海繋ぐ猫鳥

琉華ペングソ先生

第1話

ある男が海岸で立っている。

この島で彼を知るものは、誰一人としていない。

いいや、正しくはいなくなってしまったと、言うべきだろうか。

潮風に吹かれ続け、欠けてしまった長細い貝殻のように、素足は砂だらけで、擦り傷をつくっていた。

顔は死人のようにやつれて、ボロボロの着物を着たみすぼらしさを感じる。

家族、友人、全てを海へと流した彼に新しい草履を履かせてやる相手など、もうどこにもいないのだから。

 ただそこに動かず、騒がず、夜明けの空を眺め続ける。息を大きく吸い、静かに吐き出すが、波の音と重なり、全てがかき消されてゆく。

男はある病を抱えていた。

目を開けていれば見えぬそれは、他の者には決して理解されず信じまいと拒む。身体と魂を引き離せば視えてくる。精神を病んでいるのだ

ようやくここで、ゆっくりと膝を抱え、小さくうずくまった。そう、彼はこの場で命を絶とうとしているのだ。絶望や、涙も、今は何も感じない。

「…もう全て枯らし尽くした、俺の身体から湧き出てくることもないだろう。早く終わりにしよう」

痰を喉の奥で鳴らすような薄汚い声。

その首から、ぶら下げているのは、古びた小さく折り畳んである遠眼鏡。無意識に右手がそれを掴み、強く握りしめた。男の脳裏で昔の激しい記憶の蘇りが起こり、苦痛の表情で目を閉じ、抱え込んだ体に力を入れて自分の存在を小さくしようとした。

あぁ…未来永劫忘れない、あの恐怖を、己の罪の重さ、脆さ、そして…。


――父ちゃんっ…。


海の波が、岩海に激しくぶつかり、大きな音をたてた。

「もう二度と、ここへは行かないと決めていたのに、俺は、また…」

そう言って男はただ、静かに手をやり、耳を塞ぐしかなかったのだから。


 遡ること二十五年前の事だ。この島は、いまよりずっと海がとても美しく見える良い土地だった。その頃男はまだ幼く、やんちゃ坊主でありながら、漁師の息子だったという。父は、誰よりの島を愛した男。「人も、動物も、皆、自然の一部に過ぎない」いつもそんな事を言っていた立派な父親だったそうな。母は、病で二年前に他界していて、今は父と息子。決して裕福な生活ではないが、何とか暮らしていけることが出来ていた。


ある早朝、いつものように漁に出かけるために、支度をしていると、父が和船に乗って、見せたいものがあると誘われ、そのまま海へ出た。温厚で、気遣いがよくできた人だったので、時々、男の頭を優しく大きな手で、なでてくれた。なぜそのような事をしたのかは、今なら何となく分かる気がする。この時だからこそ…。きっと、漁師の息子として期待を胸に膨らましているという事だったのかもしれない。


 心地よい潮風に吹かれながら、波はとても穏やかで、気持ちが良かった。和船を漕ぐのは、もちろん父。櫓を慣れた手付きでゆっくりと前へと進んでいく。水の香りと、青々とした雲ひとつない秋の空。父とこうして、仕事以外で出かける度、そのことを考えずに、喋らず、ただ隣にいるだけでいい。目を自然と閉じれば、海と心をかよわせる事が出来そうな…。この時間だけ感じられる不思議な気持ちだ。島は、今日も静かな証拠ということだろう。和船の上を見上げれば、ウミカモメの大群が集まり、とれたての魚を狙ってるんだ。そう、彼等も生きるために賢い生き物なんだ。

しばらくすると、東側の方に小さな島が見えてきた。あれは、昔からある灯台だという。ここからだとまだその確信はないが、おそらくそうだと思う。どんどん近づくに連れてそれは本当になった。全身真っ白な色が特徴的だが、いつ建てられたのかは不明で、父がまだ子供の頃には、既にここに人が住んでいたと聞かされていた。今はもう、使われてはいないそうだが、あそこには妙な噂があるのだ。島で誰かが海で亡くなるたびに、日が沈んだ頃になると勝手に光を放ち、点滅する。実際には見たことはないが、島の人達がその話をしているのを何度か耳にする。そのうち、あそこには死んだ人の魂が宿り、海に出る漁師たちを見守ってくれていると言われるようになった。船幽霊にでもなったつもりかと、最初は面白半分で聞いていたが、父はその話は全て事実だと言う。あの灯台は生きている…と周りがそう言い始めるようになったのは最近の事。いつも誰かが死ぬたびに無人で光るという。だが自分の目で確かめない事にはなんとも言えない。そのおかげで、仕事以外でこうして無人の灯台を掃除しに、和船を近くの陸につかせて、岸の上を歩く。それは毎週土曜に行い、今日がその日なのだが、いつもより汚れていない気がする。表面が白いから逆にちょっとしたのでも目立つが、それにしても珍しくキレイだ。

「しっかり拭くんだぞ。汚れていなくても、済から磨いていくんだ」

父が、島の近くにある山から湧いているきれいな水を汲みに、この日のためにわざわざ大量に持参してきていた。水をたくさん含んだ手ぬぐいを力いっぱい絞って、二人で灯台を掃除していく。本当にここに死んだ人の魂が宿るなんて信じられない。ここに来るたびにいつもそう思うのだが、こんなふうに考えている自分に対して、父はどう思っているんだろう。

「静煉。何ボッとしてんだ。手を早く動かせぃ」

父のたしなめに、考えるのをやめて、作業に戻った。それでも気になっていたので、試しに

ちょっと聞いてみようと思う。

「ねぇ、父ちゃん」

「なんだ?」

「…この灯台には海で死んだ人の魂が宿るって、島の人もみんなそう言ってるけど、僕には、今イチ信じられないんだ。実際には見たことないし、そういうものとかって信じられるの?」

少年の名は、静煉という。歳は六つだが、それにしては少し落ち着いている話し方で、その問いに父は、手を止めずにそのまま答えた。

「いいか、静煉。この世には、人には見えない不思議な出来事があるんだ。俺らは肉眼で見えるものが全てだと、お前のじいさんから代々言い聞かされてきた。「それが時に、仏様はこの世界にイタズラをしに来る」それが、言葉では説明がつかない出来事なんだよ」

幽霊も、怪奇現象も、それは仏が落とす小さな贈り物。

この頃の静煉には少しばかり難しい説明に首をかしげるばかりだった。

「神様がうっかり落としちゃうの?」

父はようやく手を止めて、灯台を見上げながら言った。

「そうだ。祟りの前兆なのか、そもそもどうしてこいつが光るのかは、父さんにも分からない。でもな、一度だけ見たことがるんだ」

静煉は手ぬぐいを絞りながら、その言葉に好奇心が芽生えたかのように、やけに食いつき、そのまま動きを止めてしまった。

「ほんと?みたの?」

すると、先程までの表情が一変し、暗い表情をする父。

「お前のじいさんがあの事故で亡くなった時に一度見たんだ。めったに光らないこの灯台が光った。島の人達は大騒ぎさ」

動きをとめていた静煉の水桶に顔が映り、そこに一滴の水が落ちると、波紋が出来上がって揺れ動いた。

「あれは、悲惨な事故だった。あの島で一番辛い出来事だったよ…」

静かに目を閉じながら、腕を組み、当時のことを語りだした。







※一話はここまでです。誤字等、おかしなところがありましたらご了承ください。2話は作成中です。よろしくお願いいたします。

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