記憶

音無あたる

第1話

「青ヶ原に駐屯しとった米兵にな、『チョコレート、ぷりーず!』言うたら、トラックの後ろから菓子を落としてくれるんやな。」

 私は最近めっきり関心が薄れていた阪神戦をテレビでぼんやり観ながら、祖父の青ヶ原チョコレートプリーズ時代の話を聞いていた。

 いったい青ヶ原とはどこのことなんだろう。おじいちゃんの田舎近くにも米兵はいたのかしら。昔一度行ったきりの祖父の田舎を思い起こそうとすると、またまもなく、この日何度目かの青ヶ原の話が、さも初めて話すかのように祖父の口から出るのである。

 祖父の衰えが一気に進行したのは、私が大学に入り、京都で下宿暮らしを始めた頃である。長期休暇に入って地元に帰り、実家のごく近所である祖父の家に顔を見せに行く。いつものごとく無遠慮に玄関をガラガラと開け、居間に「やあ、ご無沙汰しておりました」と顔を出すと、そこの家主は若干戸惑った様子で私の顔を眺めるのであった。

「ほぉ、今日は仕事は?休みか?」

「ん、大学が休みに入ってな。暇やから来たわ」

「最近どないや、仕事の方は」

「バイトかいな。ぼちぼちな」

「ほうか。。仕事はどうしたんや?」

 どうも会話が噛み合わない。そこに祖母が台所からやって来て話すうちに、どうも私のことを私の父、つまり自分の息子と勘違いしているようである。

「最近この爺さん、物忘れやらなんやら酷くてなあ。外にも出んようになっとるわ」

 散歩はこの老人にとって、唯一の活動といっていいものであった。毎夕運動公園まで歩くのが日課で、その他暇があれば近所の古本屋などに足を運んでいたし、私は高校に入ってからも祖父と並んで歩いた。

 私と祖母が祖父の変わりようについて話しているのを、祖父ははじめ不思議そうな顔で見ていたが、やがて卓子のほうに腰を落ち着け、青春の門の文庫本から破り取られた数ページを見るともなく見ているのであった。





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