第7話 かつての惨劇

私達は御神体に拝してから集会所に移り、シズ婆さんの話を聞きました。


「宗比古、皆に出前を取ってやりな。皆も長くなるが聞いておくれ」

そう言ってシズ婆さんは話を始めました。

覚えている限り正確に書きます。


200年と少し前、江戸時代が末期にさしかかろうとしていたころ。

この辺りには◯◯という村がありました。

この村が核となり周りの村と合併を繰り返してできたのが今私達が住んでいる◯◯町です。

当時この地域には私達の町の基となる村々以外にも集落がありました。

今では存在しないその集落は、不法者や謀反人あるいは、住んでいた土地を捨てて逃げ出した無戸籍者など、共同体から弾き出された者達が寄り集まった集落がほとんどで、他の村々からは部落差別の対象となっていました。


村々の住人は今では信じられないような侮蔑でそれらの集落を忌避しており、時には若い男衆が連れ立って集落に出かけていってちょっかいを出し、抵抗する部落民を半殺しにしたり、若い娘を手籠めにするなどという狼藉を働いたりもしていました。

悪漢さながらの狼藉でも相手が部落民だったらお咎めなしという、不条理極まりない状況に部落民は晒されていました。

当時はそれが普通だったのです。


私達の先祖はその部落に住む人々を穢多と呼んで蔑んでいたのですが、わずかながら商売の交流がありました。

彼らが山などで取ってくる獣肉と衣服などを交換するのです。

当然そこにも差別意識は存在しており、相場を下回る金額で買い取っていたため、彼らの生活が良くなることはありませんでした。

それでも交流は続きました。

彼らにとっても取引相手は私達の先祖の町しかなかったからです。


私達の先祖の中に、古くから商売で財を成してきた家があり、当主の名を矢作藤右衛門やはぎとうえもんといいました。

藩に献上する馬を育て、不適合な馬は農民などに売ることを許されていた矢作家は、その馬喰商ばくろうしょうの利益をもとに商売を手広く行うようになりました。

その代の当主である藤右衛門は村役も務める人情の熱い人物で、近隣の村々にも顔がきく地域きっての豪商でした。


その藤右衛門には良くできた息子達がおり、長男の名を藤吉とうきちと言いました。

藤吉は藤右衛門の仕事を手伝いながら、半ば家督を継いだような状態でした。

弟や妹達の面倒をよく見る長兄で、父親同様に周囲の評判も良く、将来の村長ともてはやされていました。


そんな藤吉が部落の娘と恋仲になりました。


父親の代理で商売のために部落に赴いた藤吉は、あろうことか部落の中でも一際貧しい身なりの娘を見初めてしまい、何度かの逢瀬の後、娘を連れ出して藤右衛門の元へと連れて行きました。

藤右衛門は烈火のごとく怒り娘を手打ちにすると言いました。

刀を抜いて斬りかかる藤右衛門から娘を庇った藤吉は、その場で家督を弟に譲ると言い放って娘とともに部落へと逃げて行きました。

娘の実家に転がり込んだ藤吉は、家を捨てた男として部落民の資質こそあったものの、つい先ごろまで部落に対して居丈高な商売をしてきたことから、部落民に受け入れられることはありませんでした。

妻となった女・サトとともにサトの実家に暮らし、持っているものを全て売って食料に変えていました。


サトは身ごもって男の子を産みました。

名を鶴丸と名付けました。

その後、近隣の村々による部落への嫌がらせは激しさを増していきます。


長男を失った藤右衛門は半ば隠居のようになってしまい、藤右衛門を哀れに思った村人や、藤右衛門に取り入って利益を得ようと下心を持った村人がわざと部落を襲って藤右衛門の機嫌を取ろうとしていたのです。


