太宰、漱石と火垂るの墓と、ブレードランナー
いわのふ
太宰、漱石と火垂るの墓と、ブレードランナー
止めとけばいいのに、岡田斗司夫の火垂るの墓の解説なんか見ちゃったわけだ。
そりゃ、岡田は優秀だし分析能力も優れてる。だからといって、正しいかというと文芸ものっていうのはどれが正しいかなんてそもそもないわけで、彼なりの解釈である。野坂昭如の娘が学校で問題を出されたそうだ。「火垂るの墓」を書いた作者がどんな気持ちでこの小説を書いたか、という課題である。野坂は締め切りに間に合わせるためひぃひぃ言って書いた、と娘に答えた。その解答は学校では不正解にされたそうである。
話を戻す。あれは、反戦ものなんかじゃなくて、人間の業を描いた映画であり物語、というのが岡田の主張する骨子である。そりゃそうだろう。主人公の大切な妹が死んだ日に、彼女が残した食い物なんて食ってる時点で人間の業の深さがわかるわけではある。
こういうの、文芸もの、なんだろうけれども、わたくしは好きではない。ひとそれぞれだし、好き好きあるだろうからどうこう言う問題ではないのかもしれない。何が好きじゃあないかというと、いろいろと解釈をつけて、それを生業としたりすることである。好きに考えればいいし、じゃあなかったら言いたいことが明確な原作を解説すべきではなかろうか。
しかしだ、漱石の「こころ」とか、太宰の「人間失格」とかは文芸であるのに、言いたいことが非常に明確だ。これも人間の業についてのものだけれども、そうそうたくさんの解釈はできない、とわたくしは思う。
で、ブレードランナーである。これ、もう西洋的というか、なんというか監督の最初の意図なんざ無視してハッピーエンドに持ち込んでるのが最初の作品である。こいつにはさすがに制作者は怒った。映像美のすばらしさと世界観がすごいから、あとからマニアうけしたりもしたんだけども。
で、ブレードランナーは編集がやり直されている。今、見れるものはいくつかのバージョンがあるが、主人公そのものが人造人間である可能性について言及しているものが「最終版」である。
で、どうでもいいのだけど、名作、というのはいくつかの解釈は成り立つのであろうけれども、言いたいことは一つ、というのがわたくしの考えであり、文芸論である。
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