第3話 1988年(昭和63年)4月8日
1988年4月8日、月曜日。
春の雪が降ったのは、昭和最後の4月だった。
バス停には、バスを待つ学生や通勤服姿の大人たちで長蛇の列。だがバスは定刻を過ぎても来る気配はなく、空からは羽毛のような雪が降り続いていた。
早く、早く駅に行きたいのに!
気ばかり焦るが、走ったところで早く駅に着けるわけではない。
なんでよりによって雪なんだ。四月の東京で雪が降るなんて、聞いたこともないぞ!
謙一郎は心の中で毒づいて、イライラと腕時計と道を交互に見た。
電話があったのは、ちょうど学校に行くために靴を履いていた時だ。留守電はセットしてあるので無視して出ようと思った謙一郎は、留守電に吹き込まれはじめた言葉に慌てて受話器を取り上げた。
それは二駅向こうの病院から、父が事故にあって運ばれたという連絡だった。
その頃、謙一郎は父と二人暮らしだった。
東京の大学に進学した謙一郎は、すでに東京に単身赴任していた父の部屋に一緒に住んでいた。妹はエスカレーター式の中学に入っているため、母と地元だ。震える手で何度か電話のプッシュを間違えながら、どうにか実家の母に連絡をする。病院からもすでに連絡がいってたようで、母からは、すでに始業式のため学校に向かっている妹を迎えに行って、その足で東京に向かうと言われた。ただ、突然の雪のため、新幹線がどうなるかが分からないとのことだった。
とにかく謙一郎は病院に向かい、逐一実家に連絡を入れるように言われる。今日は仕事が休みの祖母が留守番をしてくれるとのことだ。今のようにポケベルも持ってなかった時代だ。祖母がいなければ、母たちが病院に着くまで、経過一つ連絡がつかない可能性もあったかもしれない。
やっとのことで謙一郎が病院に着いたときには、通常の何倍も時間がかかっていた。
だが事故でけがしたはずの父はすこぶる元気で、
「わざわざ悪かったなぁ」
と、豪快に笑っていた。雪でスリップした車に突っ込まれたという話だが、車にはこすった程度で、実際は豪快にしりもちをついたことで少し気絶をしていた程度らしい。それでも医者からは、念のため検査入院すると説明を受けた。車の持ち主が真っ青な顔でずっと頭を下げているのを、父がずっと宥めていたのをよく覚えている。
その後ホッとした謙一郎は祖母に連絡をし、夕方近くに母と妹が着くまで病室で父に付き添っていた。
翌々日。
大学のサークルに顔を出した謙一郎は、オヤジがドジで参ったよ、なんて話を友人相手に話していた。結局父は、尾てい骨を痛めた以外にケガもなく、昨日の夕方に退院し、母と妹は今朝の新幹線で帰った。当たり前の日常が戻ったはずだった。
「なあ、佐々木は?」
いつもならいるはずの佐々木美和子の姿が、いつまでも見えない。
だが謙一郎の言葉に、友人たちは驚いた様子で顔を見合わせた。
「時田、聞いてねえの?」
「何を?」
「佐々木、大学辞めたんだよ」
「はっ? いつ?」
「おととい?」
「へっ? いやいや、それはないだろ。なんで4月に辞めるんだよ」
「なんか美和子、家庭の事情で急に実家に戻らなきゃいけないって。たぶん退学することになるって言ってた。で、おととい、ここにも挨拶に来てくれたのよ……」
「俺知らないぞ?」
「ああ、うん……」
微妙な空気が流れるのも当然だろう。
謙一郎と佐々木美和子は、誰の目から見ても仲が良かった。後から聞いた話では、二人が付き合うのも時間の問題だろうと思われていたという。謙一郎自身、告白のタイミングを計っていたのも確かだった。だが美和子は消えた。謙一郎に何も告げずに。誰も伝言を預かってはいない。
連絡先を誰も知らされていないことにその日気付いて、みんなで唖然としたくらいだ。まるで最初からいなかったかのように、彼女は消えた――。
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