第306話 【真珠】ありがた迷惑!


 祖母が目をすがめ、頬に手を当てながら首を傾げた。


「じゃあ、お父さんが口にしていた、女性に傷がついた、って、一体何のことなのかしら? わたしはあの人の話から、てっきり……」


 貴志は、肩をすくめる。



「そんな事、俺が知るわけないだろう? それに、考えてもみてくれ。俺は真珠と婚約関係──しかも明日には結納を控えている身なんだ。契約とは言え、真珠コイツを大切にして、うしろ指を刺されないよう心がけると、昨日母さんと美沙の前でも宣言したばかりだ。俺が舌の根も乾かないうちに、そんな真似をする人間だとでも?」



 母は、貴志の言葉に、どこか釈然としない態度を見せる。


「それは、確かにそうなんだけど……でもね──」


 母が何かを言いかけたような気がした。

 けれど貴志は、その言葉に被せるようにして不服を申し立てる。



「正直に言うと、久々に戻った実家に女性を連れ込んで、そんな真似をする人間だと思われていたことのほうが心外だし、衝撃だった──俺はケダモノか!?」



 通常よりも荒い語気に、貴志の怒りの程が伝わってくる。



 ──そうだった。

 その気になれば、貴志には豪華ホテルのスイートルームがある。


 実家に女性を連れ込むような真似をしなくとも、如何いかがわしい遊びをしたいのであれば、そこで密会するチャンスはいくらでもあるのだ。


 その事をようやく思い出した母と祖母は、それもそうか……と神妙な顔つきを見せた。


 二人は、頭から貴志を疑ってしまったことに対して謝罪する。

 この様子からも、祖父の伝え方に何かしらの問題があったことがうかがえた。


 祖父は二人に、何を伝えていたのだろう?

 そこに、祖母と母が誤解した理由があるはずなのに、予測さえままならない。



「母さん、美沙──父さんは、二人に何を話したんだ? いわれのない話だったが、今まで二人からの非難を甘んじて受け入れた俺には、詳細を聞く権利があるはずだ」



 貴志もわたしと同じく、母と祖母の態度に疑問を感じていたのだろう。そして、その原因は、祖父から彼女達に伝えられた言葉が発端だということまで辿り着いたようだ。



 祖父が、何かしらの誤解を招くような話題を二人に伝えていることを察した貴志は、先ほどから黙って叱責を受けた代償に、その情報開示を要求した。


 母と祖母は、二人して顔を見合わせたあと、何故かわたしを気遣わしそうに見つめた。

 その様子を目にした貴志が、再び溜め息をつく。



「真珠がいる前では、話したくないこと……なんだな──分かった。今夜は明日の準備もあるから、もう少ししたら俺はホテルに戻る。詳しいことは明日、父さんから直接確認する」



 貴志は二人に対して、親子会議に対する締めの言葉を伝え、ソファから立ち上がる気配を見せた。


 だからわたしも、この会話はここで終わるものだとばかり思っていた──のだが、それは祖母の発言により覆されることとなる。

 なぜならば、祖母が、とんでもない話を口にしたからだ。



「貴志──お父さんが、その……加奈さん、だったかしら?──彼女の事をね……『〈三国一の花嫁候補〉だ』とおっしゃって──早速、彼女の身辺調査の指示出しを開始したのよ」



 貴志の動きが、ピシリと固まった。

 それは、わたしにしても同じことだ。


 祖母は、尚も話し続ける。


「二人でシャワーを浴びていたという話と、女性に傷が……という話、それから、お父さんの花嫁候補発言で、わたし達はてっきり……そちらのお嬢さんとあなたが、そういった関係なのかと勘違いしてしまったの」


 そして、祖母はわたしにそっと視線を移す。

 わたしの初恋が貴志だと理解している祖母の、孫を想う気持ちが伝わった。


 今度は、祖母の言葉を受け継いだ母が、口を開く。


「今回の真珠の救済措置の件もあって、あなたが家族に対して、本心を隠していたのだと思ったのよ。本当はそちらのお嬢さんとの将来を考えていたかもしれないのに、一言も話してもらえなかったと……お母さまもわたしも、ガッカリし──」


 祖母が母の言葉の途中で手をかざし、首を左右に振った。


「美沙子──何を言っても言い訳にしかならないから、もう、よしなさい。貴志──あなたのことを疑ってしまって……本当にごめんなさい。取り乱してしまって申し訳なかったわ。あなたが昨日口にした『真珠を大切にする』という言葉を、わたし達はもっと真剣に捉えておくべきだったのね。孫のことを気遣ってくれて、本当にありがとう」


