったから言うのかも知れない。


「門倉にもそんなことあった?」

「ほんの少しはな。離婚してからの1年間くらいはあったと思う。復縁したいと思ったこともあるし」


 門倉にもそんな頃があったんだ。私は逆に、離婚してすぐの頃は光を許せなかった。


「でも本社に戻って一課に配属されて、篠宮と禊やるようになってからかな。心の中に溜め込んでたもの吐き出してくうちに、だんだん離婚を現実として受け止められるようになった気がする」

「良かった。私の離婚経験もちょっとは役に立ったんだ」

「役に立つ離婚ってなんだよ」


 門倉がおかしそうに笑うから、私もつられて笑った。

 私も門倉みたいに心を浄化できれば良かったんだけど、話すほど不完全燃焼で発生した一酸化炭素みたいに、私の心に光との思い出が充満してしまう。


「会った方がいいのかな」

「そうしてみれば?元旦那も気持ちに区切りつけたいのかも知れないしな」


 この5年で私が光の好みとは真逆の女に変わったように、光にも私の知らない5年間があるはずだ。

 離婚する時はとても話せる状態じゃなかったから、お互いに大事なことは何も話さなかった。ほんの少し大人になった今なら、お互い笑ってお別れと感謝の言葉を言えるだろうか?



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