73 一位を目指して、走り切れっ!
(ハードルのかなり手前で踏み切って、ハードルを飛び越える時は、足を水平に……)
俺はディオスやエキューに教えてもらったことを、ぶつぶつと口の中で繰り返す。
練習通りにすれば大丈夫だと、緊張にばくばくと跳ねる心臓をなだめる。
ディオスとエキューにコーチしてもらった成果を発揮し、ハードル走の女子部門を、三位という好成績で予選を通過した俺は、まさに今、決勝戦に挑もうとしていた。
決勝戦で走るのは六人。全員が緊張した面持ちでスタートラインに並んでいる。
「よーい」
体育教師がピストルを持った手を上に挙げ、選手達が腰を落としてスタートの姿勢をとる。
パンッ、と乾いた破裂音が響き。
選手達がスタートラインからいっせいに飛び出す。
イメージ通りのスタートをきれた俺は、トップに躍りでた。
その勢いのまま、一つ、二つとハードルを飛び越えていく。
走っているはずなのに、なぜか時間の流れが遅く感じる。
観客席から投げられる歓声が、耳の中でわぁんと反響している。
(このまま一位を……っ!)
と勢い込んだが。
ハードルが残り二つというところで、隣のコースの選手に追いつかれる。
ほぼ同時に、ハードルを飛び越した。
隣のコースの選手が、俺を追い抜かす。
(ヤバイ……っ!)
焦るままに身体を動かし、最後のハードルを飛び越えようとして。
がしゃんっ!
耳障りな音と同時に、膝が固い物にぶつかる。
あっ、と思った時には、地面が目の前に迫っていた。
とっさに地面についた両手が
ざりっ、と熱い痛みが手のひらと膝に走り。
勢い良く地面に倒れこんだ身体から、ひゅっと空気が洩れる。
転んだんだ、と思った時には、隣のコースの選手が、一位でゴールしていた。
(立てっ! 立ってゴールを……っ)
一位を獲られた。
血の気が引く。
身体のどこが痛いのかもわからない。
気ばかり焦って、思うように動かない身体を必死で起こす。
その間にも、他の選手達がどんどん俺を追い抜かしてゴールしていく。
二位、三位。
走りたいのに、うまく足が動かない。
四位、五位。
まだ、ゴールまでは何メートルも残っている。
さっきまでうるさいほどだった観客席が、しん、と静まり返っている。
その中を、俺は片足を引きずるようにして、最下位でゴールした。
ゴールした瞬間、緊張の糸が切れて、そのままくずおれそうになる。と。
「ハルシエルちゃんっ!」
切羽詰まった声と同時に、力強い腕に身体を支えられる。
かと思うと、次の瞬間、ふわりと横抱きに抱えあげられていた。
「すぐに保健室ヘ行こう!」
至近距離で聞こえた声にびっくりして、声の主を仰ぎ見る。
驚くほどすぐそばに、エキューの整った面輪があった。
だが、いつもの笑顔とは打って変わって、表情は凛々しく張り詰めている。
そこでようやく、エキューにお姫様抱っこされて運ばれているのだと気づく。
「エ、エキュー君っ!? だ、大丈夫っ、下ろし──」
「じっとしてて」
決然と告げられた声に、言葉が封じ込められる。
厳しくはない。けれども、思わず従わざるを得ない声音。
やりとりの間も、エキューの歩みは止まらない。俺達の背中を押すように、さっきまで静まり返っていた応援席から、歓声混じりのざわめきが聞こえてくる。が、俺はそれどころじゃない。
「でも、重いでしょう!?」
「そんなわけないよ。これでも男なんだから。……まあ、羽根みたいにってわけにはいかないけど」
エキューがおどけたようにくすりと笑う。
つられて口元を緩めかけ、俺は初めて気づく。
そうしないと、口から無意味な叫びが飛び出してしまいそうで。
「先にちゃんと傷を洗っておこう」
校舎に入り、保健室の前の水道のところで下ろされる。
「ありがとう。ここまで運んでくれて……」
「ううん。気にしないで。バイ菌が残らないように、ちゃんと傷を洗ってね」
エキューにうながされるまま、水道で両手と膝の傷を洗う。
擦りむいた手のひらに水が当たるたび、ひりひりと痛む。
ハーフパンツから出ている
このまま洗うと靴まで濡らしそうだ。俺は手のひらを振って軽く水気を飛ばすと、靴と靴下を脱いで膝にも水をかける。
熱を持ったような傷に、水の冷たさがしみる。さっき転んだ時は足首をひねったかと思ったが、幸いひねっていなかったようだ。足首に痛みはない。
「はい、タオル」
洗い終わったところで、先に保健室に入っていたエキューが、清潔なタオルを片手に出てくる。
「ありがとう」
俺は素直に礼を言ってタオルを受け取る。
怪我をしたほうの靴を脱いでしまったので、ひょこひょこと片足跳びで保健室の中へ移動しようとすると、エキューに目をむかれた。
「危ないよ!」
俺が止める間もなく、ふたたび横抱きに抱えあげられる。
「だ、大丈夫だからっ」
「駄目。また転んだらどうするの?」
きっぱりとかぶりを振ったエキューが、俺を抱き上げたまま、保健室に入る。
そっ、と壊れ物を扱うかのように、キャスター付きの椅子に座らされる。
「保健の先生、不在にしてるみたいなんだ。ちょっと待ってね」
エキューが
「ありがとう。あとは自分でするから」
「手も怪我してるのに?」
くすりと笑ったエキューが俺の前に屈む。
「うん、ちゃんと洗えてるね。よかった……血は出てるけど、そんなに傷はひどくないみたい」
ほっとした表情で告げたエキューが、
「ごめんね、失礼するよ」
と詫びてから、そっと俺の足にふれる。遠慮がちな指先が、逆にくすぐったい。
ぺりぺりとシートをはがした絆創膏を、丁寧に膝に貼ってくれる。
「絆創膏、傷が治るまでちゃんと毎日交換してね? はい、次は手だよ」
エキューに言われるまま、俺は素直に両手を出した。
擦りむいた傷がひりひりと熱を持って痛む。
俺は視線を落として、エキューが絆創膏のシートをはがすのを、見るともなしに眺めていた。
(……俺、肝心の本番で転んじゃったんだなぁ……)
ようやく実感が湧いたとたん、視界が不意ににじむ。
気がつけば、俺はぼろぼろと涙をこぼしていた。
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