もう一人のメモ

坂根貴行

もう一人のメモ

 友美(ともみ)は机の上で目を覚ました。いつのまにか寝ていたようだ。来週A病院へ行って新開発の医薬品のプレゼンをするので、その資料作りに没頭していた。会社では日々の業務があり、しかも残業が禁止されているので、プレゼンの準備時間はない。それで友美は帰宅後に資料を作っていた。


 時計は夜3時過ぎ。

 窓の外は暗い。近くに電車も幹線道路もないので静かだ。

 なぜ目が覚めたのだろう。

 友美は机の上に一枚のメモが置かれていることに気が付いた。


「がんばることの本当の意味は何」


 これはなんだ。

 友美は薄気味悪いものを覚える。しかもどこかで見た字だと思ったら、友美自身の字だった。自分で書いた覚えはない。寝ている間に手だけが起きて書いたなんてありえないし。

 友美はその端正な字を見つめながら、これはまだ夢の中なのだろうかと思った。


 友美は二十七歳。大学時代に彼氏はいたが、卒業と同時に疎遠になり、それっきりだった。仕事は多忙を極める。医療に関する最新の文献や論文を読み、臨床試験の結果を把握し、薬事法の改正も頭に入れ、営業の準備と結果報告書の作成をこなす。やりがいはあるし、給料も大学時代の友達より高いが、犠牲にしているものも多い。

 この前も、久々に友達と旅行に出かける計画を立てていたが、仕事が入った。


 もう私はプライベートで充実ということはできないのだろう。

 音楽を聴いたり、おいしい店に出かけることも、営業先のお話し好きな医師に情報提供するためという目的がある。どんなことも仕事と結びついてしまう。この前の旅行だって、お得意先の関心のある観光地を実地調査するという裏の目的があったのだ。

 

 遊ぶってどういうことなのかな。

 友美は深夜にシャワーを浴びながら、子どもが自由に遊ぶ姿を想像してみる。飛んだり跳ねたり。走ったり転んだり。泣いたり笑ったり。

 私もかつては普通に遊んでいた。家の近くに大きな公園があったから、近所の子どもたちと無邪気にたわむれていた。

「おい、居眠りするな」

 肩を叩かれた。気が付くと友美はオフィスにいた。机の上で寝ていた。

「すいません」

「無理するな」上司は歩き去った。普段厳しい人だが、いざというときに優しさを見せる。友美が職場で寝るなんてことは初めてだから、上司も異常を感じたのだろう。

 メモ用紙が一枚、置いてあった。


「会社と仕事が人生なの?」


 友美はその文字を認め、あわてて手のひらの中に隠した。

 やめてよ、なによこれ。

 もう一度メモを見ると、筆跡は例によって自分のだった。

 私がこんなのを書いたとでも言うの? でも記憶はないのだ。

 実は私は二重人格で、寝ている間にもう一人の私がメモを書いているとか……。働きづめの私のことを心配して。


 A病院の医局でのプレゼンテーションは午後1時から2時の一時間であった。

 あらかじめ予約しておいた高級弁当が会場の医師や薬剤師に配られる。彼らはそれを食べながら友美の説明を聞いた。聞くふりの人もいるし、上の空の人もいる。弁当だけを目的にこの場にいる人もいる。だけど熱心に聞いてくれる人もいるのだ。それが友美に力を与えてくれる。

 友美はスクリーンに自社開発の医薬品の効能を映し出し、笑顔と明るい声で話を進めていく。A病院のニーズにも応えるべく、最近の薬事法の変更点についても説明した。


 プレゼンは終わった。

 十分な準備をしたぶん、会心の出来であった。

 もっとも自社製品をA病院が買ってくれるかはわからない。他者が決めることに、絶対の自信なんか持てるはずがない。

 昔、自信満々で上司に「大成功です」と言ったことがあるが、その病院は見事に期待を裏切ってくれた。

 だから友美はベストを尽くし、あとは果報を待つというスタイルだ。営業は数をこなせば必ずどれかは当たる。失敗しても成功しても、プレゼンが終わったらもう考えないで次の営業に焦点を向けるのだ。