部落を襲う村人達の襲撃は日毎に苛烈になっていきました。

それまでは良くて罵倒、悪くても半殺しといった具合だったのが、藤吉の一件以降は良くて半殺し、ひどい場合は死に至る暴行を加えました。

藤吉は部落民の前に引きずり出され、どうしてくれるんだと詰る部落民の前で土下座をして懇願しました。

どうか部落にいさせてくれと。

妻との間に授かった息子を哀れんでくれと。

そうしてギリギリのところで藤吉親子は生活していました。


部落に落ちのびて始めて、彼らが穢多でも非人でもない普通の人間であると思い知った藤吉は懸命に働きました。

山や野で獣を取ってくる。

畑に出来そうな土地を見つけては開墾する。

補修が必要な家や村の設備があれば進んで無償で補修する。

ごく短期間の間でしたが、藤吉は部落に受け入れられようと必死で努力していました。

中には藤吉の働きを評価する部落民も出始め、藤吉一家は慎ましいながらも未来にかすかな明かりが灯ったような、そんなささやかな希望を信じて暮らしていました。


そんな時、もう何度目になるのかもわからない襲撃が起きました。


ある日、藤吉が山から獣を担いで部落へと戻っていく時、遠くを駆ける馬に乗った男達の姿を見ました。

男達は刀や棒を背負い部落の方へ向かっていました。

襲撃だ、と理解した藤吉は部落へと走りました。

当時、馬に乗れる農民といえば藤右衛門と親密な関係の近隣の村役かその息子達です。

藤右衛門に気に入られたい彼らの襲撃は常に苛烈でした。


そして藤吉がたどり着いた時、部落はめちゃくちゃに荒らされた有様となっていました。

何人もの部落民がうずくまり、中には明らかに死んでいるとわかる者もいました。

藤吉は妻と子供の身を案じて走りました。

家に帰り着くとそこには無事でいる妻子と義両親の姿がありました。


家族で抱き合って無事を喜んでいると、不意に戸が開けられ男が声をかけてきました。

男は藤吉の部落への奉仕を最も評価していた男でした。

村長の一家がほぼ全滅しており村長の息子が死にかけている。

今は黙って家の中にいろと男は言いました。

そしてその夜、村長の息子が息を引き取りました。

再び戸が開けられ、藤吉が目をやると怒りに満ちた部落民達がなだれ込んできました。


逃げろ!


