第310話 【真珠】エルの溜め息


「で?──我が女神──お前は、なぜここに居る? しかも、何だ? その警戒心皆無の格好は。来るならば、まともな服を着てからにしろ!」


 黒いベール──もとい、『聖布』を被り、身体を隠すように座り込んだわたしの上に、エルの呆れ声が降ってきた。


「お前は私のことを、いったい何だと思っているんだ!?」


 吐き捨てるように言い放った教皇聖下は、その後、深い溜め息をついた。


         …



 自分の身に何が起きているのか、すぐには理解できなかった。

 わたしの目の前に、なぜエルが突然現れたのか?──そこからして、わからない。


 首を傾げて黙り込んだわたしの困惑のほどが伝わったのだろう。エルは眉間に皺を寄せながら、羽織っていた黒の上着を脱ぐと、それをわたしに向かって投げて寄こし、背を向けてしまった。



 何がなんだか皆目見当もつかないが、わたしは貴志を怒らせただけでは飽き足らず、再会してものの数秒のエルの機嫌まで損ねてしまったようだ。



 が──おかしい。


 わたしは兄と晴夏、それから紅子に挨拶をしたあと、貴志の運転にて月ヶ瀬邸から『インペリアル・スター・ホテル』へ向かう車中にいたはず。


 先ほどまで、ドライバーである貴志の横顔をチロチロと何度も盗み見ていたと言うのに──これは、いったいどうしたことなのだろう。



 現状を把握する必要に駆られ、とりあえず周囲に視線を向ける。


 目の前には、エルの背中。

 天上には、太陽と月──……ん!?


 太陽と、月?


 あれ?

 わたしは何故、『太陽と月の間こんな所』にいるのだろう?



 前回ここに迷い込んだ時の記憶が、おぼろげながらよみがえる。


 あの時、エルは何と言っていたっけ?

 そうだ──彼は、こう教えてくれた。


『これは夢であって、夢ではない。誓約を結んだばかりだからな、繋がりが安定するまでは、こうやって互いの深層部分に迷い込むこともあるのだろう。お前は今──私の〈意識の中〉にいる』


 つまり今、わたしの心は迷子状態で、エルの精神世界を彷徨さまよっているということ?


 でも、どうして?


 エルの真名を呼び、『太陽と月の』で会う約束をしていたのは今夜のこと。

 この口はまだ、彼の名さえ呼んでいない。


 前回、この空間に足を踏み入れた時の出来事を回想したところ、現在自分の生身の身体がどうなっているのか──うっすらとではあるが、理解できた。


 車中のチャイルドシート上で、おそらくわたしは眠ってしまったのだろう。

 いくらなんでも寝過ぎだろうと思いはしたが、昼寝から覚めたあとも、わたしの心はせわしなく乱高下していたことを思い出す。


 不安に怯え、衝撃も受け、母に泣きついた本日。

 心的疲労の重なった幼い身体に車の振動は心地良く、そのまま眠気に飲み込まれたのかもしれない。


 その予測が正しいとするならば、わたしの身体は貴志の隣にて、うたた寝の真っ最中。

 眠る身体を置き去りにした意識が、お散歩よろしくエルの心の領域に土足で踏み込んでしまったことまでは推察できた。




 この場に無断で侵入したのは、今回で二度目。


 エルは自分の上着をわたしに被せたあと、すぐに顔を背けてしまったのだが、この目に映る背中からは何某なにがしかの憤りを感じた。


 それもその筈──自分の精神領域に、黒い薄絹しか身に纏っていない女が現れたら、何とするか。


 ……女。


 いや、そんなオブラートに包んだ言い方ではイカンだろう。

 この格好……謂わば──痴女。いや、そんな言葉でも生ぬるい。

 ハッキリ言って、露出狂だ。


 ベールを被っているとは言え、その下は何故か素っ裸!