 祖母も母も、何か大切な言葉を連ねているような気はするけれど、おそらく貴志の耳にはまったく届いていないだろう──謝罪の言葉の前に祖母が語った、祖父の指示出しの内容が衝撃的過ぎて。


 それは、わたしにしても同様だった。

 現在、彼女達の言葉は、左耳から入って右耳に抜けていくという有り様。


 貴志は、祖母が何を語ったのか、未だに理解していないようで、眉間に皺を寄せている。


 おそらく彼の頭の中は、祖母が最初に発した言葉の意味を正しく呑み込もうと、彼女の科白を反芻しているのだろう。一度だけではなく、二度、三度と。


 いや、もしかしたら、分かっているけれど認めたくない、という思いのほうが強いのかもしれない。



 時間にしておよそ二十秒──話の内容を、意味成す言葉として受け取った貴志はガバッと立ち上がり、仁王立ちなると、再び動かなくなった。



 深呼吸をした貴志が、ゆっくりと、唸るような声で、二人に対して問いかける。



「母さん、美沙──聞き間違いであることを願うばかりだが、念の為に確認をしたい。それは、誰の、『花嫁候補』、なんだ?──穂高か? それとも美沙の腹の中の子供か? 随分と、気の早い話だな」



 貴志が動揺のあまり、兄の名前と、まだ性別さえ分からない子供の存在を口にする。


 危険信号をキャッチした貴志の自衛反応だと思われるが、彼自身が予想した答えから、全力を振り絞って逃げ切ろうとしているのは明白だった。


 貴志の周辺から、昼間科博で感じたよりも更に黒い煙のようなオーラが漂いはじめたのは、おそらく気のせいではない。



 我が家で嫁取りをする男性と言ったら、現在のところ貴志、もしくは兄しかいない。

 けれど、適齢期に近く、加奈ちゃんと釣り合いがとれる年齢の男性と言ったら、間違いなく目の前にいる貴志だ。



 ギョッとした母が、貴志の言葉を即座に否定する。


「穂高である訳がないでしょう? あの子はまだ小学生なんだから」


 それに追い打ちをかけるように、祖母の至極冷静つ、ごもっともな言葉が居間に響く。


「貴志──夕べのあの人の『三国一の花嫁』探しの発言と、今の話の流れから言って、あなた以外に該当する人物がいるとでも?」


 わたしも思わず、母と祖母の発言に頷いてしまう。



 信じられないものを見るかのような目つきで、祖母と母を見おろした貴志は、今の今まで我慢を重ねてきた苛立ちを遂に大爆発させるに至った。



「なんだそれは!? 何がどうして、そうなったんだ!?」



 ──それは、是非ともわたしが聞きたい。


 沈着冷静、普段は温厚な貴志ではあるが、ここに来てとうとう堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。



 驚愕と憤怒──どちらともつかない気配を漂わせた貴志は、その後、力ない声で「勘弁してくれ」と呟いてから、ドサッとソファに沈み、今度は両手で頭を抱え込んだ。



 深くて長い──怒りを帯びた溜め息が、居間の中に広がっていく。



 今日一日のイロイロなアレコレが重なり、貴志の機嫌は果てしなく悪化してしまったようだ。



 わたしの頭の中に、昨晩のはっちゃけた様子の祖父の顔がポンポンポンッと複数現れ、見る見るうちに埋めていく。しかも笑い声つきで。



 目の前には不機嫌メーター振り切れ状態の、いかれる貴志。

 瞼の裏にはすこぶる上機嫌の、ほろ酔い加減の祖父。


 対照的な二人の顔が、わたしの脳内映像を即時占拠した。



 幼い孫娘であるわたしとの婚約が枷となって、貴志の婚期が遅れてしまうことを心配しての親心……なのかもしれない。

 けれど──お祖父さま、それは、間違いなく悪手です。


 貴志は加奈ちゃんにそういった特別な感情をいだいていないし、加奈ちゃんに至っては、貴志に人としての好意はあれど、恋愛対象としてまったく見ていないことは一目瞭然。


 お互いにとって迷惑なことこの上ない状況へと、祖父の手によって持ち込まれようとしているのだろうか。



 お祖父さま、それを人は──『ありがた迷惑』と呼ぶのです。



 ……いや、『小さな親切、大きなお世話』と言った方が、いいのかもしれない?






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