先ごろ家にいるように忠告してくれた男の声が聞こえた気がしましたが、逃げる間も無く藤吉は家の外に引きずり出されました。

部落民達は口々に藤吉を罵りながら藤吉を殴打しました。

藤吉は蹲って暴力の嵐が過ぎ去るのを耐えていました。

その時、良く耳に馴染んだ声が悲鳴をあげるのを聞きました。

殴られ蹴られながら、藤吉が周囲に目を向けると、裸に剥かれたサトが男達に組み敷かれているのが見えました。

藤吉は立ち上がりサトの元へ向かおうとしますが、立ち上がろうとしたところを下から腹を蹴り上げられもんどりうって倒れました。

サトの声は聞こえなくなっていました。


そしてどれほどの時が経ったのかわかりませんが、藤吉が目をやると裸で血だらけになって倒れている妻が見えました。

その顔はこちらを向いており、藤吉のことを見ていますが目が合いません。

サトは事切れていました。

サトの元に何かが投げ捨てられました。

それはすでに動かなくなった息子でした。


藤吉は涙を流しながら妻子の元へ這いずっていきました。

周りでは男達が何かを怒鳴りあっていました。

時折また蹴りつけられましたが、藤吉は愛する妻子の元へと急ぎました。

まるで夢の中にいるかのように体が動きません。

それでも必死にサトと鶴丸のそばまで辿り着いたとき、二人が死んでいるのがわかりました。


絶叫を上げる藤吉を誰かが担ぎ上げました。

そしてそのまま枯井戸の底に放り込まれました。

ゴキッと骨が折れる音が聞こえました。

ドサッ!ズルッ!という音と上からの衝撃がありました。

痛みと絶望で涙が溢れる目で藤吉が見たものは、藤吉同様に枯井戸に投げ捨てられた妻子の亡骸でした。


「うぅ……ぐ……くふぅぅううぅ………」


藤吉は何も考えられませんでした。

頭が真っ白でした。

目の前で死んでいる妻と子が可哀想で泣きました。

痛かっただろう、怖かっただろうとサトの身に起きた悲劇を思って泣きました。


「……………ろ」


「………だ……吉………」


「……生……藤吉………」


暗闇の中から意識が浮かび上がってきました。

力尽きて気を失っていた藤吉のすぐそばで呼びかける声が聞こえました。


「藤吉!生きろ!!」


気がつくと義父が藤吉の体に縄を巻きつけているところでした。


「すまんサト!すまん鶴丸ぅ!藤吉ぃ…すまん…すまん…」


義父は泣きながら藤吉の体をグルグル巻きにしていきます。

やがて上の方に声をかけると、上から垂れてきていた縄が引かれ始めました。

グイッ…グイッ…と藤吉の体が持ち上がっていきます。

身体中の骨がどうにかなっているようで全身を激痛が襲いました。

藤吉は歯を食いしばって耐えました。

これからどうなるのかわかりませんが、妻子のためにも自分は絶対に諦めるわけにはいかないと思いました。


そうして井戸から引き上げられた藤吉は地面に転がされ縄を解かれました。

激痛に耐えながらなんとか立ち上がります。

そこには義母と、部落で唯ひとり藤吉一家を気づかってくれた男が立っていました。

義母は藤吉を見て口を手で押さえて嗚咽していました。

男は苦い顔で藤吉を見ていました。

義父が井戸から自力で出てきました。


「藤吉……逃げろ……」


義父が言いました。


「すまんかった……お前達がなぶりものにされとる間、わしらは何もできんかった……サトどころか……鶴丸まで……」


そう言って義父も地に手をついて嗚咽しました。

そして決然とした顔を藤吉に向けました。


「藤吉!逃げろ!お前だけでも逃げろ!」


藤吉はもちろん逃げるつもりでした。

自分まで死んでしまっては妻子に申し訳ない。

その気持ちでギリギリ立っていました。


「父サマ、母サマ、どうされるおつもりですか?」


藤吉は義両親に尋ねました。


「わからん」


そう言って義父は首を振りました。


「そんなことよりも藤吉、行け」


義父が肩を貸してくれ森へ向かって歩き出しました。

森の中に入って見つからないように逃げろということです。

音を立てないように森へ向かってなるべく急ぎました。

