第2話 1993年(平成5年)8月7日②

 プラザから出た謙一郎は、ドッグヤードガーデンでスリーオンスリーの試合を見るともなく眺めつつ、

「さて、どうするかな」

 と呟いた。

 特に、自分がなくしたものなどに心当たりはない。だから自分でも、なぜここに来てしまったのかがわからないのだ。ただ昨日は、一日中あの子どもの声が頭の中をぐるぐると渦巻き、どうにも落ち着かなかった。気になるくらいなら行ってみるか。そう思って電車に乗った。東横線はよく使うが、神奈川まではあまり来ることがないため、終点に来たのも久々だ。


「ま、探し物云々はともかく、久々の横浜だ。行くだけ行ってみるか」


 カフェーの場所は大通り公園の近く。

 せいぜい一駅分といったところなので、のんびりと歩いて向かうことにした。


 地図を持っていないため、念のため大通りを歩いていくことにする。マリンタワーや横浜スタジアムの方に向かえば、まあ迷わないだろう。まもなく関内駅が見え、大通り公園に入る。住所を見ながらブラブラと歩いていくと、まもなくその看板は見えた。




「カフェー・薔薇と黒猫亭。ここか」

 マッチ箱のデザインと同じ看板を見上げ店名を確認する。

 渋い色合いの赤いドアはすりガラスがはまっていて、中をうかがい知ることはできない。

 時間は開店したばかりだし、開けても問題ないだろう。

 謙一郎がそう判断してドアを開けると、ふと、頭の奥がぐらりと揺れるような奇妙な感覚におそわれた。一瞬空気が厚みを増したような感じがし、スーッとエレベーターで降下したような錯覚を覚える。

 のぼせるほど外は暑くないが、歩いていたことで疲れたのだろうか?


 運動不足かなと苦笑しながら店に入ると、中は思っていたよりも広かった。

 黒と赤を基調にした店内にはBGMにジャズ風の音楽が流れ、どこか古き良き時代のアメリカのバーといった雰囲気だ。カフェーとあったのでコーヒーを飲むところだと思っていたが、どうやらカフェとカフェーは別物らしい。

 入って左手に小さな丸テーブルが三つ。右手のカウンターには七脚のバースツール。

 カウンターの中には、作務衣を着た背の高い年配の男性と和服の小柄な年配の女性がいて、女性のほうが「いらっしゃい」と声をかけた。二人とも、自分の祖父母くらいの年齢だろう。


 テーブルの奥の席には先客が二人。

 店が薄暗いためか、男か女かは分からない。そこへ給仕をしていたらしき女性も顔を上げて、

「いらっしゃい」

 と謙一郎に声をかけた。こちらはカウンター内にいる二人の孫だろうか。十代とも三十代とも見えるような年齢不詳の女は、縦じまの赤い着物に白いエプロンをつけ、髪を顎の下できっちり切りそろえている。切れ長の目がハッとするほど印象的な、美しい女だ。


「お一人ですか? でしたらカウンターへどうぞ」


 そう案内され、謙一郎は入り口から二番目にあるスツールに腰を掛けた。

 差し出されたメニューを見るとカクテルの種類がずらっと書いてあるが、食事もできるらしい。

 グラタンをメインに、割と豊富なメニューを見て急に空腹を覚えた。グラタンなど、久しく食べてないなと思い、これは当たりの店・・・・・かな、と浴衣の子どもに感謝した。


「じゃあ、エビグラタンとイカのフリッター。飲み物はどうするかな……」


 普段居酒屋にしか行かないので、これだけのカクテルの名前を見てもどういうものかさっぱりわからない。ここはどこかで聞いたことのある、マティーニとしゃれこむべきか?

 そんなことを考えていると、一つだけ漢字の名前に気が付いた。

「雪国? これもカクテルですか?」

 そう尋ねると、カウンター内の老女(この店のママだそうだ)がそうだと言ったので、とりあえずそれを注文する。


 グラタンは年配男性マスターの担当らしい。年の割に大きな男だ。

 謙一郎が男としては小柄なほうであることを差し引いても、マスターは同世代と並んでも抜きんでるほどの高さだろう。寡黙な性格なのか一言も口をきかないが、てきぱきと注文した料理を作るさまは見ていて楽しい。

 一方ママのほうはとても小さい。昔見たSF映画の評議会の長を彷彿とさせる穏やかな容貌で、カクテルシェイカーを鮮やかに振り、あっというまにカクテルを出してくれた。

 色は透明で、グラスの縁に白いものがついている。中に何か緑色のもの……チェリー? が入っていた。

 ソルティ・ドッグのようなものかな? と思い、一口飲んで驚いた。

「甘い」

 グラスの縁についていたのは、なんと砂糖だったのだ。

「酒に砂糖とは、珍しいですね」

 見た目も味も女の子が好みそうだが、酒自体は強そうなので飲みすぎ注意だろう。だが、おやつみたいなものだと思えば、これはこれで悪くない。


 ふと気づくと、BGMの雰囲気が少し変わっていた。バンドではなくソロ演奏だ。

 店の奥のほうを見ると、さっきの女給の女が小さな縦笛を吹いていた。和の楽器でジャズか。細くて小さな笛なのに、低く甘い音色だ……。

「あれは、篳篥ひちりき?」

「よく分かったねぇ」

 謙一郎のつぶやきに、ママがにっこりと笑って肯定する。

「昔、雅楽体験に参加したことがあるんですよ。いや、驚いたな。こんなかっこいい楽器だったんだ」

 授業で体験したときはろくに音も出せなかったし、実演してくれた曲も神社風というか、なんだかよく分からないものだった。だが、テストのために一瞬だけ暗記した名前がよく出てきたものだと、自分でも感心してしまう。


 吹いてるのが美人だということを差し引いても、相当かっこいいと謙一郎は感嘆した。

 甘い余韻の曲を聞きながら、甘口のカクテルをすすっていると、瞼の裏に雪景色が浮かぶ。

 雪国の光景ではない。あれは東京。4月の東京だ。

 4月に入った東京で、あんなに雪が降るなんて考えたこともなかった。

 あの雪がなければ、何か変わっていたのだろうか……。

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