第314話 【真珠】ルーカス!


「では、もうひとりの──プラチナブロンドの優男は?」


 確かに、見た目だけなら優男だ。

 エルのその言い方に、わたしは笑った。


 彼は、年の離れた兄のような存在。

 その容姿と卓越した演奏技術ゆえに、熱狂的な人気を博していた世界的なバイオリニスト──それが、わたしが恩師と呼んでいる人物の正体だ。


「彼はルーカス。わたしのバイオリンの恩師けん伊佐子の大家……というか、同居人」



          …



 初めて彼を目にしたのは、子供の頃のことだった。

 バイオリンを奏でる佇まいの美しさに目を奪われ、澄んだ湖水を彷彿とさせる水色の瞳に吸い込まれた。


 この世の中に、こんなにも綺麗な人間がいるのか、いや妖精ではなかろうかと、息を呑んだ記憶が懐かしい。

 ルーカスの姿は俗世間に渦巻く欲望の数々とはかけ離れ、わたしの目には崇高な存在に映った。


 日常的に尊というイケメン君を見慣れていた伊佐子にとって、三次元世界の男性に目を奪われる事自体が初めての経験で、自分の心の有り様に非常に戸惑った覚えがある。


 その後わたしは、ルーカスの信者となった。

 勿論それは、惚れ惚れするようなバイオリンの演奏技術あってのことだけれど。




 それから数年の時を経て、ひょんなことから彼に会う機会を得たわたしは『妖精貴公子との遭遇に抜かりはない! ルーカス様のお姿を此の目にしっかり焼き付けるぞ!』と鼻息も荒く出陣した、のだが──残念なことに、このルーカス。けがれを知らぬ清らかそうな外見とは、まったく真逆の性質の持ち主だった。


 平たく言うと、彼は挨拶代わりに愛の言葉を囁くような、割と不埒な人間だったのだ。


 初対面の挨拶にて、呼吸するかの如く甘い言葉を吐かれた暁には、全わたしの呼吸が止まった。

 それは、感動にて生じた現象ではなく──拒絶反応により凍りついたわたしの心が、瞬間的に停止したことを意味する。


 周囲にいた女友達は、わたしのその様子を見て「伊佐子にも、とうとう春が来た!」と囃し立てたが、見当違いもいいところ。ルーカスから受けた大打撃により、抜け殻状態になってしまっただけだった。



 長年憧れていたバイオリニストと会える喜びから暴騰していたルーカスの株は、対面直後に世界恐慌並みの大暴落と相成った──が、わたしを辟易させたルーカスの対応。あれは彼なりの処世術だった可能性が、後々に判明する。



 様々な巡り合わせにより、それ以降の時間軸にて彼との交流は増えていったのだが、何故かいい歳をして特定の女性と付き合うこともなく、かと言って遊んでいる様子も見受けられず──他人事ながらも、かなり不思議に思うことが何度もあった。



 それから更に数年が経過し、わたしはルーカスの自宅にて『健康管理』という名目で、半ば強制的に彼との同居を余儀なくされる事態に陥ることになる。

 それは、ルーカスと友人達から贈られた『無題ーFor Isakoー』を不眠不休で演奏し続け、意識を失い倒れるという自己管理不足の大失態が招いた結果のルームシェアでもあった。


 同居を始めた後も、彼の自宅を訪ねてくる女性の姿はなく、わたしは益々首を傾げた。


 彼は、そろそろ三十代半ば。子供がいてもおかしくない年齢だというのに、恋人と呼べる特定の女性の存在は私生活でも影すら見当たらず、「わたしが居候しているから、自宅に呼べないのではないか?」と申し訳なく思いはじめたのは同居開始後ひと月が過ぎた頃のこと。


 実は一度だけ「遠慮せずにガールフレンドを呼べばいい。場合によってはわたしが友人宅に外泊してもいい」と伝えたこともある。


 だが、ルーカスはその直後、何故か絶句してしまい、まったく会話にならなくなってしまったのだ。


 何かにショックを受けた様子を見せた彼の態度から、それ以降その手の話題を口にするのが憚られるようになり、二人の間で『男女交際の話題は避けるべし』という暗黙の了解が生まれていった。



 ──その後、わたしの心の中で『ルーカス、同性愛者説』なるモノが生まれていくことになる。


 発端は、周囲の友人達から度々耳にする、泣き言── 「清潔感あふれる見目良い男は、みんなゲイ」発言だ。


 大学院に進んだわたしには、ひと足先に学生生活を終えて社会人となった女友達の数もそれなりにいた。

 二十代前半の女子といえば、そろそろ結婚も視野に入るお年頃。

 将来の伴侶候補を求めていた彼女達は、素敵な男性を見つけるハンターと化していた。

 だが、再会のたびに、そんな文句をこぼす率が増えていったのだ。


 『清潔感あふれる見目良い男性』を想像した瞬間、わたしの頭の中に現れたのはルーカスだった。

 そこで、彼があの時口を閉ざした理由とその真実に、遅ればせながら気づいたのだ。


 ルーカスに女性との逢い引きを勧めて唖然とされた原因は、彼の秘密にわたしが触れようとしたからなのだと思う。



 それ以降、ルーカスに対して『カミングアウトしやすい環境』をつくっていこうと、わたしなりに奮闘もした。


 口にはしなかったけれど、「わたし、分かってます」感も前面に出した。


 水臭いじゃないか──と、目でも訴えたつもりだった。



 けれど、伊佐子の健闘虚しく、それはついぞ話してもらうことなく、わたしの前世は幕を閉じてしまったのだ。



 だからルーカスが、挨拶がわりに女性を口説いていたのは、世を欺くための彼なりの処世術だったのだろうと、今では理解している。




          …



 そんな一連の出来事を思い出し、懐かしさに目を細めたところにエルの溜め息が届いた。

 過去に飛んでいたわたしの意識は、一気に現実に呼び戻される。


「なんと言うか……お前に関わってきた男達が、心底……不憫でならない」


 エルの発言に、わたしは反射的に顔をあげた。





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