 前回はキャミソールドレスのような黒い下着を身につけていたはずなのに、今回は何故なにゆえに未着用なのだろう。

 既にそこからしてせぬのだが、此処『太陽と月の』には、妙な開放感と安心感が漂っているのは確かだ。


 そしてこの前同様、精神体でのエルとのご対面──つまり、わたしは二十代前半の女性の姿となっている。


 こんな格好で公道に現れる妙齢の女性がいようものなら、まさしく逮捕案件だ。

 己の黒歴史を着々と刷新してしまう『黒歴史クリエイター』街道まっしぐらの己の所業に対し、頭を抱えて「うー」と呻く。自分で言っておきながら、そんな二つ名、まったくこれっぽっちも欲しくない。



 自分がとんでもない格好をしていることが分かっても、羞恥心を感じないのが不思議だったが、それはおそらくこの空間に限っての特別仕様なのだろう。

 大手を振ってご披露するものではないことくらい、いくらわたしとて理解している。

 よって、自分の格好に気づいた瞬間、この身体を隠すように咄嗟に屈み込んだのが先ほどのこと。

 同時にエルの溜め息が落ち、彼の上着が投げつけられたのも、その時に起きたことだった。



          …



 エルは、すぐに背を向けてしまったため、彼が今どんな表情をしているのかは分からない。

 それでも、その背中から複雑な感情が伝わってくる。


 苛立ちと、諦め?──彼から伝わる気配は、一言で言い表すことができないものだった。


 いたたまれなくなったわたしは、謝罪の言葉を口にする。


「勝手に入り込んで……その、ごめんなさい。それから、た……大変お見苦しいものをお見せしてしまったようで、非常に申し訳ない」


 エルの反応を待つが一向に返答はなく、今度は妙な焦りが生まれる。


 どうしよう。

 「目が潰れる!」と激怒されたら、誠心誠意謝るしかないだろう。


 いや、そんな悠長なことを言っていては駄目だ。

 すぐにでも日本式謝罪で土下座をするべきなのかもしれないと判断し、行動に移そうとしたところ──エルの声が耳に届いた。



……? お前は、相変わらず……まったく分かっていないようだ。とりあえず、先にそれを着てくれ」



 自分の考えを読まれたことに気づき、ピシリと固まる。


 そうだった。

 此処は、エルの意識の中だ。

 自分の思考は、ほぼ筒抜け状態で彼に伝わってしまうことも思い出す。


 ──心理的に、ものすごく居づらい。



 この考えも読まれているのだろうか?

 そう思った瞬間、再びエルの深い溜め息が響いた。


 重苦しい──そして、気まずい。


 立場上、感情を表に出すことを良しとしないエルも、わたしが前触れもなく意識の中を訪れる事態に、かなりご立腹なのかもしれない。


 それもそうだろう。

 安息の場所である無防備な精神領域に、自分以外の人間が突然現れるのだ。

 そんなことが連日続いたら、身構えてしまい、落ち着くことさえできない。


 しかも、登場したわたしは、この格好。

 その無礼な装いに対して、呆然となっている可能性も高い。



 でも、結局のところ、彼が何に対して怒り、何故沈んでいるのか、本当の理由は何もわかっていない。



 この状況を切り抜けるために、彼の心情を理解する必要があると踏んだわたしは、二人の立場を入れ替え、エルの気持ちを疑似体験することに意識を傾けた。



 寛いでいる時間。

 わたしの意識の中に、エルが何の前触れもなく訪問してきた状況を想像する。


 ん?──あ……れ?

 これって、謂わば──心の不法侵入?


 しかも、服装に至っては、聖布一枚のみを身に着けての登場だ。


 こ……これは!?


 その光景を思い描いたところ、サーッと血の気が引いて青くなる。


 わたしでなくても、ドン引くこと間違いない。



 エルの心情までは残念ながら理解できなかったが、ひとまず服を着なければいけないことは分かった。


 投げつけるように渡された黒の上着に慌てて袖を通したわたしは、居住まいを正してから彼の名を読んだ。








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