しかしいくばくかの間もなく喧騒に取り囲まれました。

部落の男達は義両親が藤吉を助け出したところを見ていたのです。


あっという間に包囲され、男がとりなすために部落民へと歩み寄って行きました。

男は殴り倒され引きずられていきました。

そして義母が角材で頭を殴りつけられ倒れました。

義父が「ああ…」と言って義母の元へ駆け寄りました。

その義父の背中に斧が突き立てられました。

倒れていく義父の背中を呆然と眺めた藤吉の中に諦めの心が生じました。


その時、村の外から騒がしい声が聞こえてきました。

馬のいななきとガチャガチャと鉄が鳴り合わさる音。

そして気勢を上げる声が多数。


ダカカッ!ダカカッ!と馬の足音が大きく響いて、不意に部落民の一人が吹き飛びました。

続いて何頭もの馬が藤吉のすぐそばにいた部落民を蹴散らしながら通り過ぎていきました。

馬に乗った男達が愉快そうな声を上げていました。

男達の一人の若者に見覚えがありました。

藤吉が商売で訪れた周辺村の村役の息子でした。


名は確か、二郎太。


昼間に続いて夜間にも襲撃をかけてきたのだろうか、それとも別の村の人間だろうか。

ふと藤吉は考えましたが、すぐに頭を振って考えを打ち消しました。

今、考えるべきことは一つだけ。

あの男達に村まで連れて帰ってもらう。

それしか藤吉の生き残る道はありませんでした。

男達は部落の奥まで侵入し、夜中で人気のないことをいいことに部落中を走り回って、戸板を壊したり誰もいない集会所を打ち倒したりしていました。

そしてあらかた暴れ終えたのか、部落の入り口方向へと戻ってきました。


このままでは行ってしまう。

藤吉は動かない足を懸命に奮い立たせて歩きました。

藤吉を取り囲んでいた部落民はどこかへ行ってしまったようでした。

両手を広げて道の真ん中に立ちます。

痛みでうずくまりそうになりますが必死で立ち続けました。

ここで彼らを逃せば藤吉はさらなる暴力にあって死ぬしかありません。

男達を乗せた馬が藤吉の方へ走ってきました。


「止まってくれ!」


藤吉は声の限りに叫びました。

男達は馬を止め藤吉に怪訝な目線を寄越します。


「なんだお前。殺されてえか?」


藤吉が顔を知る男が前に出ました。


「△△村の二郎太さんだろ?」


藤吉は男に向かって呼びかけました。


「ああ?」


呼びかけられた二郎太が怪訝な表情を強くして凄むような返事をしました。

藤吉は跪きました。


「◯◯村の矢作藤右衛門の息子の藤吉です。どうか助けてください」


二郎太ははあ?といって馬から降りてきました。

藤吉のそばまで近づいて藤吉の顔をマジマジと見ました。

藤吉は殴られすぎて人相が変わってやしないかとヒヤヒヤしました。


「おい!あんた藤吉さんかよ!矢作さんとこの若旦那!」


二郎太が驚いて声を上げました。

助かった!藤吉はそう思いました。


「ここで…捕らわれて…殺されそうなんです…どうか……」


「すまねえ!こんなことになってると知ってたらもっと早く助けてやったのに」


二郎太はそう言って藤吉に肩を貸して立ち上がらせます。


「帰ろ帰ろ!こんなとこにいちゃあいけねえ!おいお前ら手ぇ貸してくれ!」


男達に馬に担ぎ上げられ藤吉は二郎太の背中に寄りかかりました。

藤吉の体と二郎太の体を縄で固定する時、また全身が痛みました。

走り出した馬の上で痛みをこらえながら、藤吉は今日あったことを二郎太に話しました。


昼間の襲撃の後、妻子もろとも殺されたこと。

自分も死ぬ運命だったが義両親に助けられたこと。

逃げ出す寸前で再び囲まれて義両親も殺されたこと。

二郎太達が来てくれなかったら確実に死んでいたこと。

そんなことを話し終えると、二郎太が不思議そうに言いました。


「俺らもさ、なんでこんな夜中に部落なんぞ来たのか不思議だったんだよ。昼間に□□村の奴らが部落を襲ったのを聞いて、なんでか俺らも居ても立っても居られなくなってさ、そんで来てみたらおめえさんが死にそうじゃねえか。不思議なもんだよな」


