闘わない大人たちへ

隅田 天美

笑顔の裏の悪魔

 最近、理不尽な殺人事件が起こっている。

 京都アニメーションにおける大量殺人や中学生が小学生を切る事件も起こっている。

 すると、何の役にも立たないくせにしたり顔の自称『教育評論家』とかが偉そうに言うのだ。

「ゲームやインターネットの影響を考えましょう」

 さすが、何の役にも立たない教師だけはあって世間知らずのいいところだ。


 私は昔がよかったとか体罰が正しいとは思わない。

 ただ、思うことはある。

『闘う』または『抗う』大人が減ったことだ。

 みんな、世間に対して「いい顔」をしようとし過ぎである。

 中には『自分は世間とは違った意見を持っています』ということを猛烈アピールする人もいるが、厚化粧しているみたいで逆に気持ち悪い。


 一つ、思い出話をしたい。

 柴田錬三郎という作家だ。

 通称・シバレン先生。

『眠狂四郎』などの時代劇を書いた作家で毎年、墓参りに行っている。(そこいら辺は「暇人の集い 特別編」参照)

 初めて読んだのは高校生の頃。

 通っていた高校は北朝鮮も真っ青になるぐらいの個人崇拝の学校でほとんどの教師を私は内心で「人間のクズだ」だと思っていた。

 親も内心渋々だが転入させられる高校も当時はなく私を通わせていた。

 はっきり書く。

 私は壊れた。

 いや、私は私という器を地面に叩きつけ壊した。

 未だに校長などは呪っている。

 そんな時に出会ったのが時代劇小説。

 差別表現、残酷描写、エロとかあった。

 でも、その時だけは、その瞬間だけは救われた。

 数年後。

 現実は残酷である。

 リストラや職場のいじめなどで私は病気(躁鬱)を患った。

 それはそうだ。

 私の器は壊れたままなのだから。

 その中で出会ったシバレン先生の言葉。

 私のように「死」を考えた若者に対しての最後の一言「悔しかったら生きろ」。

 この言葉は私の腹にずしりときた。

 シバレン先生の言葉は、当時のその若者に対してのものだったが自分に言われたような気がした。

 自分の器が壊れたことに呆然とする私に『お前の器は壊れている』という事実を突きつけられたような気がした。

『さあ、お前はどうする!?』

 そして、私は様々なことを試行錯誤することになる。

(『先生』に出会ったのはそのあとの話)


 最近の知識人、コメンテイター、いや、政治家や教師までも子供に対して『闘おう』としない。

『抗う』ことをしない。

 常に健全で優秀で正しい「正解」だけを求める。

 桃太郎に出てくる『鬼』は常に悪役で成敗される存在でなければならない。

 だから、仮に「桃太郎のほうが酷いです」なんて書いたり発言しようものなら彼らは眉をひそめる。

 でも、彼らが求める「正解」が結局のところエゴである。

 笑顔や甘い言葉で包んでいるが、そこにあるのはエゴや悪意といった毒なのである。


 シバレン先生(池波正太郎もそうなんだけど)は『闘う』人だった。

『闘う』という言葉は『戦う』と意味が少し違う。

『闘う』というのは相手と向き合うことだ。

 真っ正面からぶつかり合う。

 これはかなり勇気がいる。

 そして、危険だ。


 禅問答を見ていると、文字通り生死をかけたものであった。

 殴るは当たり前、最悪の場合、本当に死ぬ。

(誤解がないように書くと仏教は基本、輪廻転生とかは認めていません)

 それに近い。

 だから、人を救える。


 だから、世の大人たちよ。

 世間やインターネットの世界に『抗え』。

 何も反抗的な態度でいろとか特殊なことをしろというわけではない。

 自分で考え、行動し、テレビやネットに頼るな。

 そして、『闘え』

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