第5話 1988年(昭和63年)4月1日

 いつのまにか明るい室内に目を瞬かせると、すっと引き寄せられるように自分が「二十歳の自分の中」にいることに気が付く。理屈ではなかった。瞬時に理解していたのだ。

 ここは大学のサークルで使っていた部室。懐かしい机、懐かしい椅子。壁のポスター。そして、美和子。


「佐々木、今日は何年の何月何日?」

 謙一郎は過去の自分の口を借りて、美和子にそう尋ねる。

「え……。昭和63年の4月1日だけど。新学期早々寝ぼけてるの? もうすぐ講堂から新入生が出てくるから、サークルの勧誘のチラシを配りに行くんだよ? 大丈夫?」

 怪訝そうな美和子の顔に、謙一郎は懐かしさで胸がいっぱいになる。

 今なら言えるのだ。

 たった一言だけだ。好きの二文字だけ言えれば、もう悔いはない。


「あのさ」

「うん」

「…………」

 好きなんだ。

 その一言を言おうとする謙一郎の口を、二十歳の自分がふさいでしまう。

 焦る今の自分に、二十歳の自分は真っ赤になりながら怒り狂っている。自分は、美和子から好きだと言わせたいんだ、と。


 思い出を美化していた!

 謙一郎はそのことに気づき、ガツンと殴られたようなショックを受けた。

 あの頃の自分の傲慢さを思い出し、誰も心の中など見ていないはずなのに羞恥で過去に蓋をしたくなる。

 あの頃の謙一郎は、美和子に惚れられてると慢心していたのだ。実際は逆だったのに。思い出も逆にしていたことに気づいてしまえば、もう笑う以外の何が出来ようか。


 だが今しかないのだ。

 美和子の父親が倒れるのがいつだったのか、謙一郎は知らない。

 でもまだ彼女はここにいる。

 今を逃したら、もう会えない。この気持ちを伝えることは絶対にできない。


 俺が、彼女の父親と同じ業種の会社に就職したのはなぜだ。今も上の資格を取るために頑張っているのはなぜだ。

 彼女とつながる日は来ないのに、彼女はすでに誰かの妻なのに。

 それでもいつか彼女を、友人として助けられる日が来るんじゃないか。そんなありもしない日を夢見てたことを否定できるのか?


 くそみたいなプライドはいらないんだ!

 明日も同じ日が来るわけじゃないんだ!

 酔っぱらいの夢で上等!

 夢ならなおさら言えるだろ。二十歳の俺、邪魔をするな!


「美和子」

 普段彼女を名字で呼んでいた謙一郎の言葉に、美和子は驚いたように目を真ん丸にした。

「――好きだ」


 




 次の瞬間、夢から覚めるように謙一郎はカフェーのスツールに戻ってきていた。

 一瞬本当に夢を見ていたのだろう。

 目の前には、いつのまにかグツグツと熱そうなエビグラタンが置かれていた。だが、なぜかそれは二つあり、謙一郎は首をかしげる。カウンターには自分しか客がいないのに……。


「お客さん、どうかしました?」

 女給が謙一郎の顔をのぞき込む。質の悪い酔っ払いだと思われているのかもしれない。

「いや。昔のことを思い出してボンヤリしていただけですよ」

 顔が熱い。

 一杯の甘いカクテルで寝コケるとか、恥ずかしすぎる。


 思わず店内をきょろきょろと見回すと、奥にいた客たちがちょうど会計を済ませ、出て行くところだった。自分より少し若いくらいの男と女。どこかで会ったことがあるような気がして謙一郎が首をかしげていると、視線に気づいたらしい男のほうが謙一郎へ笑いかけ、なぜか親指を立てて見せる。それに気づいた女の方も何か嬉しいことがあったかのような顔をして、謙一郎へ晴れやかな笑顔を見せた。



 チリン


 店のドアのベルが鳴る。

 新しい客だ。


「こんばんは。待ち合わせなんですけど――あ、いた。遅くなってごめんね」


 そう言って店に入ってきたのは、あの頃よりも大人っぽくなった美和子、その人だった。

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