当時、部落を襲撃するのは周辺村の若者の娯楽のようなものでした。

それを知っている藤吉でしたが、少しでも部落民として生活した身としては、二郎太達や□□村の若者達の蛮行には虫唾が走りました。

それにしても、夜中にもかかわらず部落を襲撃しに来たというのはどうにも腑に落ちないものがありました。

そんなことを考えながら藤吉は意識を失って二郎太の背にもたれかかりました。


気がつくと藤吉は実家の自室で寝かされていました。

どうやら二郎太達は無事に藤吉を村へと送り届けてくれたようでした。

身体中が痛くて起き上がれませんでしたが、布団から這い出て障子を開けて外の様子を伺います。


外は明るく、稼業に従事する家人達が忙しなく働く様子が見えました。

廊下を歩いてくる足音が聞こえ、襖が大きく開けられました。

顔を上げると藤右衛門が藤吉を見下ろしていました。


藤吉は震えました。

家を捨てて飛び出し、この有様で戻ってきた自分を父が何とするか。

優しくも厳しい父は自分をここから叩き出すかもしれない。

そう考えると恐ろしかったのです。


震える口で父に呼びかけようとしましたが、声が出ません。

喉が酷く乾いてゼエゼエとひくつくような息が漏れました。

藤右衛門は藤吉の傍に膝をついて藤吉の肩を抱きました。


「何も心配することはない。ここはお前の家だ。よく生きて帰ってきた」


そう言って藤右衛門は藤吉の背中を優しく撫でました。

藤吉は父の腕の中で泣き崩れました。

母親がやってきて父と同じように藤吉を抱きしめ、それから藤吉を布団に戻し白湯を飲ませてくれました。


ようやく話せるようになった藤吉は家を出てから今までのことを全て家族に話しました。

全てを語り終えた時、同席していた三男の藤三郎が拳を畳に打ち付けました。


「エッタども!行いまでも畜生か!」


立ち上がって出て行こうとする藤三郎を藤右衛門が制しました。

今は藤吉の回復が優先だと言いました。

藤吉が再び眠りにつくと、藤三郎は男達を連れて部落に乗り込み、枯れ井戸に投げ捨てられたサトと鶴丸の亡骸を連れ帰ってきました。

矢作家の墓の隣に簡素な墓石を建てて妻子は埋葬されました。


それから半年、藤吉は体の回復に集中していました。

体が癒えるまでの間、藤吉は家と神社を往復していました。

家で療養する以外は神社でひたすら祈祷をし続けました。

妻子の供養とは別に、藤吉がひたすら祈り続けたのは、


『あの忌々しい部落を根絶せしめたまえ』


というものでした。

常軌を逸した熱心さと誠実さでひたすらに願う藤吉の姿に憐れを催した祭神は、穢れた部落の根絶を許したのでした。

このことが今になっても祭神が悔やんでいることでした。


もともと村の祭神として村を見守っていた神は、穢れた血脈である部落へと駆け落ちていく藤吉を憐れんで殺される寸前で救いました。

そして藤吉の真心からの呪いを叶えてやりたいと思ってしまったのでした。

今となっては悔やまれるその決断も、当時は疑問に思うことはありませんでした。


祭神の意思に呼応するかのように村々で部落に対する怒りが募り、藤三郎を筆頭に討伐隊が編成されました。

藤右衛門が武勲者に多額の報酬を出すと宣言したのも良くありませんでした。

そのため地域中の男衆が勇んで参加することになったのです。


血気が湧きすぎて一種異様な興奮状態となった討伐隊は問答無用に部落へとなだれ込み、次から次へと部落民を殺害していきました。

藤吉一家にした仕打ちと同等以上の報復でもって部落民を根絶する。

藤右衛門の報酬目当てに我先にと部落民を縊り殺していく男達。

凄惨に凄惨を極めエスカレートしていく殺害方法。

誰もが正気ではありませんでした。


地獄を顕現せしめたような凄惨なる殺戮の跡地は、当然ながら凄まじい怨念が渦巻く忌み地となりました。

我に帰った村人達は、誰もがその後、部落にまつわる話をすることなく過ごしました。

部落について語ることも禁忌とされ何年もの時が過ぎました。

あの殺戮がまるでなかったことのように、村人達の記憶の奥底に封印されていったのです。


そこから十数世代を経た昭和のある時、名もなき忌み地として忘れ去られた元部落の跡地に、ひとつの怨念が形を成しました。


部落民の血によって産み落とされ、その苦痛の呻きを子守唄に漂い続けた怨念の塊は、地域を守護していた祭神の力が及ぶうちは形を成すことはなかったものの、時代の変化とともに人々から信仰心が薄れてゆき、やがて祭神からも村人に対する興味が失われていった結果、ひとつの霊として存在するに至りました。


