絶対温度マイナス99°
灰色 洋鳥
第一章 現代魔法の限界
1. 北の極地にて
そこは見渡す限りの大氷原だった。加速度的に進み始めた地球温暖化はこの土地にも大きな影響を与えていた。二十年前は大雪原だった。いまや真っ白な雪に覆われた平坦な場所ではない。温暖化により不均等に雪原が融け、刻まれた深いクレバスが激しい凹凸を生んでいた。わずかに含まれるチリなどが融け残り
その氷原の中に様々な色のついた点々が連なってうごめいている。よく見るとそれは防寒ウェアを着込み荷物を背負って雪原の中を移動している人間の一団だ。ウェアに縫い付けられた国旗がいくつもの国の混成のグループだと示していた。
先頭を歩く人間が手を振り、進行方向を示している。それを見て青い防寒ウェアを着込んだ男がすぐ後ろを振り向き声をかける。
「気をつけろよ。滑落したら助からないからな。この辺りは氷が薄くなっているようだ。クレバスも深さ数キロはあると言われている」
「分かってるわよ。
だったら、ヘリとか使えばいいのに。なんでこんな苦行を強いるわけ?」
真上寺は憮然とした声でそばに立つ男に噛みついていた。男は、ゴーグルを頭の上にずり上げ眉を
「使いたくても使えないんだよ。
まず、着陸できる平坦な場所がない。それから、不規則にクレバスから吹き出す突風で危険なんだよ」
その言葉のせいでもなかろうが、クレバスから風が吹き出し、中に溜まっていた雪を吹き上げた。雪は、細かい氷とともにあたりに降り注ぎ、今にも沈みそうな色合いの日の光が反射してキラキラと輝いた。煌めきに目を奪われ彼女は視線を巡らせた。それがいけなかった。不用意な動作が足元の不安定な氷を踏み抜き、氷の塊と共にクレバスに滑り落ちた。
「きゃー」
「真上寺!」
同行のメンバー達から怒号が上がった。真上寺と話していた男は、彼女の名を叫んだ時には既に足を踏ん張りザイルを握り締めていた。伸びきったザイルが彼女の体重を支える衝撃が彼を襲う。ゴーグルが飛び、足元から砕けた氷の破片が飛び散る。「うっ」彼の口から声が漏れる。そして、その衝撃に全身の筋肉とバネで耐えた。
「真上寺! 大丈夫か。
いま、引き上げる」
彼は腰を落とし、彼女を引き上げるため握るザイルに力を入れた。他のメンバーも彼に駆け寄り体を支える。ゆっくりとザイルが引き上げられていく。しかし、辺りの氷雪は思ったより脆くなっていた。
ザイルを引き上げる一団の周りに亀裂がゆっくりと広がっていく。しかし、いまはとにかく真上寺を引き上げるしかない。ザイルをしっかり掴み背筋を使い引き上げる。十センチ、二十センチと引き上げられていく。亀裂は見てわかるほどになっており男は叫んだ。
「俺は大丈夫だ。みんな離れてくれここは危ない!」
「
躊躇しながらもひとりふたりと注意深くゆっくりと離れていく。
1mほど引き上げれらただろうか。そのとき突然荷重が抜けた。普通なら切れたと思うところだが、彼は笑顔になった。抜けた荷重の反動で地面に尻餅をついたままクレバスに向かって呼びかける。
「大丈夫だったか。真上寺」
「おっまかせ。ありがとね」
奥から声が響いて来た。それから遅れずに彼女の顔に続いて体が見えてくる。ゆっくりと全身が現れたとたん、
声にならない悲鳴が上がる。伸びてゆくザイル。このままでは、繋がっている他の隊員も巻き込まれかねない。しかし、真上寺は手首につけた
「助かった。さすがだ。寺田研の魔女」
他の隊員たちにも安堵の表情が浮かぶ。
「あーびっくりした。
ちょっとぶつけたとこが痛いけど、とりあえずお礼言っとく。
支えてくれたおかげで、浮遊魔法使う余裕ができたわ」
「お前のせいだろう……」
「先輩も助けられたから貸し借りなしね」
しかしすぐに余裕の笑みが怒りに変わる。浦上を睨み付けぶりぶりと怒りだした。
「それはそれとして。人類の未来を背負ってるんだからと送り出されたのに、この扱いはないでしょう。もっとなんとかなるんじゃない!」
なれない雪中行軍で疲労困憊し、立っているのも辛かったのだ。滑落のショックもあった。巻き込んだことは置いておいて、彼をなじることで自分を納得させていた。でも、本当は分かっていた。この場所のことや作戦の詳細は説明され、彼女も理解していた。いや、理解していたつもりだった。だが、あまりに辛いので文句を口に出さずにいられなかった。それが分かっているので浦上も気を遣っている。
「すまない。
真上寺は、
謝られてしまうと、それ以上文句も言えず、彼女は横を向いて黙り込んだ。
「少し休憩しよう。
目標地点まであと200mほどだから。ついたら熱いコーヒーを淹れてやる」
「浦上先輩のコーヒー、久しぶり。『
まあ、美味しかったら許してあげるわ」
真上寺は横を向いたままだが、ゴーグルの隙間からわずかに覗く唇の端が持ち上がった。
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