ショートショート集
夜川青湖
第1話 美しい人
奇妙な空模様だった。
真夏の太陽が黒い雲に覆われて、見るもの全てが艶やかに濡れていた。
見上げれば濃い雲の切れ間から黄金色の光の筋が差し込んでいて、雨が上がったばかりの地上では街路樹の緑がその光に躍動していた。
雲間から覗く光は空にも地上にも影を落とし、そのコントラストがとても幻想的だ。
そう。
まるで、世界が海の中に沈んでしまったようだった。
限られた光は世界の水滴に反射してその光を増幅させていたけれど、僕の目にはなんだかそれがとても物悲しく映る。
もうすぐ日が沈む。
その限られた時間、限られた水玉は、細い光にすがるように懸命に輝いていた。
木々の緑も、黒いアスファルトも、家々のカラフルな壁や屋根も、空飛ぶ鳥たちも。
そのおかげでいつもよりも艶々しくその存在を、しかし控えめに主張していた。
それはきっと、とても美しい光景だったのかもしれない。
でも、僕にはそれが美しいと感じるよりも、道を歩くたびに虚しさが募るだけだった。
そうだ。
僕は、いつもそうだった。
小さな頃から、美しいものを見せられると、逃げたくなった。
抜けるようなブルーを見たことがある。
母なる海は、なんと偉大なのだろうと幼いながらに思ったような気がする。隣で感動を口にする両親を、でも僕はどこか冷めた目で見ていた。
そうして僕はそこには長く留まることを望まず、しかし両親を失望させたくなくて、薄ら寒いことを口走った。
そうすれば、早く速くこの息の詰まるような美から逃れられるのだと……それは殆ど本能だったに違いない。
学校の行事でどこかの滝を見に行ったときも、そうだった。
瀑布の圧倒的な迫力は力強く美を主張しているように思えた。
そう感じた途端、僕はその美に酔った。
強烈な眩暈と吐き気をもよおして、トイレに駆け込むことも出来ずにしゃがみこんで嘔吐した。
心が、身体が。
僕の全部がそういう美を受け付けない。
大人になるにつれて、そういった感性は少しずつ薄れては行ったが、まったく消え失せたわけでもない。
だからこうして、不意打ちのように綺羅綺羅しい光景が目に飛び込んでくると、僕は足に重たい枷をはめられたようにしか動けなくなる。
僕は、まるで尾を失った魚のようだ。
地を這うようにずるずると歩を進めることしか出来ず、決して鳥や虫のようには空を泳げはしない。
嗚呼、なんて息苦しいのだろう。
水の気配が近い。
世界は水に沈められたと言うのに、きっと僕はいまだに肺で呼吸をしようとしているのだ。
泳げなくなった魚。呼吸のできない動植物。
僕はこの世の理から外れてしまう。
美しいものを本能的に受け付けられない僕は、光挿す影に取り込まれてまもなく存在を消すのだろう。
そう思うのに僕は、ずるりずるりと歩を進める。
一歩一歩、虚しくなる気持ちに負けないように自分を奮い立たせながら。
僕は海の底を這った。這い続けた。
すれ違ったカラスがひとつ鳴いて、気持ちよさそうに翼を広げて空を泳いだ。
足が重くて、水の気配が鬱陶しくて、僕は時々バランスを失いそうになる。
そのたびに不自由な足を踏みしめる。体中に汗が流れてよりいっそう僕を不快にした。
僕の血液がもがれた尾からしとどに流れ出しているのかもしれない。
視界は翳み、それでも天から差し伸べられる光は緩やかに僕の身体に染み込んでいた。
僕の呼吸は乱れていた。
そうだな。もし無事に帰れたら、まずは煙草を吸おう。
荒い呼吸。鉛のような身体。僕の身体を絡めとる、美しい水の世界。
それと隔絶する扉にたどり着いたとき、僕の胸は高鳴った。
救われるかも知れない希望。
世界と同じかもしれない絶望。
不安と期待は入り乱れる。
いっそ、このまま扉を開けずに朽ちていったほうが楽なのかもしれない。
扉の中までこんな世界だったなら、僕は本当に行き場をなくしてしまう。
それでも僕は、扉に手をかけ、振り切るように開け放った。
「おかえりなさい」
僕は帰らなければならなかった。
生きるため?
いや、ちがう。
守るため?
いや、そんな高尚な心など持っていない。
ただ、会いたい人にもう一度会いたかっただけだ。
ああ、僕は美しいものなんて本当に嫌いだ。
「ただいま」
でも、僕を迎えた愛する人は、世界中のなによりも美しく見えた。
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