 そうやって前に進み、前に進み、そして……。

 私、なんでこんなに焦ってるんだろう。

 友美の目に壁際のスクリーンがやけに空虚に映った。


「大丈夫ですか」

 と声がする。

 意識が闇から浮かび上がる。

 また同じ声がする。それは聞こえているのに、目が開かない。体が重い。

「聞こえているなら、そのままでいいですからね」

 男の声だった。優しいギターの弦のようなこの声は、どこかで聞いた覚えもある。

「状況を説明しますが、友美さんはプレゼンの最中に倒れたんです。いま点滴をしています。過労だと思います。安静にしていてください。友美さんの会社のほうにはもう連絡しておきましたから」

 ……そうだ。ここはB病院。私はプレゼンに来たのだった。話の途中、突然スクリーンの白さが目に迫り、白い天井が落ちてくるようで、白衣の先生方も津波のように押し寄せるようで、私は卒倒したのだ。

 すると声の正体は、若山先生。

 私の話をいつも熱心に聞いてくれる若手の医師だった。ひそかに素敵な人だと思っていた。


 友美は恥ずかしかった。みっともない姿をさらしてしまったと思った。薬の説明に来たのに、治療を受けることになるなんて。

 

 友美は無気力とけだるさの中でひと眠りした。

 目を開けると、個室にいた。

 窓の外は薄暗くなり始めていた。プレゼンを始めたのが夕方だったから、それほど時間は経っていないようだ。

 白衣を着た誰かが入ってきた。若山先生だった。

 お詫びとお礼の気持ちであふれかえり、友美はすぐに立ち上がろうとしたが、若山は穏やかな物腰でそれを制した。

「がんばりすぎですよ。ノルマとかあるのでしょうけど、もうちょっとお体を労わってくださいね」 


 友美は優しい言葉を目の当たりにして、思わず目に涙が浮かんだ。

 近くに座った若山に友美はおのずと体を寄せた。

 いまだけは仕事も立場も忘れて泣きたかった。

 静かな病室に、女の安らぎと悲しみの声がふわふわと流れた。


 その日会社に戻ると案の定上司に叱られた。少し心配もされたが、体調管理も仕事のうちだ、顧客に迷惑をかけるなどもってのほかだと言われ、返す言葉もなかった。

 翌日、友美はB病院へ電話を入れてから、菓子折りを持ってお詫びに行った。

「応接室へどうぞ」と1階の受付の女性に言われ、そこで待っていると、若山先生が来た。

 今日はちょうど診察がなくて、と男は不自然に笑ったが、友美はそれよりもただただ恥ずかしかった。友達でもない男性に、しかも重要な顧客に泣き顔をさらしたのだから。

 友美が一通り形式的な挨拶をし、帰ろうとしたとき、

「あ、そうだ。これ、病室に置いてあったのですが」と若山がメモ用紙を差し出してきた。


「大切に。人生を大切に」


 と書かれている。

「あ、すいません」友美はそれをあわただしく受け取った。輪をかけて恥ずかしい。こんなものを見られたなんて。本当に誰がこんな嫌がらせを。しかし字は友美の字なのだ。

「同感です」と若山。

「は?」友美はあっけにとられる。

「人生は大切にしないといけないですね」

「は、はい……、まあ……」

「あの、コンプライアンス上、問題はあると思いますが」と若山は前置きし、「今度、食事でもどうですか」と言った。

 友美は若山の白衣姿を眩しそうに見た。その白衣はどんな絵でも描ける無限のキャンパスに見えた。気づけば「ぜひお願いします」と言っていた。まるで子どものように、飛び上がりたい気分だった。


 友美は一年後に結婚した。家事と子育てで幸せな日々を送っている。

 あれ以来、メモは見ていない。

 










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