第334話 【真珠】結納前夜のコンタクト 後編
もし母から、バイオリンを弾くことを禁止されたら?
不安な思いが、心の中に生まれる。
何もできない自分自身が歯痒く、もどかしかった。
けれど、わたしは理解している。
今のわたしは、独りではないと。
わたしを守ろうと行動してくれた紅子と、何か考えがあって動いている貴志が、こんなに近くにいるのだ。
だから、ここは二人に任せ、自らは静かにしているのが吉のような気がする。
貴志が口にした雪崩の連鎖の内容と同じく、そういった心が知らせるサインには、素直に従ったほうがいいことも経験上知っている。
だから今は、お子様であるわたしが、すべき行動をしよう。
それを実行するのが、明日の自分のためになることもわかっている。
わたしが為すべきは、言わずもがな、即ち──就寝、だ。
睡眠不足では正しい判断が下せない。
万が一の事態に遭遇した場合において、自分にとって正しい行動がとれるよう、今は一刻も早く夢の世界に旅立つ必要がありそうだ。
正直言って、まったく眠くないのだが、ここは頑張ってでも寝るべきところだろう。
エルが言っていた「今宵は会えないだろう」という言葉の理由が、まさか自らの安眠努力のためだったとは、思いもよらなかった。
そうと決まれば、明日に備えて眠りにつかねばならない。
よって、わたしは、貴志に声をかけることにした。
「貴志、誠一パパからの連絡待ちのところを悪いんだけど、わたし、そろそろ寝るね」
彼を独り残して先に寝ることに対して、申し訳ない気持ちも勿論ある。
だが明日は、睡眠不足でパンクした子供脳に振り回されて、愚図ったり癇癪をおこしたりしたくない。
時計の針は、夜九時を回ろうとしているところだ。
「ああ……もうこんな時間か──そうだな、明日に備えて、早く休んだほうがいい。寝室のベッドでもいいか?」
貴志は父との話もあるのだろうし、居間の簡易ベッドを使うほうが勝手が良いのだろう。
わたしは頷いてから、躊躇いがちに貴志の手を引っ張った。
「あのね。もし誠一パパからの連絡を待っているだけだったら、ちょっとだけ……側にいてもらうことはできる?」
一緒には眠れないけれど、寝入る時は貴志のそばにいたかった。
多分これは、心に生まれた不安な気持ちが呼び起こす──子供の甘え。
わたしの様子を確認した貴志が、仕方のないやつだ、という表情で苦笑し、手を差しのべる。
「仰せのままに、お姫さま」
わたしがその掌に自分の手を重ねると、貴志が引き寄せた。
彼は、この身体をお姫様抱っこで持ち上げたあと、寝室まで運んでくれた。
…
枕辺で椅子に腰掛けた貴志が、紅子の奮闘ぶりを語る。
わたしは、ベッドで横たわりながら、静かにその内容に耳を傾けた。
葵衣と約束するにあたり、美沙子ママと葵衣の二人がこのホテルで鉢合わせすることを心配した彼女は、場所の変更を打診してくれたようだ。
だが、その提案は検討の余地なく却下され、先程の電話につながったという。
葵衣からは、宿泊先ホテルで両家の晩餐も控えているため、貴重な自由時間を移動で潰したく無い、との主張があった。
故に、会場変更は不可能だったと、紅子は溜め息と共に洩らしていたそうだ。
紅子でも人付き合いで苦労を感じることがあるのかと、その時の様子を想像してフフッと笑う。
わたしは、日中の科博で、遠目から見た葵衣の様子を思い浮かべた。
手弱女のような儚げな風情の彼女であったが、紅子の提案を蹴り、自分の意見を押し通したのは意外だった。
わたしが葵衣に対する感想をそう述べたところ、貴志は何故か苦笑いをみせる。
その微妙な笑いかたの意味を、わたしは完全に履き違えていたと知るのは、また後日の話。
そうなのだ。
あの紅子から、幼い頃の貴志を守っていたという葵衣が、わたしの感じたような単なる『か弱い女性』である訳がなかったのだ。
そしてこの時、わたしの意識は、美沙子ママと葵衣の接触阻止をいかにして成し遂げるかへと移っていたため、久我山双子兄弟の存在については何故か綺麗さっぱり失念していたという
それに加え、悲しい哉──思わぬ伏兵が家族の中にいたことが発覚し、茫然となる事態に陥ろうとは──まったくもって、知る由もなかった──月ヶ瀬真珠、結納前夜の一幕である。
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