二世紀を経てなお薄まることのない邪悪な意思。

発生してからも長い時を祭神によって無為に過ごしてきたため、より研ぎ澄まされ熟成した怨念の渇望はただ一つ。


『部落の無念を晴らすこと』


かつて憎しみが憎しみを呼んだこと。

自分達が藤吉一家をリンチの末に殺害したことがきっかけであったこと。

当の藤吉一家は部落民の差別に耐えて善良に慎ましく生活していたこと。

それらの記憶は長い時の間で風化し忘れ去りましたが恨みだけは残りました。


恨みだけは決して手放さなかったのです。


長い間、祭神の力により押さえつけられていた苛立ちも恨みを醸成させるのに役立っていました。

そして祭神の軛から解放された今、潔いほどに恨み以外の感情を捨て去った純粋な怨霊として、かつて部落民であった者達の魂は寄り集まったのです。


かつて複数の村々として存在していた周囲の村落は、統廃合を繰り返してひとつの町となっていました。

高度経済成長とともに開発も進んで人の数も増えました。

怨霊がたどり着いた時、私達が暮らすこの町は田舎ながらも人の活力に満ち溢れる良い町となっていました。


そして昔ほど祭神の力は感じませんでした。

神社に祀られているのは感じるものの、かつて地域を覆っていた威圧感はすっかり失せていました。


祭神の代わりに経済成長という新しい神に信仰を捧げたかつての村人達は、あの殺戮の記憶をかけらほども持ち合わせずに、善良な市民として人生を謳歌していました。


許せない。


かつて自分達にしたことを忘れたばかりか、自らを護っていた祭神を祀ることすらやめて自堕落に生きているかつての村人達。


殺す。


忌まわしい彼の者達に血の報いを与える。

そのために200年を超える年月を忌み地で耐えてきたのだ。


許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。許せない。殺す。


そして惨劇から2世紀以上経った現代、かつての部落民達の魂は恐ろしい厄災となって私達の前に現れたのです。




「………………」


誰も口を開きませんでした。

シズ婆さんが話してくれたことは、曽根崎さんが持ち込んだ古文書よりもさらに踏み込んだ内容でした。


怨霊の成り立ち。

そのあまりにも身勝手な暴力の加害者であったのが自分達の先祖であったなど、誰も信じたくありませんでした。


「もしそれが本当だったとして、私らは死ぬしかないんですか」


誰かが言いました。


「いんや。アレの無念を晴らすために何ができるのか、皆で考えようじゃないか」


シズ婆さんが応えました。


村まるごと皆殺しにされた129人の無念。

そんなものどうやって晴らそうというのか。


「神様は何やってるんですか?」


また誰かが言いました。

おい、と咎める声も聞こえましたが、その声は止まりませんでした。


「そんな昔のこと、今更私達にどうにもなりません。それなのに神様は私らを守ってくれないんですか!」


そう声を張り上げたのは山谷さんという中年の女性でした。

普段の大人しい様子からは想像できないような強い口調に皆が驚きました。


「さっきの祈祷でもお願いしてみたさね」


その声にシズ婆さんは頷きながら応えました。


「だけどもねえ、昔と違って今は神様を信仰する者は少なくなった。今では神様により頼んでいるのはここにいる者達ぐらいなものだろうさ。信心を忘れた民を神様がどう扱いなさっても文句は言えないさね」


シズ婆さんの言葉に沈黙が訪れました。

神様は助けてくれない。

それどころかこの災厄は神罰だとでもいうような言葉でした。

しかし私の心には違う印象が強く沸き起こっていました。


「でも僕は神様に助けてもらった気がします」


あの日、神様の気配を感じた後に夢を見て、恐れを乗り越えた時のことを話しました。


「あんた達は熱心に神様の御用に取り組んでいたからねえ。神様の覚えもめでたかったんだろうさ。特別に目をかけてくださったのはまっことありがたいことさね」


シズ婆さんはニッコリと笑いかけてくれました。


「では私達は!」


山谷さんがまた叫びました。


「落ち着きなさい。さっきも言ったようにアレを鎮める方法は必ずあるはずさね。それを見つけ出すことが大事なんだよ。この町に対する神様の興味が薄れたとは言っても、それでもここにいる私らのことはちゃあんと見ていてくださる。信じなさい。あんたが神様を信じられないなら、神様はあんたのことをどうやって信じるのさ」


それからしばらくシズ婆さんの話を聞いて、若干の落ち着きを取り戻した私達は、それぞれ帰途につきました。

かつてこの町を守護していた神様は、時代の移り変わりとともにこの町との関係が薄まってしまった。

それは私達人間が神様から離れてしまったから。

だから神様としても、誰に頼まれるでもなく身を乗り出してまで私達を守る意義がなくなってしまったのだとシズ婆さんは言っていました。


神様はどこまで私達やこの町を守ってくれるんだろう。

家族とそんなことを話しながら、久しぶりにレストランで外食をして家に着きました。

その日の私の清祓いは、失敗ということになりました。

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